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専業主婦の母はいつ家にいてもおかしくないから、せめて買い物に行っていそうな夕刻を見計らった。それなのに、鍵を使ってドアを開けると、玄関にはきちんと二足の靴が揃えてあった。綺麗好きな母親は、余分な靴が出ていることも気にかかるといい、普段使いの一足しか三和土に置くことを許さない。足元に私の靴より大きなスニーカーが目に入り、咄嗟に引き返そうとした。
その時、運悪く物音を聞きつけたのか、廊下の向こうで引き戸が開いた。
「なにあんた、帰ったらただいまぐらい言いなさいよ」
不機嫌な母の声に、仕方なく私は家に入る。ただいまと呟いてドアを閉めた。
「あんた、ふらふらするのは勝手だけど、今どこに寝泊まりしてるの。まさか、まだ男の元だなんて言わないわよね」
私は黙って靴を脱いだ。母はパーマのかかったショートヘアを軽く振って、嘆息する。
「ちょっとこっち来なさい」
「忘れ物、取りに来ただけだから」
「いいから! どんだけ馬鹿な子なの。十代のくせに男の元に入り浸って、まともに就職もしない受験もしない。どこでそこまで馬鹿になったのかしら」
だから帰りたくなかったんだ。けれど口にすると説教が長くなるだけなので、私は黙ってリビングに入った。綺麗に片付いたダイニングテーブルの前で、母は私がいかに愚かな生活を送っているかをひたすらに説く。早く終わらないかなと壁掛け時計を見上げると、母は平手でテーブルを叩いた。
「昔はこうじゃなかったのに、どうして今みたいになったのよ! 誰にも迷惑かけてないとか思ってるんでしょ、冗談じゃない! あんたが悪いことすれば、連絡が来るのはうちなのよ。
出た、柊哉。私はテーブルの下でスカートの膝を握る。お母さんの得意技、柊哉のため。
「そんなの知らない。私と柊哉は関係ないし」
「関係ないわけないでしょ! あんたが万引き一つでもすればと思うと、気が気じゃないのよ」
「万引きって。私、別に犯罪おかしてるわけじゃない」
「自分がどういう状況かわかってるの? お母さんはね、まともに生きろって言ってるのよ! 役にも立たない絵ばっかり描いて、挙句に三十近い男と同棲してるって、本当に馬鹿なんだから!」
まともとは何だろうと自問した頭に、ちらりと自由子の笑顔がよぎった。隣にいたはずの彼女と私は、どこかで道を違えてしまった。きっとそれは、些細なきっかけ。細かすぎて気付かないうちに、私たちの距離は取り戻せないほどに開いてしまった。
「姉弟なのに、どうしてここまで違うのかしら。同じように育てたはずなのに、何がいけなかったのよ」
「……迷惑かけないから、放っておいて」
私は絞り出して、音もなく立ち上がった。母の理想は、私が剛史と別れ、役立たずの絵描きもやめ、受験か就活に邁進する姿。それが十七歳のせめてまともな姿。母親の期待に着替えることは、今の自分を全て捨ててしまう行為に思えて、私は空っぽなくせにぞっとした。
「頼むから、柊哉にだけは関わらないでよ……」
母の呟きを背に、私はリビングを出て階段を上った。
廊下の突き当りの部屋が、私が剛史の元に転がり込むまで使っていた部屋。ここにはまだ、ベッドも机も過去に描いた絵もそのまま残っている。勉強机の引き出しを探ると、すぐに目当てのスケッチブックが見つかった。最初から最後のページまで、嘗て描いた風景の絵で埋まっている。先日、過去の絵をもう一度描き直してみたいと思い立ち、どうしてもこれを取りに戻る必要があった。だからもうこの部屋に用はない。今のところ。
廊下に出ると、タイミングを見計らったように隣室のドアが開いた。実際、タイミングを計ったに違いない。私はスケッチブックをしまったトートバッグを抱えたまま、こちらを睨む柊哉を睨み返した。
いつの間にか彼は更に背が伸びて、私の身長を優に越えている。中学入学と共にハンドボール部に入り、高校一年生になった今も活躍中だ。肌は陽に焼け、精悍な顔つきだから贔屓目抜きにもさぞモテるだろう。そして彼は勉強も得意だ。私が必死に机にかじり付いて好成績を収めても、一歳年下の弟は、翌年あっさりと更に上の成績を手にする。陰気に絵を描く姉とは違い、中学校では生徒会役員にも選ばれた。
柊哉は私の自慢だったはずが、いつしか互いに目の敵にする存在になっていた。
「うるさいんだよ、母さん怒らせるなよ」
「騒いだのは私じゃないし。ていうか、なんで家にいるのよ」
「今春休みだぞ。家にいて悪いか」
弟は、私に軽蔑の目を向ける。優秀で人徳もある彼は私と全く正反対の人間で、互いに理解し合う気さえ起こらない。労力の無駄であることを各々理解している。
「まだ男の家に居ついてんのか。いい加減自立する気ないのかよ」
「うっさいな。実家で学生してるあんたに言われたくない」
「じゃあ自分も受験すればよかっただろ。努力すらしないで、偉そうなこと言うなよ」
努力。私は今までそれなりの頑張りはしてきたつもりだった。苦労して得たものや得られなかった経験が、彼らの目には努力の結果だとは映らないだけで。
「あんたには、私のことなんて一生わかるはずない」
捨て台詞と見せかけた白旗に、彼は気付いただろうか。私は柊哉に及ばない。その意味を、彼は理解しただろうか。
「バーカ、さっさと行っちまえ」
答えは、結局分からなかった。柊哉の言葉を無視し、私は家を後にした。
一刻でも早く家から遠ざかるため、足早に住宅街を抜ける。ずっとバッグを胸の前で抱えていたことに気が付き、大きく呼吸をしてそれを肩にかけ直した。潰れた肺が、久しぶりの新鮮な空気にぐっと広がってゆっくり萎むのを感じる。
家は嫌いだ。息ができなくなる。他県に単身赴任に出たまま盆正月にも帰ってこない父親も、似た感情を抱いているに違いない。神経質な母の愚痴を聞かされる日々よりも、気楽な一人暮らしを満喫しているのだ。
考えて、少しだけ母が可哀想になる。家庭のことを全て任されきりだから、愚痴っぽくもなるのだ。それを疎まれるのは、あんまりではないだろうか。
頭を振って想像を追い払った。私を馬鹿な子と呼ぶ声を思い出した。柊哉と比較する目が脳裏をよぎる。どうだっていい、私はあそこに戻りたくない。自分の気持ちを再確認して、ジュースでも買って気を晴らそうとコンビニの駐車場に足を踏み入れた。
咄嗟にその足を引き戻し、私はコンビニに立ち寄るのを諦めた。
ガラス越しのイートインスペースに、制服を着た女子高生の姿が三人分見える。その真ん中に座っているのは、自由子だった。実際にこの目で直視する彼女の姿は、スマホの画面越しに見る写真の中よりも、ずっと活き活きとしていた。友人たちと楽しいことを分かち合って、毎日が目まぐるしいほど充実して、二度と戻らない青春を謳歌するまともな女子高生。私が目にするツーエルの投稿は、そんな生活の断片なのだ。直視するのも辛いほどに輝かしい自撮りたちは、彼女にとって何でもない日常の切れ端に過ぎない。その実物を見てしまったから、私は目を瞑るほどに細めて、気付かれませんようにと祈りながら俯いて通り過ぎた。
コンビニから二十メートル離れた頃には、折角広がった肺がまた酸素を求めて泣いていた。水面に上がって息継ぎをするように、必死に私は息を吸う。排気ガスと埃で薄汚れた空気が、私の全身をくまなく満たす。私に残るものは、ただこれだけ。胸を焼く熱い塊が形にならないよう見上げた空に晴れ間はなく、真っ白な雲がただ一面に広がっていた。
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