4話

 一年前、父が死んでから少し経ったころだった。父を殺した感染症の症状が、おれの身体にも現れ始めた。

 ありえないくらい熱が出て、酷い倦怠感に、身体が床に張り付けられたように動かなくなった。

 激しい咳とともに鮮血が喉奥から溢れ出す。耳元でサイレンが鳴っているような耳鳴りが鋭い頭痛を呼び、睡眠をとることすらままならない。

 父を死に追いやった感染症は、この国では割とよくある病気だった。薬があれば致死率はゼロに等しいが、こんな地下の研究所に都合よくその薬があるはずない。

 少し離れた距離に診療所があったが、この戦況で機能しているとは思えないし、外に出るのは危険すぎる。


 おれは研究室の一つに篭り、リリには絶対に入らないよう言った。この病気の感染力はそれほど高くないが、侮って父の看病をしたおれは現在こうして症状に苦しんでいる。

 高熱に浮かされた自分に、臥せる父の姿が重なった。朦朧とした意識の中、死を悟りながら、ただ時間が流れるのを待つ。

 しかし、一週間ほど経った頃、症状に改善が見られ始めた。薬を摂取しなかった際の致死率は決して低くない。それでも若さによる免疫力が勝ったのか、奇跡的に回復の兆しが見られた。

 さらに一週間ほど経つと完全に症状がなくなり、体力も戻り始めたようだった。おれは部屋と自分を消毒した後、ずっと閉ざされていた研究室の扉を開いた。


 白い廊下を渡り、長机の部屋に向かう。リリはいつもこの部屋で寝泊まりしていた。

「リリ?」

 なぜか部屋には電気がついていなかった。研究室の時計によると、まだ昼の時間であるはずなのに。おかしいなと思いながら照明スイッチを押し、再び「リリ」と呼びかける。

 リリはいなかった。

 バスルームか? そう思って探しに行ったが、呼びかけに応じない時点でおかしい。 

 おれは研究所内を走り回った。心臓が嫌な音を立て始める。

 ただ眠っているだけなのかもしれない。昼寝をすることだってあるはずだ。あるいは、体調を崩して寝込んでいるのかもしれない。だったらなおさら早くリリを見つけなくては。

 しかし、リリはどこにもいなかった。

 まさか外に?

 そんなことはありえないだろうと思いながらも、もう他に選択肢はない。


 おれは恐る恐る廊下の突き当りにある扉を開いて地上への階段を上り始める。

 段が途切れた先からは迷路のような道を進む。再び現れた階段をさらに上って、隠し扉を開き、短い梯子を登る。要塞のようなこの道のりは父の遊び心から生まれたもので、設計当初はこの仕組みがシェルターの安全性につながるなんて思ってもみなかっただろう。

 最終的にたどり着いた先は行き止まりだった。そこには押してスライドさせるタイプの扉が、周囲の石レンガの壁の中に溶け込むように隠されている。

 おれは意を決して壁に手を触れる。石でできた扉が冷たい温度を返してきた。ぐっと力を入れる――しかし、扉は動かなかった。

 扉が開かない。おれは、力いっぱい押してみる。瓦礫か何かで塞がれているのかもしれない。

 さらに強く力を入れると、何かが引きずられるような音がして、扉が動いた。

 瓦礫ではない、もっと柔らかで、動物的な何か。嫌な汗が流れ、心臓が騒ぎ始める。頭の中で異常事態のサイレンが鳴り出した。


 扉をスライドさせていくと、何かがおれのほうへ倒れてきた。――その色素の薄い髪には、嫌というほど見覚えがあった。

「……リリ」

 震えた声がこぼれる。おれは恐る恐る腰を落とした。

 たしかに、リリだった。以前の可憐さも透明感も失った、まるでゴミ捨て場に転がされた人形のような寂しさを携えた姿で、リリが倒れていた。

 頬には血が滲んでいて、顔全体が腫れあがっていた。服は引き裂かれ、白い肌が冷えた空気にさらされている。床には這ってきたような跡が残っていた。髪には砂が混じっている。

「なんで」

 視界が明滅した。頭の中が真っ白に塗りつぶされ、脳が情報を処理できずエラー信号を出している。

 兵士に乱暴される少女の話は、最悪なことに、この世にありふれていた。

 身体中の痣と、首に残された手の跡と防御傷。乱れた髪。どこかで襲われ、ここまでたどり着いたが、寸前で力尽きたのだろう。変な方向に曲がった指先には、――錠剤のシートが握られていた。

 それを目にした途端、息ができなくなるほどの悲しみに襲われた。 

 震える指先で、リリの手首に触れた。――まだ、脈がある。

 おれはリリを丁寧に抱きかかえ、地下に運び込んだ。梯子の部分は少し手こずったが、リリを傷つけることなく研究所までたどり着く。

 父の研究は瀕死の人体を回復する装置を作ることだった。完成させる前に戦争が悪化し、研究員を失い、ついに研究を完成させられないまま感染症でこの世を去っている。

 おれは父が作った試作品の生命維持装置を改良した。

 父の研究ノートが残っていたため、仕組みを理解するのは容易く、回復させることは厳しくても、生命を存続させることができるくらいにはすぐに仕上がった。おれは装置の水槽部分にリリを入れ、機械を稼働させた。


 おれは憑かれたように次の行動に移る。 

 ロボットにリリの情報を与えようと思った。おれは、リリの記憶をコンピューター上に模倣し、人工知能にトレースする作業を行った。――半年後、リリの人格を持ったリリのニセモノが出来上がった。

 動くことも話すこともなくなった少女の人格を持った、小さなロボット。おれはそれをリリと呼んだ。



 それからおれは、新たに研究を始めた。この腐った世界を終わらせるのだ。

 本気だった。この世界を地球ごとぶっ壊してやろうと思った。

 リリをこんなふうにしたやつを特定することは難しい。ならば、そいつのいるこの星ごと殺してしまえばいい。リリが傷つくような世界など、死んでしまえばいい。

 怒りで沸騰した思考に突き動かされながらおれは世界を滅ぼすための計画を立てようとした。絶対に、この命をささげてでも、世界を殺してやる。――そう考えてはいても、頭脳の芯の部分は驚くほど冷静に現状を分析していた。

 不可能だ。

 世界を破壊できるほどの爆弾が、材料も何も揃っていないこの研究所で作れるはずがない。道具もなければ、適切な実験装置があるわけでもない。試しに研究所内にあるものだけで小規模な爆弾を作成しコードも組んでみたが、家一軒すらも壊せないようなもので限界だった。こんなものでは世界はびくともしない。

 おれは世界を破壊する計画を一日で諦めると、一瞬で思考を切り替え、研究をチェンジした。


 リリを回復させる。


 父の研究でもあった未完成の生命体回復装置を、おれが完成させようと思った。それなら研究用の素材もたくさんあるし、機械だって揃っているだろう。

 詳しく学んだわけでもない分野の知識を、父の遺した研究ノートを頼りに埋めていった。そうやって装置を改良することまではできたが、生命の回復ができるほどまでに作り上げることは極めて難しいだろう。食料が尽きるまで、しかもたった一人で完成させられるとは思えない。


 リリを生き返らせることと、世界を終わらせること。――どうせどちらも叶えられないのならば、おれはリリを取る。

 おれはリリを回復させようと思った。リリさえいればいい。たとえ奇跡が起こってリリが意識を取り戻しても、戦争はきっと続いたままで、状況は最悪のままだ。それから先の未来は見えない。

 それでも、リリさえいればいいと思った。

 父の書いた論文を読み、足りない知識を本を読んで埋め、装置の改良を進める。  


 駄目だった。維持は可能でも回復は難しい。無理だ。わかっていたことじゃないか。

 叶うはずがない望みを抱き、完成の目処がつかない研究を続け、絶望しないようにまがい物に縋る。研究が完成しないまま、時間だけは無残に過ぎ去っていく。

 とうとう研究は完成せず、このまま研究を続けてもリリが回復する見通しもとれなかった。食料ももうすぐ尽きる。この命も、きっと。


 ◇


 七日間はあっという間だった。変わらず会話は少なく、おれたちはぎごちない静寂を共有し、二人で過ごした。


 最終日、おれは研究室を訪れた。

 機械は沈黙し、最低限の音だけが聞こえる。おれは、散らばった大量の書物をそのままにして、部屋の中央まで歩み寄った。

 研究室の中央にある大きな水槽――生命維持装置を満たす培養液の中は、一人の少女が沈んでいた。吹き上がる泡沫にさらわれ髪が揺れている。

「おやすみ、リリ」

 静かにそう呟くと、おれは装置の電源を切った。

 振り返ると、そこにはもう一人のリリがいる。白くて小さい、生き物の温度を持たない、おれが作ったニセモノのリリ。

「……ルー……カス」

 少女の声にノイズが絡んでスピーカーから発せられる。

 おれが電気プラグを壊してしまったため、リリにエネルギーを補充することはできなくなっていた。数日間リリはほとんど動かず省エネモードで過ごしていたが、すでに充電はほとんど残っていなかった。赤いランプが救いを求めるように点滅している。

「リリ」

 彼女の名前を呼ぶ。その声に呼応するように、機械音がおれの鼓膜を僅かに揺らした。

 


 リリにはもう、自力で動けるだけの充電が残っていなかった。

 おれはリリを両手で抱え、研究所を出る。もうこの部屋に入ることはない。

 真っ白な廊下を渡り、長机のある部屋に向かった。

 冷たく無機質な床に足を延ばして座り、そのまま上半身を倒して真っ白な天井を仰いだ。しばらくぼーっとした後、腕の中にあったリリを頭の横にそっと置いた。


 だんだんと眠気がさしてきた。

 おれは瞼の力を抜き、ぼんやりとした頭でこれまでのことを思い返す。

 リリは、もっとおれと会いたがった。一人でいるのは息が詰まると毎日おれに訴えてきた。おれの作ったリリは、本物のリリと同じで、寂しがりのかまってちゃんだった。

 真っ白な空間で一日中孤独に過ごすのはつらかっただろう。リリが研究室に入ってきた日のことを思い出す。

 充電器が壊れたと言ったときリリの電池はほとんど残っていなかった。研究室には入るなという言いつけを守っていたのだ。充電切れを起こす寸前まで。リリはどんな気持ちでいたのだろう。――そこまで考えて、リリにおける感情はただの電気信号にすぎないのだと思い出す。

 ニセモノのリリは、機械に繋がれて生きる自分を見てなんと思っただろうか。コンピューターはこの状況をどの感情に結びつけたのだろう。


「リリ」


 名前を呼んだ。返事はない。

 おれはずっと子どものままだった。いろんなことにイライラして、傲慢で、結局は何もなせないまま終わりが来るのを待っている。

 結局、おれは何がしたかったのだろう。リリを水槽に閉じ込め、ニセモノの人格まで作った。そんなものは所詮まがい物で、子供騙しで、おれが大嫌いだった「意味がないこと」なのに。


「リリ」


 意味のないことが嫌いだった。それなのに、意味のないことに縋ってしまう自分に嫌気がさした。心を消そうと思った。整合性のない感情に心を揺さぶられるのが怖かった。

 この世界は最悪だ。理不尽なことで溢れていて、大切な人が最悪な形で殺される。こんな世界に価値があってたまるか。


「リリ」


 幼い頃のことを思い出す。

 苛烈で傲慢だった自分に世界を見せてくれたリリ。リリが大切だった。リリにいてほしかった。それは、敬愛と同時に、執着で、依存で、甘えでもあったのだと、今になってようやく気が付く。


「リリ」


 名前を呼ぶと、そっと口角が上がる。「リリ」の二個目の「リ」で、柔らかく、微笑むみたいに口の端が持ち上がった。


 リリが大切だった。リリに幸せであってほしかった。

 リリの欠けた人生に意味を見出せなかった。

 リリを傷つけた世界なんて死んでしまえばいい。

 深く、ゆっくりと息を吸って吐く。胸が最後まで沈むと同時に、おれはリリの電源を切った。


「愛してるよ、リリ」


 この世界を悪くないと思わせてくれた。おれの知らないたくさんのことを教えてくれたリリ。 

 リリの表面に触れる。ひんやりとした金属の冷たさを感じた後、微かに熱が伝わってきた。それは、機械が作動した後に残った仄かな熱量にすぎない。


「リリ」


 おれはどうすればよかったのだろうか。何が正しかったのだろう。

 水槽の中にリリを閉じ込め、模倣品のリリの魂に縋って。

 すべておれのわがままで、甘えで、最適解が見つからないまま終わりを迎えようとしている。


「リリ――」


 どうせこの国は滅びる。

 リリは死んでしまう。

 結局おれは世界を終わらせることはできなかったし、リリを取り戻すこともできなかった。

 それでも、もうすぐおれが大嫌いだった世界はいなくなる。おれの身体は徐々に栄養を失っていき、手足が動かなくなり、心臓は役目を終えて眠りにつく。その先でもう一度、リリに会えるだろうか。


 ルーカス、と遠くで呼ばれたような気がした。透明な、ぽやっとした優しい声がおれの名前を呼んでいる。


 やがて瞼が下がってきて、おれは抗うことなく目を閉じた。

 リリ、と声に出さずに口を動かす。リリがいた日々を思い出しながら、無意識に口角が上がった。



〈了〉

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リリ 青葉寄 @aobasan0

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