第2話 依頼

「で、何か用か?」

 僕は榊山にルイボスティーを勧めると、いきなり要件でぶん殴ることにした。榊山は目をそっと細めると口を開いた。彼女は不満そうだった。

「そんな言い方しなくてもいいでしょうに」

 一理ある。が、しかし、阪村のかつての恋人だ。僕にとってはネガポジで言うとネガティブが勝つ相手だ。関係性としては、僕と阪村と榊山は同じ高校の出身で、上手く人間関係が築けていればこれはちょっとした同窓会気分だったのだが……阪村というパーツが抜けた僕たちの関係性はどうにもぎこちない。会うこと自体も十年ぶりくらいだが、懐かしいという印象よりも「何で今更」という感想の方が強かった。多分自分自身の元カノと会うのよりも気まずく思っているかもしれない。

「分かった。単刀直入に言うね」

 榊山は姿勢を正した。思えばこの子、昔はスカートが苦手とか言ってたのに今日はプリーツスカートで来ている。

「マサくんを、助けてほしい」

 マサくん。阪村さかむら将也まさやの「マサ」だろう。僕はため息をついた。

「助けるって何から」

 僕がつっけんどんに返すと、榊山は一冊のパンフレットを取り出してきた。開いて、見せてくる。

〈神奈川県出身のSさんの声〉

 そう、見出しがあった。

 よく見ると、それはあの「静謐の教団」のパンフレットだった。特徴的な緑とベージュのボーダーが妙な力を持って主張してくる。隅の方に、涙を流す目のマーク。悪趣味だ。

 Sさんの声というのがこれだ。

〈静謐の教団と出会って、これまでの罪が洗い流されたような気持ちになりました。実際、心を静かに保つこと=瞑想には脳のデトックス効果があります。まずは気軽にヨガやマインドフルネスの教室に来るだけでも構いません。私と一緒に、静謐の中に身を置いてみませんか〉

 多分、このSは。

 阪村の、Sなんだろうな。

「妙に理屈っぽいところがあいつらしいというか……」

 僕がつぶやくと榊山も頷いた。

「ね」

 僕はその「ね」を同意の意味だと取ったのだが、しかし榊山的にはそうではなかったようだ。彼女は鞄を開けるとまた一枚の紙を取り出してきた。どうもスクラップ記事のようだった。

〈狂気の静謐? 人間工場から脱出してきた女性の手記〉

 いきなりとんでもない情報が飛び込んできて僕は目を白黒させた。人間工場? おいおいここはアフリカの角か? 

 しかし続くスクラップ記事にある情報を見て僕はさらに目を白黒させた。

〈女性ばかりが種付け部屋と呼ばれる倉庫みたいな部屋に集められて、開脚した状態で固定される。そこに豚や馬のゴムマスクを被った男たちがやってきて、無理やり性交する〉

〈妊娠が分かれば別室に連れていかれ、徹底的な管理下に置かれる。定期的な搾乳、採血。出産後、赤子は連れ去られ、顔も見ることができない。産後は性交部屋と同じくらい質の悪い場所へ移され、定期的に搾乳される。乳が出なくなり、生理が始まるとまた種付け部屋へ戻される〉

「これ作り物だろ?」

 僕は眉根を顰めながらそう訊ねた。だが目の前の榊山は首を横に振らなかった。

「出来の悪いエロゲみたいな話だぞ」

 やはり、振らない。

「他の記事見てみて」

 榊山が静かにそう告げたので、僕は再びスクラップ記事に目を戻した。

〈強制労働場からの脱走〉

 そう、あった。

〈毎日日が昇る前に起こされる。起きない奴は鞭で叩かれる。過労で頭がクラクラする方がマシか、鞭で肌がズタズタになる方がマシか。やっとのことで起きると、まずはマウスウォッシュをさせられる。シャワー室みたいなところで全裸になり、口を開けたまま上を向くと薬液をかけられるのでそれで口を濯ぐのだ。同時にこれは洗顔であり洗髪であり洗体でもある。薬液に塗れた全身を擦る。頭の先から、爪先まで〉

 捉えようによっては詩的な文だな。そう思ったことを僕は後悔する。

〈まず、穴を掘る。ずっと、掘る。時計はない。太陽の傾きだけが頼りだ。『心を静かに』。そう、言われる。ずっと掘る。ずっと掘る。ずっと掘る。そうして掘った穴を、ある時点で『埋めろ』と言われる。穴から出る。穴に土をかける〉

〈日が暮れる。照明がないので辺りは真っ暗だ。何もない。ひたすら手を動かす。暗いから穴が埋まったのかどうか分からない。とにかく土を、すくってはかけ、掬ってはかけ、続ける。その内、『これは穴を埋めるために別の穴を掘っているんじゃないか?』という気がしてくる。確認のためスコップで辺りを叩く。何もない。自分が高い場所にいるのか低い場所にいるのかも分からない〉

〈気づけば無音だ。何も音がしない。俺の息、俺の胸の音、俺の汗の音、それだけがする。ひたすら手を動かす。ひたすら手を動かす。ひたすら手を動かす。ある時点で、耳をつんざくような笛の音が鳴る。すると遠い向こうから懐中電灯を持った係員がやってくる。一人ずつ、顔を照らされ、確認される。『帰ってよし』『帰ってよし』。そう言われて初めて帰ることができる〉

〈帰ってすぐやることは栄養の補給だ。『静心羹せいしんかん』と呼ばれる羊羹ようかんのようなものを二つ、渡される。好きなタイミングで食えと言われる。俺は朝に二本食べる。他の奴は朝に一本夜に一本。中には昼間、作業の間に食おうとした奴がいたが没収されたらしい。かわいそうに。かわいそうに〉

「『夜と霧』でも参考にしたか?」

 ここまで来ても僕はまだ榊山の自演を疑っていなかった。いくら怪しげな宗教だからってこんな、アウシュヴィッツに手を伸ばすような真似、しないはずだ。しないはずだし法治国家においてこんな真似、許されるはずがない。だが。

「その次見てよ」

 僕はもう一つ、スクラップ記事を見た。

〈最近うちの近所でたむろしてる男の子たち。どこの子? って訊くと『せいひつ』って返ってくる〉

〈最近聞く『セイヒツ』って何?〉

〈せいひつ〉

〈『せいひつ』って、孤児院か何かか?〉

〈『せいひつ』って高校あったっけ?〉

 どうもXのポストのまとめらしい。至るところで見る「せいひつ」に関する噂話を集めたもののようだ。

 内容は多岐に渡った。だが総括すると「子供が関係する」「借金の返済を助けてくれる」「身寄りのない人を救援する」「弱い女性の味方になる」ものらしい。

 何となく、背筋に走る。

 榊山がこちらを見る。

「これにマサくん、関わってるって」

 僕は少し考えた後、スマホを取り出した。

 各種SNSを開き、「せいひつ」で検索してみる。

〈せいひつでローン返済助かった!〉

〈不当解雇についての相談をせいひつにて行っていただきました〉

〈せいひつ! 出会に感謝!〉

 ……薄っぺらい。

「ね?」

 僕の行動を見ていた榊山が切実な目を向けてくる。彼女は続ける。

「マサくんを助けてあげて」

「君が行けばいいだろうに」

 すると彼女はすっと左手首を見せてきた。

 そこには、涙を流す目のマークがあった。

 ふと、手元の資料に目をやる。

 静謐の教団のパンフレット。そこにある。

 涙を流す目のマーク。

「安心して。ちょっと強力なタトゥーシールか何かみたい。数ヶ月もすれば落ちるって医者が」

 しかし、彼女の目は怯えていた。

「私行ったの。『静謐の教団』のところへ。マサくんに会おうとした。そしたらいきなりこれを貼られて連れていかれそうになった。鞄も靴も全部捨てて、山の中、道もないところをとにかく必死で逃げたから何とかなったけど、もしそうじゃなかったら……」

 僕は思い出す。

 人間工場。

 女。まぁいくらいてもいいだろうな。

「僕は捕まっても平気だってか?」

 しかし僕は強気に応じる。

「まぁ、僕は強制労働させられても君は痛くも痒くもないも……」

 顔を、張られた。

 頬が手の形に熱を持つ。こいつ、思いっきり叩きやがった。

「あなたとマサくんは親友だった!」

 榊山はほとんど叫んでいた。半立ちになって、少し高いところから僕を見下ろしてくる。

「そうでしょ? それが何? たった一回喧嘩したからって……」

「喧嘩の回数自体はめちゃくちゃ多いぞ」

「そういう話してないよね?」

「まぁ、そうなんだが……」

 僕はふと、内省した。これは多分、僕なりにあいつとのことでまだ思うところがあるから、いきなり榊山に衝撃的なことを言われて狼狽えているんだろうな。

 そう、理解することはできた。

「三日」

 僕は指を三本立てた。

「今日一日準備して明日から取り掛かる。明日から三日。何も連絡がなかったら警察に行ってくれ。躊躇うことなく」

 榊山が一瞬、目を潤ませた。

 それから、一礼してくる。

「ありがとう」

 続ける。

「ありがとう」

「礼を言うのはこっちの方さ」

 僕はヒリヒリする頬を撫でた。

「これであいつにさよならが言える」

 それは、本心だった。



 モバイルバッテリーを、四個。一つはラジオにもなるもの、一つは懐中電灯にもなるもの、小型のを一つ、大型で大容量のものを一つ。

秦野はだの市の八沢はっさわ

 僕が前以て調べていた通りだった。教団本部があるのは秦野市八沢と足柄上郡あしがらかみぐんとの境界線にある山(松田山、というやつだろうか?)。地図上はゴルフ場になっているが、榊山が言うには「広大な敷地なのは確か」らしく「いくつか背の低い白い建物があった」とのこと。それらの建物の内のどれかが人間家畜場であり、どれかが強制労働所だ。心を静かに。そのモットーの元、人権が蹂躙されている。

 ポケットWi-Fiも複数持っていく。山の中でも繋がる強力かつ、複数の回線に繋がれるやつだ。普段僕が使っているのに加えてチャージ式のものを一つ用意した。金銭上の負担も少ない。遭難時を想定して、ビーコンを持つことも忘れない。

 着替えられるか絶望的だと思ったので、体を拭けるウェットティッシュと使い捨てのタオル、紙製の下着とを持つ。水筒を二つ。一日過ごすのに十分なサイズを一つと、ポケットにも入るような小型のものを一つ。カロリーメイトにinゼリー。レモン味ののど飴を一袋。折り畳みの傘。リュックは手近なホームセンターで三千円ちょっとで買えるものにした。何かと便利なスーパーのビニール袋をいくつか。もしもの場合に備えて護身用のクボタンをポケットに入れる。懐中電灯も警棒としても使える頑丈で長いものを持った。それ以外にも小型のヘッドランプ、自転車用にもなるミニランプ。アルミ毛布。

 動きやすい恰好がいいと判断し、下は伸縮素材のズボン、上はポケットがたくさんついているマウンテンパーカーという恰好で出向くことにした。靴は慣れたものに防水スプレーをたっぷり。悪天候に備えて撥水性の折り畳み帽子も被る。

 一通り準備が終わり、晩、僕は秘蔵のシーバス・リーガルのたくみリザーヴを取り出して飲んだ。場合によっては最後の晩酌かもな。そんな縁起でもないことを思う。

 酒がほんのり回ってきた頃。

 僕はスマホを操作しながら、昔の画像を眺めて過ごしていた。あいつと一緒に活動していた時。二人で新人賞通過者が載っている文芸誌を指差し笑っている写真。二人の合作名があった。僕はそれを懐かしく思いながら見つめた。

 男性の平均的な身長をしている僕の隣で、百八十以上あるあいつは屈みながら写真を撮られていた。切れ込んだような小さな目がこちらを見ている。あいつが宗教に。あいつが、静謐の教団に。

 人間工場、強制労働。

 今もあの地では、悲惨な者たちの届かぬ悲鳴が響いているのだろうか。

 いずれにせよ、分かる。

 僕があの地に行けば。



 きたる十一月四日。

 僕は秦野へと向かった。

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