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私は昨年の五月から
急いで帰ると部屋にはまだ剛史の姿はなく、ほっとした。髪を解いて梳かしてから適当に一つに結わえ、ワンピースの上からエプロンをかける。研いだお米を炊飯器にしかけながら、昨日買っておいたひき肉を使ってハンバーグを作ろうと考える。涙を堪えて玉ねぎを刻んでいると、玄関のドアの開く音がした。
「ただいま、唯依いる?」
「いるよー、おかえり」
この瞬間が剛史は好きだと言うし、私も同じだ。帰るべき場所で、気兼ねなくただいまとおかえりを言い合える。誰かと一緒に支え合って暮らしている実感は、私たちを心地よくさせる。
廊下とリビングを隔てるドアが開き、スーツ姿の剛史が現れた。元から体格は良い方なのが、さっきまでヨダカに会っていたせいかよけいに逞しく見える。高校卒業までは野球をしていたらしい。
「帰ってるなら玄関まで出迎えてほしかったなあ」
「ごめん、ご飯の準備急いでて」不服そうな剛史に慌てて謝った。彼にそれ以上引きずる様子がないことにほっとする。
「スマホ、見せて」
「ちょっと待って。もう少しで切り終わるから……」
「飯なんか後でいいんだよ」
先日、帰ったらすぐに飯が食いたいと言ったのは剛史のはずだ。私は包丁をまな板に置いて手を洗い、リビングのソファーに置きっぱなしのバッグからスマホを取り出した。
「別に、何もないけど」
ソファーに腰掛けた剛史にスマホを差し出すと、彼は黙って画面にパスコードを打ち込んでロックを解除した。私の心臓がどきどきと拍動を速める。ヨダカと別れて電車に乗ってから、彼に言い忘れていたのを思い出したのだ。私と同様に、剛史もヨダカはてっきり女性だと思い込んでいたから、今日会いに行くことを許した。もし二人きりで会った相手が男だと知れば、剛史は激しく嫉妬して怒るだろう。ただ怒るだけならまだしも、度を超えてあちこちに八つ当たりするのが私は怖い。DМは控えるよう、ヨダカに口で伝えておくべきだった。
剛史は私のスマホの中身を完璧と言っていいほど把握している。パスワードも電話の送受信履歴も、全て彼と共有することになっている。初めは抵抗感があったが、私は寝床を与えてもらっているのだから、当然だと言われれば当然かもしれない。それに危ない詐欺なんかに引っかかる可能性だってある。一回り年上の彼に委ねれば、きっと安全だ。
それでも、ヨダカが男だったことは彼にも見抜けなかったわけだけど。
どうか、DМが来ていませんように。何でもないふりをしつつ、ツーエルを立ち上げる剛史の手元を後ろからそっと覗き込んだ。新着メッセージ1件の文字に、一層鼓動が速まった。
「今日はありがとうございました! お会いできて嬉しかったです。次の作品も、楽しみにしています」
剛史がヨダカからの新着メッセージを読み上げる。文面はそれだけだった。
私はほっとして脱力感から座り込みそうになった。当たり障りのない文面に剛史も違和感は覚えなかったらしい。
「ヨダカってどんな子だった?」
彼の言葉に、私は咄嗟に嘘を吐いた。
「同い年の、大人しそうな子だったよ。高校生だって」
初めに抱いていたヨダカのイメージを伝える。線が細くて、賢そうな顔立ちの可愛い女の子。眼鏡をかけていたと更に嘘を加え、私は必死に頭を働かせ、剛史とヨダカを遠ざける。
剛史の嫉妬と怒りが怖いだけじゃない。私は、もう一度ヨダカに会ってみたいと思っていた。神隠しの真相だとか、彼が今どんな生活を送っているのかとか、あの頃の思い出とか、顔を突き合わせてじっくり話したかった。そのためには、ヨダカが男であることを剛史に悟らせるわけにはいかない。
「で、次はいつ会うんだ」
「何も決めてないよ。約束もしてないし、する暇なかったし」
会う約束をしたと言えば、同行するとも言いかねない。相手も忙しそうだし、機会があればという話になったと、私はまた一つ嘘を重ねた。
別れ際、手を振って背を向ける私にヨダカは言った。
「来週の昼、ここにいるから」
彼も私と話をしたいと思ってくれたのだろう。これが彼ともう一度会える貴重なチャンスだとは、馬鹿な私にもわかる。ヨダカとの連絡手段はツーエルのDМしかなく、アプリ上のメッセージを剛史が把握している以上、再会の約束は下手に交わさない方がいい。怪しめば、剛史はきっと同行すると言い出すし、私にそれを拒否する権利はない。
「ま、この子がどんだけ可愛いっていっても、唯依ほどじゃないだろ」
「何言ってんの、馬鹿だなあ」
スマホをソファーに捨てて立ち上がり、剛史は私を抱きしめる。ごつごつした筋肉質な背を軽く叩いて、苦しいよと訴える。抱きしめられれば、馬鹿な私は簡単に全てを許してしまう。剛史は自分を好きでいてくれる、私も恋人に応えなければいけない。条件反射的な笑顔のまま、私はキッチンに戻った。
重い裏切り行為を働いている自覚に、気分が沈んだ。例え偶然再会した幼馴染とはいえ、男の子と二人きりで再び会うことは、それも黙って内緒にしているのは、剛史に対する立派な裏切りだ。
来週金曜日、バイトのシフトは入っていなかったはず。頭にカレンダーを組み立てて、玉ねぎを炒めながら、私はため息をのみ込む。一週間後に駅前へ行かなければ、恐らく二度とヨダカに会うことはない。どうしても行きたいと願いつつ、心の中で剛史に謝った。ごめん、剛史。やがて私が拵えたハンバーグを口にし、剛史は美味いと顔を綻ばせた。
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