18
私は大判の本をテーブルの上で開いた。絵本と呼ぶべきだろう、淡いタッチの水彩画が目を引く。存在は知っていたけど、「よだかの星」をまともに読むのは初めてだった。
醜い容姿で周囲から蔑まれてきた夜鷹は、ついにその名前さえも改名しろと言われてしまう。それなら死んだ方が良いと嘆き、そんな自分は生きるために虫の命を断ち、その自分さえも鷹に喰われてしまうことを悲しむ。太陽と四つの星を巡り、灼け死んでもいいからそちらへ連れて行ってくれと願うが聞き届けられない。しかしどこまでも空高くのぼる夜鷹は、やがてカシオピア座の隣で星になり、今でも燃え続けている。よだかの星とは、そんなお話だった。
綺麗で悲しい余韻に、私は何も言えなかった。下手な感想を口にすれば、自分の感じる儚い感情が、陳腐で稚拙な言葉に詰め込まれてしまう気がしたのだ。
「なんで、このお話から名前を取ったの」
すっかり食べ切れるだけの時間はあったのに、彼は小さく残ったゼリーの最後のひと欠片をすくう。私が感じる不穏に対して知らん顔をするように、彼はゼリーの欠片を飲み込んだ。
「だってかっこいいじゃん」
空のスプーンを小皿において、彼は当たり前の顔で言った。
「かっこいい?」
「なんかこういうの。文学的っていうか、ワードセンスがかっこいい。ツーエルでの名前なんて何でもよかったけど、どうせなら意味深なものがいいだろ。覚えやすいし」
「……分からなくもないけど」
「至極残念だ、期待に応えられなくて」
「絶対思ってないくせに」
絶妙にはぐらかされたような、逆にからかわれている気がして、思わずゼリーを返せと言いたくなる。それすらも残念でしたと言わんばかりに、彼は自分が食べ切った空の小皿を三枚重ねた。
「ていうか、作品の内容知らなかったのかよ。宮沢賢治ぐらい読んどけよ」
「はいはい、すみませんでした」
べーっと舌を出して、私はよだかの星の絵本を閉じた。本を戻しに行っている間に、彼が食器を片付けた。
大学の敷地を出て、私たちは駅に戻るのに遠回りをした。広い川が流れているのを見つけて、川原でヨダカが何枚か写真を撮るのを眺めながら、こんな風景もいいなと思った。四月の陽光に煌めく水と、緑のあふれる河川敷。土手の向こうには細々と民家が肩を寄せ合う小さな町並み。今度、河川敷でスケッチをして、それを下敷きに新しいイラストを描いてみるのも面白いかもしれない。段取りや風景に加える要素を考えていると、自然と心がわくわくした。
駅のホームで、ヨダカは私と反対向きの路線を指さした。
「ごめん、俺こっちだから」
帰りの二番線と隣同士の一番線は、嘗て耳にしたヨダカの家とは反対方向に向かうはずだった。「用事?」私が尋ねると、「病院」と短い単語が返る。
「え、病院? どっか身体悪いの」
「俺じゃねえよ。見舞い。母さんの」
どこも悪くなさそうな身体を見る私に、彼は苦笑いする。彼の母親が肺がんで入院していることを、私はやっと思い出した。
私はヨダカのお母さんについては全くと言えるほど知識がない。物心ついた時には、既に彼はお父さんと二人暮らしの友だちだったから、その顔さえも私にはわからない。朝灯町が嫌いで、嫁いだことを後悔して、出て行ったくせに子どもだけ取り返したずるい人。私の中にあるイメージは確実に悪いものだけど、彼の母親という面では大きな興味があった。一体どんな人が彼を誘拐するほどに愛し育てた母親なんだろう。
「私も、お見舞い行っていい?」
こちらの電車が来るまであと数分しかない。迷う前にそう尋ねると、彼もまた迷うそぶりもなく左右に首を振った。
「気持ちだけもらっとく。もしかしたら、母さんは唯依の顔を覚えてて、朝灯町のことを思い出すかもしれない。正直、それってあまり良いことじゃない」
「そっか……」
彼の言うことは最もだと思ったので、私はがっかりしたけど諦めはすぐについた。
「もし気を悪くしたらごめん。お母さんの容体、良くなってるの」
「がんだからな。それも末期なんだって。治療っていうより、生きながらえてるって感じだよ」
もう良くなることはない。彼の言葉が秘める意味を理解して、私は随分と軽率に考えていたことを思い知った。生涯のうちに多くの人がかかるとはいえ、誰もが恐れる病気が、がんなのだ。最後の段階であれば、仮に治療ができても元の生活に戻れる可能性は低い。ヨダカのお母さんの場合、その治療すら施せない。
ただ死を待つだけの母親を見舞いに行く彼の心を思うと、その不幸がずんと私にも暗い影を落とした。口には出せないけど、そう遠くない内に一人ぼっちになる彼が、可哀想でならなかった。
「可哀想な人だよ」
代わりにヨダカが、その言葉を声に出した。
「良いことなんてほとんどなかった。不幸な人生だよ」
「でも、ヨダカと一緒に過ごせたんだから、楽しかったに違いないよ」
当然のことを言ったはずなのに、彼は「どうかな」と頭を揺らした。黒い髪の青いところが、その勢いで僅かに揺れた。
「俺と暮らし始めて二年後に、男が一緒に住むようになったんだ。再婚はしなかったよ。母さんはそいつの借金の保証人になって、男がいなくなっても金を返し続けて、完済した途端に倒れたんだ。何なんだろうなあ、この人生」
突然の告白に、私は何も言えないでただ目を伏せるしかなかった。
「……最期ぐらい、俺が看取ってやらないと」
呟く声に胸がきゅっと熱くなった。彼の言葉が重すぎて辛すぎて、私は必死に彼への励ましを頭の中で考えた。大丈夫だよ、お母さんはきっと良くなるよ、またヨダカの元に帰ってくるよ。脳内を駆け巡った全ての言葉が白々しく、最適解を見つけられない頭の悪さに悲しくなる。彼の言葉には、希望など既に指先ほども存在しないことがうかがわれる。その決定事項に、私のお気楽な希望的観測が入り込む余地などありはしない。
電車の到着を知らせるアナウンスが響く。地面を揺るがし、背中を向けた線路を辿って電車がホームに滑り込む。突風に、私は髪を手でおさえる。
「ヨダカは……」
様々な音に負けないよう声を張ったつもりが、それは情けないほどに掠れてしまう。
「お母さんのこと、好きなの」
聞こえなくてもいいと思いながら発した言葉に、ヨダカは目を細めて柔らかく笑うと確かに頷いた。
「大好きだよ」
発作的に彼を抱きしめたくなったけど、私はもう、電車に乗らなければならなかった。
窓の向こうであっという間に流れる彼が軽く手を振るのに、私は辛うじて右手を上げただけで、振り返すことができなかった。電車を一本見送ってでも彼を抱きしめるべきだったと気付いた時には、もう窓からは駅の屋根すら見えなかった。泣いていいのは私じゃないと、私は必死に自分に言い聞かせた。
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