12

 さっきまでの私以上に心配そうな表情で、訪問客の女性は玄関で高瀬さんに一礼した。本当にここで合っているのか。不安げな彼女にスリッパを勧めて、高瀬さんが部屋に案内する。さっきまでの六畳間の向かいにある部屋で、私はヨダカの横に立って彼女を迎えた。

 広さは同じぐらいだけど、隣室とは対照的にがらんとした一室だった。フローリングの上にテーブルがあって、椅子が二脚ずつ向かい合っている。あとは、隅の小さな机の上に置かれたノートパソコンとプリンター。物といえばそれだけで、正面のコンクリート塀しか見えない窓では、淡いグリーンのカーテンがおざなりに揺れていた。

 あまり取り囲んでは話がし辛いだろうと、私とヨダカを残して高瀬さんが物惜しげに部屋を出ていった。着席した女性の正面にヨダカが座り、私はその隣に浅く腰かける。

 五十は過ぎていそうな、私の母親より年上の女性だった。整った身なりで、ホワイトのカーディガンが上品さを出している。ヨダカの髪の青い部分を見て、場違いな場所に来てしまったと、不安を隠しきれない様子でいる。

「ええと、高瀬から話を聞きました」

 彼女の心許なさを払拭するように、ヨダカが丁寧な口調で口を開いた。

「亡くなったお姉さんの写真を撮りたいって」

「ええ、そうなんです……」

「当時の年齢とか、どういう人だったとか、亡くなった理由とか……背景を教えてくれますか」

「もちろんです。……失礼ですが、あなたが写真を撮ってくれるんでしょうか」

 はいと返事をして、ヨダカが私に視線を向けた。

「こっちはただの連れなんで、気にしないでください」

 雑な説明に婦人は曖昧に頷いて、私は軽く頭を下げた。失礼だなと思ったけど、話の腰を砕くのも気が引けて、黙っていた。

「本当に昔……もう四十年も前に亡くなった姉なんです」

 横の椅子に置いたバッグから、彼女は一枚の写真を取り出した。私とヨダカはテーブルに置かれたそれを覗き込む。十歳ぐらいの少女と三つ四つ年上の少女が笑顔で並び、後ろには青い湖が広がっていて、遊びに出かけた記念写真であることが覗われた。水玉の可愛らしいワンピースを着ている姉の方を、彼女はそっと指さした。

「この写真を撮った二日後、姉は交通事故で亡くなりました。ひき逃げで、犯人は未だに捕まっていません」

 笑顔の少女に、死の陰など微塵も感じられない。未来にたくさんの楽しいことや嬉しいことが待っているのを知っているような、明るく希望に満ちた女の子だ。

「頭を打って即死だったことは僅かな救いかもしれませんが、それでも私たち家族にとって、この事件は一生癒えない痛みです。もう現場に花を手向ける人も家族しかいなくなり、姉は私たちの心の中で、十四歳の姿のまま辛うじて存在するだけなのです」

 ドアが控えめにノックされ、入って来た美月さんがそれぞれの前にお茶の入ったカップを置いた。小さく礼をして出ていく彼女に目礼して、婦人は話を続けた。

「先日、私の母の痴呆がひどくなり、ホームに入りました。精神的に不安定な母は、姉が亡くなったことを忘れて彼女を探したり、そうかと思えば、ふと彼女がもういないことに気付いてひどく落ち込みます。悲観的になった父は一層あの事件を悔いるようになり、時が経つことで姉の存在が薄れて消えてしまうことを恐れるようになりました」

 その様子を思い出したのか、彼女はバッグから取り出したハンカチで目元を抑えた。ヨダカは何も言わず、私も黙ってテーブルの写真を見つめる。仲の良い姉妹だったことが、写真から十二分に伝わってくる。少女の幸福や未来はたった一瞬で全て奪われ、四十年を経た今でも残された家族を苦しめている。

「私たちが悲しめば、姉も悲しんでしまう。彼女はいつもそばで、私たちを見守ってくれている。四十年間、私たちはずっとそう言い聞かせてきました」

 けれど母の痴呆をきっかけに、過ぎる時と記憶と共に彼女が消えてしまうことを恐れ始めた。周囲の人の忘却と同様に、四十年前の事件ごと、彼女の存在も失われることへの恐怖。次第に、彼女が今もそばにいる自信さえ喪失してしまう。だから、彼女がまだ隣りで自分たちを見守ってくれている証拠が欲しいのだと婦人は言う。

「取り留めのない話で申し訳ありません。今現在、姉が確かにそばにいることが分かればいいんです。形に残すことができれば、それ以上のことはありません」

 失われた彼女の姿を、新たに形にする。その面で写真というのは、とても有効な手段に思えた。それが可能であればの話ではあるけれど。

 今更断ることなどできない。ここまで話を聞いておいて、やっぱり無理だなんて言えるはずがない。はらはらする私を他所に、ヨダカは更に姉の人となりを聞いた。夕飯のおかずを巡って喧嘩をしたとか、一緒に母の日のプレゼント買いに行ったという些細なエピソードを幾つか教えられると、やがて分かったと頷いた。

「まず撮れると思うんで、じゃあ、そこに立ってください」

 彼は席を立つと、向かいの壁を示した。婦人は腰を上げて壁に背を向けて立つ。強張った表情は、ヨダカがポケットから出したスマホを見て更に心配そうなものになる。隣りにいる私でさえ、そんな物で大丈夫かという気になる。彼が立ち上げたカメラアプリ越しにも、画面には目で見るのと同じ風景しか写っていない。

「折角なんで、もうちょっと笑ってください」

 無理難題に応えるべく婦人が懸命に表情を和らげるのに、私は心の中で頑張ってと唱える。緊張の満ちる部屋の中に、ヨダカの若干気の抜けた合図が響いた。

 あまりに短い時間だった。シャッター音が三度鳴るだけの五秒程度の撮影時間を終えると、彼はお疲れさまでしたと手を下ろす。「高瀬呼んできて」と声を掛けられて、私は慌てて部屋を出て隣室の高瀬さんを呼びに行った。

 気になってうずうずしていた高瀬さんと共に部屋に戻ると、ヨダカは部屋の隅のパソコンを立ち上げていた。スマホから無線で写真を送っているらしい。婦人はいたたまれない様子で、先ほどの椅子に腰掛けている。

 ほどなく高瀬さんがパソコンを操作し、横のプリンターが緑色にランプを光らせた。二人の背中に遮られ、後ろに立つ私には画面も印刷物も見えない。機械の稼働音が、私の心臓もどきどきさせる。

 テーブルに並べられた三枚の写真を見て、婦人は息を呑んだ。正面の私は、喉元まで持ち上がった驚愕の声を辛うじて飲み込む。

 控えめな笑顔を浮かべる女性のすぐ横に、一人の少女が並んでいた。彼女のポーズを真似るように身体の前に両手を合わせ、いたずらっぽく笑っている。白いブラウスに紺のスカートは学校の制服らしく、顔かたちは先ほど目にした四十年前の姿とそっくりそのままだ。三枚とも、生きている二人の人間を撮ったようにしか見えない写真だった。

 ハンカチを取り出すのも間に合わず、婦人の目に浮かんだ涙が零れて落ちた。写真に触れる指先を震わせて、彼女は涙声で何度も礼を繰り返した。

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