2章
14
土曜日の午後、お客さんの入りはまあまあだった。二十に満たない数の席は八割がた埋まっていて、子ども連れの母親から老夫婦まで、様々な人が幸せそうにケーキやお茶を楽しんでいる。
私はカフェのバイトを始める前は、スーパーでレジ打ちをしていた。お客さんが持ってきたカゴの商品をひたすらスキャンしていく仕事。現金のやり取りは自動精算機任せだったから、その点のトラブルは少なかった。けれど、品切れに難癖をつけたり、使用期限の切れた商品券が使えないことに逆ギレする人もいて、その点は閉口した。と同時に、世間には学校では目にしない色んな大人がいるんだと学んだ。
仕事自体には大した不満はなく、中学を出たばかりの私にお店のおばさんたちは親切に接してくれた。旅行のお土産をくれたり、トラブルを見かけると率先して助けてくれた。
仕事に慣れてお客さんの顔を覚える余裕も出てきた頃、出会ったのが剛史だった。会社帰りに買い物をしていく彼に、何度目かで声をかけられた。丁寧な言葉遣いと年上の逞しさを感じて、私も心が揺れた。連絡先を交換してからあっという間に距離を縮めて付き合うようになると、剛史はレジ打ちのバイトを辞めるように言った。理由はダサいから。唯依には似合わないと説得され、私も意固地になるほどの思い入れはなかったから、彼に勧められるまま、カフェのホールスタッフに転身した。六等星という名の小ぢんまりとしたカフェは、スタッフのお揃いのエプロンが可愛らしく、チョロい私は剛史に褒められるとまんざらでもない気持ちになったのだ。
このバイトも、居心地が悪いわけじゃない。スタッフはみんな穏やかで、難癖をつけるお客さんも少なく、大した事件もなく今までやって来られている。
ただたまに、エプロンをかけながら心がきゅっと窄まるのを感じる。スーパーで使っていた野暮ったいエプロンよりも窮屈で、どこか胸の奥の方を締め付けられている気がする。その理由は、考えてはいけない。
注文が落ち着き、二組分のテーブルを片付けていると、ドアの開閉を知らせる鈴の音が聞こえた。反射的にいらっしゃいませと声を出しながら上げた顔が、見る間に引きつるのを感じた。
もう一人のホールスタッフに案内されて席に着く三人組のうちの一人は、剛史だった。後の二人は私の知らない男の人で、会社の同僚だと思う。テーブルを拭いたダスターを手に厨房に戻り、水の入ったコップを運ぼうとするスタッフへ、私が持っていくと声を掛けた。不思議そうに彼女がトレイを渡してくれるのにほっとする。折角店に来たのに私が接客しなければ、剛史は帰ってからたちまち機嫌を壊す。以前はそれで、丸一日口を利いてくれなかった。
私はコップとおしぼりを運び、三人の前に並べた。剛史の機嫌が良さそうなのにほっとする。私がバイトなのを残念がりつつ、同僚と映画に行くと言っていたから、その帰りに違いない。この店に寄るだなんて、全く聞いていなかったけれど。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
「これ、俺の彼女」
定型の台詞に被せて、剛史がお手拭きを使いながら私を指さした。剛史と同年代の二人は、メニュー表から顔を上げて驚きの顔をする。
「うそ、梶井、彼女いたの」
「当たり前だろ」
「マジで? 滅茶苦茶若いじゃん。……えっと、大学生?」
一人が遠慮がちに見上げるのに、私は笑って首を横に振った。剛史がたまに私を知り合いに紹介するたびに、同じやり取りが発生する。誰もが決まって驚いて、私の年齢を知って更に目を丸くする。この二人も同じで、私がまだ十六だと知ると、まるで初めて見る動物を発見したような顔をした。初めは嫌な気分になったものだけど、いつしか私もすっかり慣れてしまい、笑顔で対応できるようになっていた。
「唯依、今日は何時上がりだっけ」
「えっと、今日は五時だよ」
返事をすると、剛史は頷いた。
「じゃあ、晩飯は遅くなるな」
私たちのやり取りに、一人が「見せつけんなよー」とからかうように笑った。横のもう一人が「おまえも早く彼女作れよ」と肩を叩く。うるせーと言い返すのに、三人とも笑い合う。もう少し静かにという言葉を言えず、私はにこにこしたまま席を離れた。
六等星は十時から十九時までの営業で、夕方過ぎにはホールは一人で十分回るようになる。閉店まで残る同僚に挨拶をして、私は裏のスタッフルームでエプロンを脱いだ。巻きつくような息苦しさが、すっと抜けていく気がした。
夕食の買い物をして、帰宅した頃には十八時を過ぎていた。パスタで簡単に済ませようと、私はきざんだ玉ねぎを炒めるフライパンに、ひき肉を追加する。無事に完成したミートソースをパスタに和え、サラダもついでに準備した。
「ミートパスタ、嫌いだったっけ」
食事を始めてもろくに会話をしない剛史に問いかけた。おかえりの一言以外、彼はまともに言葉を発しない。疲れているのかと思ったけど、どうやらそうではないらしい。
「おまえさあ」
フォークにパスタを絡めながら、剛史はわけがわからずにいる私を睨む。
「なんでレジ打たなかったの」
「レジって?」
「だから」苛立つ顔でコップの水をぐいと飲む。「店の会計の時、おまえレジしなかったじゃん」
バイトの時間を思い出して、私はやっと剛史の言いたいことを理解した。確かに、剛史たちが会計を済ませる時、私ではなくもう一人のホールスタッフがレジを打って彼らを見送った。
「あの時、別のテーブルで注文取ってたから」
「そりゃわかるけど、自分がやるって一言言えば良くない?」
「でもそれは、お店に迷惑だし……」
これ見よがしに、剛史は大きくため息を吐いた。
「唯依は馬鹿だな、彼女なんだから、それぐらい融通利かせてくれてもいいだろ」
彼の言葉に、私はぐっと息を呑んだ。胸の奥に氷のように冷たく重いものが落ち込む感触を覚え、無意識にフォークを握る手に力が入る。
「別に急いでなかったんだからさ、一分や二分ぐらい待つよ」
そういう問題じゃない。私は動きそうになる唇を噛み締める。剛史が良くても、お店にとって迷惑だ。そんな言葉が私の口の中で、今にも外に出ていこうとする。
「俺はさ、唯依に見送ってほしかったんだよ」
震える唇から言ってはいけない言葉が漏れる前に、私は目を細めて笑い顔を作った。ありがとうと囁くことで、恋人の言葉を肯定した。ごめんねと呟いて、自分の非を認めた。きっと、彼女である私が機転を利かせるべき場面だったんだ。考えが及ばない愚かさを謝罪し、自分を求めてくれる彼氏の言葉に感謝する。
向かいでフォークを皿において、隣りに移動した剛史が私を横から抱きしめた。力の抜けた私の指からも、カランと音を立ててフォークがパスタの皿に落ちる。私よりずっと大きな逞しい腕と身体が、しっかりと私を抱きしめる。頭の横に彼の額が押し付けられ、好きだよと呪文のような言葉が耳元で囁かれる。やがて私も脱力して、彼の首元に顔を押し付けた。
私はこれで全てを許してしまう。どんな言葉も態度も、腑に落ち切らない全部を自分の中に飲み込んでしまう。剛史は私のそうした習性を知っているのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
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