3話
目覚めると、どこか違和感があった。
それは虫の知らせに分類されるようなささやかな違和感だった。第六感的な感知機能が作動し、脳に「異常事態発生」の信号が絶えず送られている。それは次第に焦燥に似た感情となって、おれは、不可思議な力に突き動かされるように体を起こした。
何かが、起こっている。
おれはいつもの生存確認もせず、自分が幽霊かもしれないまま研究所内を駆け回る。嫌な予感が冷たく背中を走った。異分子を探し出すように、原因を追求するように、研究所内を隅々まで確認する。
そうしておれは数分もせずにこの妙な感覚の正体を悟った。――リリがいなくなっていた。
心臓の拍動が一瞬にして加速する。
一度大きく脈打ったような気がしたと思うと、くらりと視界が揺れた。身体中から冷たい汗が噴き出てくる。
「リリ」
名前を呼んだ。いつもの朝と同じように。
真っ白な床を蹴って廊下を進む。焦る気持ちに比例して早足になる。
「リリ!」
扉を開き、叫ぶ。真っ白な壁が声を僅かに反響させ、肌の表面を叩いた。空間を裂くように並べられた三本の長机は、何事もなかったように沈黙している。
部屋中を歩き回って視線を走らせる。勢い余って机の直角にくるぶしをぶつけたが、鋭い痛みすら別の次元での出来事のように気にならなかった。
おれは駆け足で研究室に向かった。五つある部屋に隅々まで目を行き渡らせる。心臓が大きく鼓動する。リリはどこにもいない。
「リリ!」
父の自室、書庫、印刷室、バスルーム。すべての扉を開き、リリの痕跡を確認する。
首筋に汗が流れた。騒ぎたてる心臓を抑えるように着ているTシャツの胸倉を掴んで深呼吸する。
おれはもう一度、長机の部屋に戻った。そうすればさっきまでのことは全部おれの見間違えで、いつものように部屋の隅で猫みたいに眠っているリリがいるように思えた。
しかし、そこにあるのは空白だけ。
何度も廊下を行き来し、リリの姿を求めた。つっかえそうになりながら荒い息を吐き、名前を呼び続ける。喉はかれ、たたみかけるような激しい咳に襲われた。
「リリ」
次第に、自分の声に迷子の子のような切実さが混じってくる。眉間の奥に鈍い頭痛が走った。
研究所内をくまなく探したことにより、消去法的に、考えられる結論はただ一つになる。それは、研究所の外、つまり、地上。
ぞっと頭から血が引いていく気がした。震えるような感覚が背筋を立ち上がる。
昨日、自分が吐いた言葉を思い出す。――そんなに嫌なら出ていきな。
まさか。そんなことがあるわけない。おれは頭を振って幻想を振り払う。
「リリ!」
何度叫んでも返事はない。胸をかきむしられるような焦燥に、なにがなんだかわからなくなってくる。
おれは一度立ち止まり、呼吸を落ち着かせようと試みた。胸に手のひらを押し当て、深く息を吐きながら、頭の中であらゆる可能性を検索する。
連れ去り? 誰かが地下に入ってきた? あるいは、リリが自分で出て行った? なぜ? ――やはり、おれがあんなことを言ったから?
頭を回転させ、何百通りもの予測を導く。不穏な可能性が連鎖反応のように無限に広がっていく。脳が焼かれたような頭痛が走り、鼻の奥がじんと熱を持ち始めた。
ゆっくりと周囲を見渡しながら、肩で呼吸を繰り返す。途中、くらりと眩暈がして、よろけそうになるのを足を踏み出して堪えた。
拳を強く握った。爪が手のひらに食い込む。ぶち、と皮膚が裂ける音がする。指に何かが伝うような感覚が走る。
人差し指の関節で小鼻を強く押した。溜まっていた鼻血が飛び出し、白い床にまだら模様を作る。
もう一度他の部屋を確認するため、素早く方向転換した、が、――何かにつまずいて身体が前に倒れた。
痛みと熱を持った右膝に手を当てながら振り返ると、昨日取り換えたばかりの電気プラグが外れているのが見えた。コンセントに差し込む金属部分が大きく歪んでいる。
おれは立ち上がり、足を前に踏み出す。
「リリ――」
苦痛から喘ぐように、溺れるなか必死で水面から顔を出すように、名前を呼んだ。
しかし、いつまで経っても、あのぽやっとした声が返ってくることはなかった。
結局リリは三日後に戻ってきた。
いわく、やはり彼女は地上にいて、それは食料を取りに行くためだったらしい。近くにあった敵基地まで、一人で赴いたのだと言う。
「リリ」
名前を呼んだ。努めて落ち着いて発したつもりでいたが、自分の声を音で聞いて、その怜悧さに気が付く。隠しきれず滲み出る怒りの感情を、リリは当然感知したようだった。
「ルーカス、わたし――」
「……外に出たんだな」
遮っておれは言う。落ち着いた対話を努めようと思ったが、おれは自分が思っているよりもずっと感情的になっているらしい。
しばらく無言でリリを見下ろしたが、リリが言葉を継ぐことはなかった。
「おれに何も言わず?」
思わず強い声が出た。
「おれが頼んだか?」
捲し立てるように続ける。リリはじっと固まったまま、何も言わない。
「勝手なことをするな」
「ルーカス」
落ち着いた声で名前を呼ばれた。おれを鎮めようとしているみたいだ。あくまでも毅然とした態度を貫くリリに、つい、――かっとなった。
「ふざけるなよ」
大きな熱を持った何かが全身を駆け巡る。頭の中が沸騰し、こらえていた感情が濁流のように溢れ出た。
「おれのためか? おれが、おまえに何か求めたか?」
神経が興奮状態に陥り、内臓が震えるような激情が沸き上がる。視界が白く明滅し、キーンと耳鳴りがした。
「ルーカス、落ち着いて。感情的にならないで」
諭すようなリリの言葉を、耳に入れまいと頭を振る。年上ぶりやがって。こんなときでも、子ども扱いするようにおれの言葉を軽く受け止めてくる。目の奥がぎゅっと熱を持った。
荒くなった呼吸を落ち着かせるように間を置いた後、おれは静かに言った。
「なんで、そんな危険な真似をしたんだ」
地上は戦争の地で、爆撃なんて日常茶飯事。常に死が身体の横で息をひそめている。研究所の外に出ることは死に直結する。――そんな危険なこと、絶対にしてほしくなかった。
おれは目元を雑に拭い、リリに背を向けて廊下へ向かって歩き出す。鼻の奥が熱く痛んだ。
ふざけるな。なんでおれがこんなに感情的にならないといけないんだ。
「おまえなんか――」
ニセモノのくせに。そう続くはずの言葉は、喉の奥で詰まって、重い息だけが唇の隙間から漏れた。
おれは、少し冷静になった頭で「ごめん」と呟く。そして、逃げるように研究室へ向かった。
◇
校舎から、生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。
おれは手元の本の文字を追いながら小さくあくびをした。木の間を伝って柔らかな光が降り注ぐ中庭は、教室の喧騒とは打って変わって穏やかな時間が流れている。昼休みの時間にこの場所のベンチに座って読書をするのが最近のおれの日課だった。
スクールに入学して四年経ち、おれは十五歳になった。背はぐんと伸びたし、声変わりもして、入学前とは別人のように成長したと自分でも思う。
「ルーカスは将来科学者になるの?」
おれの前に立つリリは、おれの顔を覗き込むようにして言った。
「どうだろう、将来のことは特に考えてないな」おれは本をたたんで言う。「なんでそう思うの?」
「だって、いつも難しい本ばかり読んでるじゃない」
リリはおれの手元を指差した。白い指先に、木の葉の影が映る。
「科学の勉強は大事だからね」
「それは将来に役立てたいからじゃないの?」
リリに問われ、考える。
なんでおれは科学を学んでいるのだろう。学ばなくてはならない、何か強い思いがあったような気がする。大切な使命感があったような気がするが、うまく思い出せない。
まあいいや、と思っておれはリリを見る。きっとどうでもいいことで、リリと話しているほうがよっぽど楽しいのだから。
風に揺れる木の枝を見つめながら、おれは無意識に「リリ」と呼んだ。
「なあに?」
色素の薄い髪をそよ風に流し、リリは身軽な動作でおれの横に腰掛ける。
「……リリ」
「なに?」
「リリ」
「だから、なに!」
むっとしたリリに、おれは「ごめんごめん」と言って微笑んだ。
「なんだか、君の名前は声に出して呼びたくなるんだよ」
おれがそう言うと、リリはなぜか自慢げに目を細めた。なんだよ、と問うと、リリは笑って話し出す。
「ほら、『リリ』って言うと、自然に口角が上がるの」
リリは人差し指で自分の口の端を触れて言った。いまいちピンときていないおれを置いて、リリは続ける。
「名前を呼ぶだけで、自然と笑顔になれる。素敵な名前でしょう?」
「別に、口角を上げなくても言えるよ」
おれは口の端を固定したまま「リリ」と発音した。
「全然違う」リリは顔をしかめて抗議する。「音に深みがないじゃない。もっと気持ちのこもった呼び方じゃないと嫌。もう一度呼んでみて」
あまりに真剣な様子のリリに、おれは思わず吹き出した。
「呼んで!」
リリに急かされ、おれは「リリ」と大げさに口角をあげて発音する。それが癇に障ったのか、リリは「もう!」と言っておれを睨んだ。おれは再び吹き出した。
「リリ」と、今度は優しく微笑むみたいに呼んだ。「なに」とリリが首をかしげる。
そんなささやかなやり取りが幸せだと思ったとき――
――遠くで爆発音がした。
◇
次の日も、その次の日も、おれは研究室に篭り続けた。
あの後、特に言い合いになることはなかったが、リリとはギクシャクしたままだ。元から少なかった会話がさらに減り、おれはいっそう研究に没頭するようになった。
思考を重ね、生まれた案を実行する。結果を研究ノートに殴り書きで記述し、データを分析して次の段階への道筋を組み立てる。あと何回これを繰り返せば完成にたどり着くだろうか。
おれは疲れた目をこすり、モニターを睨みつける。視界が一瞬、二重にぼやけ、少し経って輪郭を取り戻した。
ここ数日、眠っても疲労が取れなくなっていた。酷い倦怠感が常に両肩に張り付いていて、気を抜くと体が前に倒れてくる。慢性的な眠気に思考が鈍ってきた。常に胃が痛み、指先は微かに震えている。
それでも、心を無にして研究を続けた。
リリにも変化があった。反応が鈍くなり、話しかけてもぼんやりとした声しか返ってこなくなった。少しずつ電池が減っていくみたいに元気がなくなってきて、いつも無機質で味気ない部屋で一人虚空を見つめている。
それでいい、とおれは思った。
目を覚ましている間のすべての時間と思考を研究に費やそうと思った。
データの並んだモニターを睨む。
液体をビーカーに移して数値を計測する。
キーボードを叩く。
行き詰り、父の遺した本を開く。
視界が霞んで中断し、数秒目をつむった後、作業を開始する。
機械が低い音を立てている。
不具合を示すコマンドを修正する。
体が前に倒れ、キーボードに額をぶつける。
一瞬意識が飛びかけたが、すぐに体を起こして画面を元に戻す。
机の上にあったデジタル時計の電池を抜いた。これで時間がわからなくなる。食事は空腹で頭がおかしくなったときに取った。
数時間眠って、アラームに叩き起こされる。この頃は研究室で寝泊まりするようになっていた。
アームチェアに腰掛け、コンピューターを起動する。微かな機械音がして画面が明るくなった。
脈打つような頭痛がどんどん強くなっていく。
視界が揺れたかと思うと、突っ伏すように体が倒れた。
すぐに作業に戻ろうとするが、身体は電池を失ったロボットのように動かなかった。
「リリ」と、下がったままの口角で呟く。
かすれた自分の声を聞いたのを最後に、意識が途切れた。
元々地下にあった分の食料が尽きた。
起床後の食事を終えると、おれはリリとともに研究室に向かう。いつものように研究を進め、時計の針が就寝時刻を指すと同時に椅子から立ち上がった。そして、静かに背後を振り返る。
「リリ」
呼びかけると、部屋の端でぼーっとしていたリリが僅かに反応を示した。おれはゆっくりと彼女に歩み寄り、少しだけ距離を置いて立ち止まる。
「終わりだ」
おれは笑ってみせる。笑ったのはいつぶりだろう。しばらく動かさなかった筋肉が微かに震えている。
リリは何も言わなかった。笑い返してくるはずもなく、ただ真っ黒な目をおれに向けている。
おれは微笑みを浮かべたまま、囁くように言った。
「やっぱり駄目だった」
静かな研究室に、おれの声が小さく響く。
「おれには無理だった。かなわなかった」
諦念の言葉を吐きながらも、どこか清々しさを感じる。もう疲れていた。疲れていたんだ。
リリが持ってきた食料は七食分。一日一食として、あと七日もつ。
「ルーカス、もう希望は持てない?」
おれは黙ったまま頷く。
体は疲労で悲鳴をあげているのに、頭の中は夏風に吹かれたように穏やかだった。
ずっと背負っていた重い鞄を下ろしたような、そんな開放感に似た諦観が、脳に伝達する疲労感の情報を微かに軽減させているのかもしれない。
「リリ」
名前を呼ぶと、リリは逡巡するように数秒固まった後、ゆっくりと体を動かした。
小さな鉄の塊が、微かなモーター音とともにおれの足元に近づいてくる。
「リリ」
舌の上で飴玉を転がすような、甘い語感。そんな柔らかい響きが乾いた口内に優しく広がった。
おれは騎士のように膝を立ててしゃがみ、リリと視線を近づける。
「リリ、君を救うことはできなかった」
「……ルーカス」
内蔵されたスピーカーから、少女の声でそう発せられる。小型カメラの黒いレンズが眼球のように機敏に動き、おれの姿を捉えて制止する。
研究所に溶け込むような白いフォルム。三十センチほどの立方体をした小さなロボットが、おれの靴の先にこつんと触れる。
「終わりにしよう」
リリの――白いロボットの側面からアームが伸びてきて、金属らしい冷たさがおれの手の甲に触れた。
変わってしまった――おれの手で変えられてしまったその姿を見下ろしながら、おれは、「リリ」のことを思い出す。
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