22

 忙しい五月が終わりかける頃、私は剛史に呼び出されて居酒屋にいた。バイト終わりですっかりお腹も空いていたけど、敢えて控えめに食事を摂っていた。

 半個室のテーブル席には、剛史と私の正面に、もう一組のカップルが着席している。一度、六等星で見かけた剛史の同僚である熊谷くまがいさんと、彼女の柚梨ゆりさん。剛史と同い年の二人とも会社員で、特に柚梨さんはほんわかした雰囲気にピシッとしたクリーム色のスーツが良い感じに調和していた。今は上着を脱いだ白いブラウスにタレが散る危険も顧みず、焼き鳥を美味しそうに頬張っている。

「唯依ちゃん、もっと食べなよ。この鳥モモ、美味しいよ」

 気を利かせて、柚梨さんがお皿を寄せてくれる。私はお礼を言って焼き鳥の串に手を伸ばした。他人の前でがっつくのはみっともないと、以前剛史に注意されてから、こういう場では慎重になってしまう。

「細いねえ。もっとお肉つけて体力温存しないと、これからの夏乗り切れないよ」

「柚梨の肉、わけてやれたらいいんだけど」

「こっちは真剣に言ってるの!」

 二の腕をつまむ熊谷さんの手を、柚梨さんがパシンと叩く。まるで高校生カップルのような睦まじさにこっちまで嬉しくなりながら、私は空きっ腹に鶏モモを落とし込む。

「それにしても、誕生日来たら十七とはいえ、まだ十六かあ」

 熊谷さんがほんのり赤くなった顔で腕を組んで、私の前にある烏龍茶のグラスに目をやった。金色に満たされたジョッキたちの中で、私の烏龍茶は明らかに浮いていた。

「おまえ、前の彼女も若かったよなあ。そんでも、二十歳とかだったけど。唯依ちゃんとどこで出会ったん?」

「スーパーだよ」

 そのジョッキを手にして、剛史が中身をあおる。逞しく筋ばった喉が動いて、今まさにビールが流れていることが分かる。

「唯依がスーパーでバイトしててさ」

「バイトの子、口説いたってこと? マジ?」

「別にいいだろ。ただのきっかけだよ」

 揚げ出し豆腐がテーブルに追加される。あたしのと柚梨さんが手を上げて、よく食うなと熊谷さんが呆れた顔をする。

「そういえば、今はカフェでバイトしてたような。確かこの前行った、六等星ってとこ」

「唯依にはこっちがの方が似合ってるって、俺が勧めたんだ」

 自慢げな剛史の言葉に、私は黙って微笑んだ。テーブル内で比較的カロリーの低そうなシーザーサラダを少しだけ小皿によそう。ドレッシングのたっぷりかかったレタスと、薄いベーコン、サクサクの四角いクルトン。

「帰ってから気になったんだけどさ、あの店、大体昼の営業だよね。学校が夜間でバイトしてるとか?」

 踏み込んだ質問に、柚梨さんが彼を睨んだ。草食動物のようにひたすらレタスを頬張る私の代わりに、剛史が返事をする。

「こいつ、学校行ってないんだよ。受験すらしなかったらしくてさ」

 彼の大きな手が私の後頭部を撫でて、髪をくしゃくしゃにする。私はレタスを食みながら、やめてよと軽く手を振り払う仕草をした。その様子を見る熊谷さんは、驚いて目を見開いていた。

「進学が全てじゃないからねー」

 彼氏の様子を見かねた柚梨さんが取り繕うように笑う。「今の時代、お金稼ぐにも色んな道があるし。あたしたちの時代とは違うのよ」

 ああ、まあそうか。曖昧に熊谷さんが頷いた。二人が必死に私という存在を理解しようと努力しているのが伝わって、私は気にしない風を装い喉に無理やり烏龍茶を流し込む。

「でもこいつ、やっぱり馬鹿なんだよ」

 再び剛史の手が私の髪をかき回して、私は怒った顔で頭を押さえた。もちろん、怒ってなんかいない。さっき目にした睦まじさを、正面の二人にも与えたい、と思う。

「東西南北理解してないってのは、俺も流石に引いたわ」

「だからあれは、勘違いだってば」

「計算とかも全然出来なくてさ。飯作る時も、いちいち電卓使ってんだぜ」

「料理は分量が命なの」

 剛史の少し誇張した話を、私はむくれ顔であしらう。確かに、恵方巻を食べる方角を間違えたり、分量の暗算が出来ない時がある。それがごく稀な現象であっても、剛史は嘘を吐いているわけではないのだ。

 マジかー。と熊谷さんが相槌を打ち、おまえが教えてやればいいじゃんとも笑う。

「唯依は馬鹿だからなー、キリがないんだよな」

 私はただ無邪気に笑って、一本だけ焼き鳥を食べて、まだ空いているお腹に二杯目の烏龍茶を流す。私が馬鹿なのは間違っていない。剛史は嘘を吐いていないから、嘘つきだとも責められない。少しの恥ずかしさを覚えながら、大人たちの会話を眺めている。

 やがて剛史がトイレに行くと腰を上げて、熊谷さんも一緒に席を立った。既に酔いのまわった二人が無事に戻ってこられるか心配だけど、二人もいるから大丈夫だろう。

 正面の柚梨さんと残されると、テーブルはたちまち静かになった。華金の騒々しさに囲まれて、私は少し狼狽える。この場合、年下の私はどれほど率先して柚梨さんに話しかけるべきなんだろう。自分の社会性不足が情けない。

「ねえ、唯依ちゃん」

 幸い、串から鳥皮を外しながら、柚梨さんから声を掛けてくれた。返事をする私に、小皿に移したそれを勧めてくれる。恐縮しながらこれ幸いと、私はお箸で鳥皮を摘まんで口に運ぶ。

「遠慮がなくてごめんね、唯依ちゃんは今の関係、満足してるの?」

「……どういうことですか」

 塩味の鳥皮を飲み込んで尋ねると、柚梨さんは剛史のいた席にちらりと視線をやった。

「あんなに馬鹿馬鹿言われて、腹立たない? だって唯依ちゃん、まだ十六でしょ。三十近い人間からしたらほんの子どもなのに、あんなに馬鹿だなんて言わなくていいじゃない」

 彼女がうっすらと怒りを覚えているのを感じて、私は驚いた。

「平気ですよ、だって私、馬鹿だから」

「あたしには、唯依ちゃんがそんなに頭の悪い子には見えないんだよね。自分が十六、十七の頃なんてそれこそ子どもだったし、大人と食事に行ける勇気があったかも自信ないや」

 初対面の私に、柚梨さんは深く考え込む顔を見せる。ひどく迷っている表情に、少なくとも私は当惑する。

「気を悪くさせて本当にごめんね、歳の差カップルが悪いとは言わないよ。でも唯依ちゃんはまだ子どもだし……未成年って意味でね。それを捕まえて馬鹿馬鹿言うなんて、正直ムカつく」

 穏やかそうな柚梨さんの口から「ムカつく」という言葉が出て、私は一層驚く。それが私と剛史の関係に向けられていることに、更に戸惑ってしまう。

「うちの彼氏も、実際、うーん……本当にごめん、引いてる。剛史くんにね。まだ二人が対等ならって思うけど、ずっと一方的に唯依ちゃんが貶されてるし」

「えっと、それって……」

 私は混乱する頭で、一つの言葉を見つけた。

「異常だって、ことですか」

 ぎこちない仕草で、それでも柚梨さんは確かに頷いた。母や柊哉やヨダカと同じ感想を、初対面の由梨さんが抱いている。私は苛立ちなんかよりも、戸惑いに頭を支配されて、迷う手で頬を押さえた。俯けた景色では、食べかけの小皿や、中身の残るジョッキが所狭しと並んでいる。唯依ちゃんと呼ばれて、何とか視線を上げた。済まなさそうに目尻を下げる柚梨さんは、その目に確かな心配や不安を湛えていた。

「彼氏彼女の関係って、あくまで対等じゃないといけないよ。剛史くんは自慢してるけど、あたしたちには、主従関係にしか見えない。それも従う側がまだ自覚できてない関係」

「でも私は……馬鹿でだらしないから、それぐらい……」

「全然そんなことない。さっき言ったでしょ、進学が全てじゃないって。高校に行かないからって唯依ちゃんは馬鹿じゃないし、例え彼氏であってもそれを貶していいわけがないよ。本当に心配してるなら、若すぎる彼女の今後を一緒に考えるはずなんだから」

 そろそろ二人が戻ってくるかもしれない。柚梨さんは廊下の方をちらりと確認して、私に軽く身を乗り出す。

「あたしたちがあれこれ口出しするのは、大きなお世話だと思う。でも、これだけは言わせてね。唯依ちゃんはもっと自信をもって、これからも付き合っていきたいなら、剛史くんのいいなりになってちゃ駄目。そんな関係は、遠くないうちに破綻するから」

 私は頬を押さえていた手を膝に落として、何も言えないまま頷くことさえ出来なかった。戻ってきた二人を辛うじて笑顔で迎えるだけで、精一杯だった。柚梨さんがその後の会話を積極的に埋めてくれたことに、感謝を覚える余裕すら持てなかった。

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