第3話 再会
自宅から
そうしてやってきた秦野の駅はとても静かで、なるほど住環境に静謐を求めるタイプはこの辺りに居を構えるだろうなと納得することができた。
十一月の空気は冷たかった。ついこの間まで半袖で過ごしていた気がするのだが……昨今の環境問題で季節が回るのが早いのか、あるいは僕のデスクワークが季節感を忘れさせるのか。どちらでもあるような気がした。合わせ技が時を加速させるのだ。
駅を出てすぐタクシーを拾った。
「
運転手に行き先を告げる。
「静謐党の方ですか」
嫌そうな顔をされた。
「いや」
接客態度としては悪い部類に入ったので反射的に僕も強気な態度に出てしまう。
「そうですか……」
運転手は納得いかない顔をしながらドアを閉めた。
それから道中はずっと無言だった。助手席の正面にあるカードを見て、この運転手が
ひらさか。
「いい苗字ですね」
目的地に着いてすぐ。僕は料金を払って車を出る時にそう告げた。平坂さんは困ったような顔をした。
やがて僕を乗せてきたタクシーは、逃げ帰るようにして去っていった。僕は、帰りはどうしようか、などと悠長に考えた。辺りには目印になるような大きなものは何もない。あるのは掠れて消えそうな砂地の道。バス停か何かがあったのだろうか、ベンチのある掘っ立て小屋。その程度だった。風は相変わらず冷たい。
ここから静謐の教団本部までどうやって行けばいいのか、分からない。それどころかそれがどこにあるのかさえも分からない。僕はタクシーの運転手に「八沢まで」とだけしか言わなかった。八沢に行けば宗教施設があると思っていたし、なくても何かしら、目印はあるだろうと思っていた。見込みが甘かった、と言えばそうだろう。だがそもそも僕は消極的だった。榊山にああ言われてやっと動く気にはなったものの、やはり心のどこかではまだ阪村を拒んでいたし、会いたくなかった。痕跡を追いたくもなかったし、何なら「阪村」という字面でさえ見るのが嫌だった。
しかし来た。僕はここまで来てしまった。
「ダッサいぞ」
僕はつぶやいた。
「この期に及んでまだ尻込みしてるのか」
僕は自分自身を叱責した。そうでもないとこのまま「帰る」なんて言い出しそうな心模様だった。
そして、ふと、気づく。
この、自分自身に向けた強い言葉。
スポーツマン、自分にも他人にも厳しかったあいつの、あの
ああ、くそ。
僕は内心呻く。
やっぱり来るんじゃなかったな……。
溜息をつく。だが、来てしまった。ここまで来てしまったのだ。
「とりあえず進むか……?」
そう、独り言ちながら前に進む。やがて、山か森か分からない、小高い場所に木が茂った場所に着いた。大きく盛り上がった地形を、舐めるようにして森が覆っている。見ようによっては、緑のセーターを着た巨人の肩だ。正面を、行先を見る。僕が歩いていた砂地の道は、その巨人の肩から見るとちょうど肘の辺り、少し低くなった場所に茂っている、薄暗い森の奥へと続いていた。鬱蒼とした木立の中。目線を遠くに投げても、向こう側までを見渡すことはできない。
ええい、ままよ。
僕は覚悟を決めてその道を進んだ。まだ昼前、太陽なんてこれからが本調子だろうに、森の中の道は暗かった。
少し入ってから気づく。
巨人の肩のように見えた小高いところはどうも崖だったらしい。大きくせり出したそれが陽の光を遮っていた。そこに木が鬱蒼と茂っているからますます光が届かなくなり、結果、辺り一帯が暗くなる。土もいつ降ったか分からないような雨の水で湿っている。頭上を覆う枝にも蔓植物が絡みついている。ところどころそれらが垂れ、カーテンのようなものを作っている。余計に辺りは暗くなる。
ふと、今更ながらにGoogleMapの存在を思い出して僕はそれを開いた。
ふと、何かが手の甲に垂れた気がした。
水滴。雨……? 頭上を見上げたが木々に覆われている。空模様は途切れ途切れにしか見えない。
頼む、降らないでくれよ……。しかしそんな思いはすぐに裏切られる。
やがて森中に轟くような拍手が聞こえてきたと思うと、すぐに降ってきた。十一月。一歩先に冬がある季節に似つかわしくない、ゲリラ豪雨である。
撥水性の帽子をかぶってはいたが、余計な消耗は避けたい。傘を取り出す。
ボツボツと布の膜を連打する水滴。否応なく辺りは冷える。ますます嫌気がさし、もう本当に帰ろうかと思ってきたところで、森が開けた。傘で目線の高さが隠れていたから、地形の変化に気づくのが遅れた。
砂地の道は一転、アスファルトの舗装に変わった。傾いたガードレールが笹藪の中から生えており、かつてはここに車の往来があったことを示していた。道は蝸牛の殻のように螺旋状に続いているらしい。僕の正面の道が右側から左に巻き込むようにして大きなカーブを描いており、その道はおそらくだが、僕の目線の高さから人一人分くらい高くなったところを横切るようにして続いていた。同様の流れが続いているとしたら、やはり蝸牛の殻のような、という言い方になるだろう。
GoogleMapを見る。ここから先、道の表示が途絶えていた。
ざあざあと雨が降っている。空は鈍色だ。冷たい空気が肺を犯す。僕はぶるりと体を震わせた。それから、覚悟を決めるとこの坂道を登り始めた。
黄泉比良坂。そんなのはこの神奈川の辺境にはない。そう信じながら。
*
やがて螺旋状の坂道を登りきると、すぐ目の前に建物が見えてきた。白い石材で建てられたロマネスク様式の建造物。見ようによってはヨーロッパの片田舎に、そして長崎県あたりにありそうなキリスト教の教会のようでもある。神聖な雰囲気のある建物。
門扉。優に三メートルはあるだろうか。立派なものだった。戸板に大きく、涙を流す目のマーク。
「これが……」
思わず声が出る。
静謐の教団。その本部か。
さっと周囲を見渡す。門の周り。何か受付のようなものはないか。
しばらく視線を走らせたがそれらしきものがない。参った。あいつは……榊山はどうやって教団内部に入り込んだんだ? 豪雨はいつの間にか霧雨に変わっていた……いや、もう雨とは言えない。振り返るとこれまで登ってきた坂道さえもよく見えないほどの霧が立ち込めていた。僕は傘を閉じた。
とりあえず。
僕は門扉に近づいた。もし、セキュリティ的な何かがあるなら、僕のこの行動は警備か何かの目に触れるだろう。それで要件を訊きにやってきてくれれば万々歳。その後どう転がすか、計画は何もないがとりあえず静謐の教団とのファーストコンタクトと相成るわけだ。
僕は静かに歩み寄った。白いドア。その数メートル手前。
「おい」
いきなり声をかけられた。僕は驚いてドアに伸ばしていた手を引っ込めた。辺りに目を走らせる。だが、誰もいない。
「おい」
しかし声はする。僕は警戒心を強めながらじりじりと後ろに下がった。その時だった。
「こっちだよ」
その時ようやく、声が頭上からしていることに気がついた。
目線を上にやる。
……そして、そう。実はこの時既に、気づいていた。この声が……僕を呼び止めたこの声が、この声こそが、探し求めていた声だということに。
声の主が、僕の顔を見たのだろう。一瞬、固まった。
僕の目も、ようやく霧の向こうにその声の主を見た。
僕の頭上。
ロマネスク様式の建造物。そのドアの上には物見やぐらのような出っ張った箇所があった。そこには小さいながらに縦長の窓があり、そしてその奥から……細長い目をした男が一人、こちらを覗いていた。
僕は声を飛ばした。
「阪村」
あいつも応じる。
「久しぶりだな」
つまらなそう。何もかもを達観しているような顔。そいつが高いところから僕を見下ろしていた。僕はその様子が心底気に食わなかったが、しかし今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
――いきなり王手をかけることができた!
その喜びの方が大きかった。何せこんな厄介事。早めに済ませられるなら済ませて帰った方がいい。かつての友を探してこの謎の新興宗教の本山に出向き、危ない目を見て帰るのよりは……その入り口で簡単に挨拶だけを済ませて帰る方が、どれだけ楽で安全か。
「君の様子を探りに来たんだ」
僕はご機嫌で声を飛ばした。
「元気そうならよかった」
「元気でやってるよ」
あいつは高いところから声を飛ばしてきた。僕の記憶の中のあいつは細渕の眼鏡をかけてニヒルに笑っている印象なのだが、今のあいつはニヒルでこそあれ眼鏡はかけておらず、また髪の毛も短く刈り込まれていた。表参道あたりでベンチャー企業をスタートアップさせましたみたいな雰囲気がある。少なくとも秦野の山奥が似合う顔じゃない。
「何だ、LINEでも寄越してくれたらよかったのに」
あいつが低い声でそう告げてきた。
「繋がらなかった」
嘘だ。嘘だがまぁ、面倒くさいのでいい。
「君がこの施設にいるらしいことを聞いてな。わざわざ足を運んだんだ」
とりあえず、事実を並べて会話を繋ぐ。榊山は阪村の様子を見てきてほしいような雰囲気だった。ここで短いながらも会話ができて、奴の状態を確認できればミッションはクリアと言ったところだろう。何と簡単なことか。
「ここへはアポイントメントがないと入れないぞ」
阪村がそう声を飛ばしてきた。霧が一瞬濃くなって、あいつの姿を隠した。
「じゃあ出直すか」
僕は肩をすくめた。心境としてはまぁ、複雑だった。これだけしっかり準備したのだからもっと深いところまで知りたいと思う反面、謎の宗教に気まずい関係の友人、厄介事がさらに厄介になる前にさっさと退散してしまいたいという気持ちもあった。
「特別だ」
しかし阪村はそんな僕の悩みを払拭するかのように告げた。
「今からそっちに行く。久しぶりなんだ。おしゃべりでもしよう」
まぁ、願ったり叶ったり……か? 願ってはいないような気はするな。しかし目的ではある。難しいところだ。
そうしてあいつは窓の向こうに姿を消した。しばらくして、「僕はもしかしてこの霧の中にあいつの幻を見たんじゃないか」と不安になり始めたところで、目の前のドアが開いた。
「静謐の教団へようこそ」
巨大な門の向こう。あいつがいた。
「私が立ち上げに関わった教団だ」
霧の向こうに見えたあいつは相変わらず、不遜な顔をしていた。僕は目を細めてあいつを見た。
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