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 緊張から、心臓がばくばくと早鐘のように鳴っている。臆病な臓器がうっかり止まってしまわないよう、私はバッグから取り出したペットボトルのキャップをひねって口をつけた。あったかく甘ったるいミルクティーが、喉の内側を緩慢に流れていく。三月が春の欠片を運んできたおかげで、幸いあまり寒さは感じない。午後四時過ぎ、川和澄かわすみ市駅前は、学校帰りの学生やスーツ姿のサラリーマンで賑わっている。ベンチに座ったまま、時計台を見上げた。約束の時間まであと十分。緊張を誤魔化すために、膝に置いたバッグからスマホを取り出し、パスコードでロックを解除する。画面左下にあるツーエルを立ち上げる動作にはすっかり慣れていて、目を閉じても間違えない自信がある。

 LookLook、通称ツーエルと呼ばれるSNSアプリは、私の生活と切っても切り離せない存在だ。Lの文字が横並びになった淡い橙色のアイコンに触れるだけで、無数の人たちと繋がることができる。学校に行っていない私でも、教室に到底収めきれない数の人と関われるのだから、なんて便利なんだろう。

 秋月あきづき唯依ゆいの名前をローマ字にしただけの、YuIというのが私のアカウント名。フォロワーは約八千人で自慢できるほどじゃないけど、ほとんど他人に営業をかけていないことを考えれば充分な数字だ。彼らの多くがファンを名乗り、私がアップするイラストに反応をくれる。特に自作のキャラクターの絵柄が人気で、依頼を受けて絵を描き、お小遣いを稼ぐこともある。三時間前に投稿したばかりの絵にも、既に返し切るのも大変なほどのコメントがついている。

 コメントをざっと流して、私はDM(ダイレクトメッセージ)を開いた。個人的にやり取りした人たちの中から、一人を選んでその名前をタップした。

 「ヨダカ」とのメッセージが上から下に並ぶ。一年前に知り合い、私の絵によく反応をくれるのがヨダカと名乗るフォロワーだった。同年代で、キャラクターの絵よりも、私がたまに描く風景画を珍しく気に入ってくれている。実際の景色を少しアニメ調にした絵柄で、幻想的で素敵だといつも手放しにべた褒めしてくれる。

 私も次第に、ヨダカの作品に興味を抱き始めた。たまにアップされる写真にいいねを送り、メッセージをやり取りするようになって、つい先日、互いにそう遠くない場所に住んでいることを知った。

 ――一度、YuIさんとお話してみたいです!

 そんなメッセージと共に会おうと言い出したのは向こうからで、私も温厚な雰囲気のヨダカに会ってみたくなった。同性の友だちが出来るかもしれない期待と、もし性格が合わなければどうしようという心配に揺らぎつつも、私は承諾した。ネット上でこれほど自分の作品を褒めてくれる彼女に、私は大きな興味を持っていたのだ。

 それでも、初めてネット上の知り合いに対面する不安でそわそわしつつ、画面に現れたメッセージを見て顔を上げる。けれど、それらしい人の姿はない。

 ――着きました、どこですか?

 仕事帰りのOL、学生らしい男の子、後ろに子どもを乗せた自転車を押す主婦。同年代の女の子は駅前のコンビニでたむろしている。私のイメージするヨダカの姿はどこにもない。

 肩を越す髪をハーフアップに結って、ロングのワンピースにコートを着ている私の外見は伝えてある。川和澄駅西口で合ってますかと打ち込んだ。すぐさま、合っていると返事がある。時計台の下のベンチですと入力し、送信ボタンに触れかけた。

「YuIさんですか」

 はっと画面から顔を上げた私の思考は固まった。

「え、え、あの」

 咄嗟に立ち上がった私の乾いた喉から、変な声がころころと零れ落ちた。肩に触れかけた指先が引っ込められる。

「……ヨダカ、さんですか」

 私の掠れた声に、ヨダカは一つ頷いた。

「よかったー。人違いだったら気まずいし」

 そう言ってけらけらと笑うヨダカは、どう見ても男の子だった。

「ちょっと、ちょっと待って、ヨダカって……その、男……?」

「そうだよ。生まれてこのかた男だよ」

 あ、ひょっとして女だと思ってた? 彼がそう付け加えるのに、私はぎこちなく頷いた。

「だって、一人称、私だったから……」

「別に男が私って書いてもおかしくないだろ」

 そう、私はてっきりヨダカが女性だと勘違いしていたのだ。私という一人称と丁寧な文面から、大人しい少女を想像していた。線の細い、儚い女の子だと思い込んでいた。実際のヨダカは、細身で私より少し背の高い少年だ。シャツと黒のジーンズに、群青の薄いダウンジャケットを羽織っている。黒い髪に一束分だけ深い青のメッシュが入っているのが目を引く。

「何その騙されたって顔。女だなんて一言も言ってないのに」

「ごめんなさい、でも……」

 混乱する私をまあまあと宥めてヨダカが座らせる。騙された。その言葉を私は喉の奥で辛うじて飲み込んだ。確かにヨダカが女性だという確証はどこにもなく、全部私の勝手な想像だった。けれどヨダカのフォロワーに尋ねれば、ほぼ百パーセントの人間が女性だと推測するに違いない。

「何て呼んだらいい?」

 しかも初っ端からのタメ口に、私は心中でげんなりする。けれど今更引き返すわけにもいかないから、「唯依でいいよ」と返した。

「そっちは何て呼べばいい?」

「ヨダカ」

「そうじゃなくて、本名」

「なんでもいいじゃん。わかれば」

 こっちは本名を告げているというのに、彼はにやにやして素っ気ないことを言う。近くを男子高校生の集団が通り過ぎた。夕方の駅前を行き交う人には、私たちはカップルにでも見えているのだろうか。冗談じゃない。私には既に立派な彼氏がいるんだ。

「もしかして、こういう遊び?」

 私は精いっぱいの皮肉を込めて彼を睨んだ。ネットで他人を釣ってからかう質の悪い遊びもあるというから。けれど彼は「違うってば」と大袈裟に片手を振ってみせた。

「俺は本当に、あの絵描いてる人を見てみたかったんだ。じゃないと、一年もフォローしたりしてねえよ」

 確かに、彼の言う通りだった。ヨダカが私をからかって遊ぶのに、一年の潜伏期間は長すぎる。ありがとうと私は口の中でもそもそ呟いた。それにしても、彼には何かが引っかかる。笑って細くなる目元は、遠い記憶の端っこを微かにくすぐる。

「去年見かけたあの絵、夜の星の絵、なんかすげー良くってさ」

 私もきちんと覚えてる、初めてヨダカがコメントをくれた星空の絵。小さな頃に住んでいた町で見た空を思い出して描いた絵。ネット上の星空図鑑とにらめっこして、そこに星座を幾つか描き込んだ。幻想的で素敵だとヨダカが褒め称えたあの時、私たちは知り合った。

「ヨダカの写真も、私好きだけど……」

 そう言って全て思い出した。私たちが知り合ったのは、一年前のことじゃない。もっとずっと昔のことだ。

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