第5話 結審
法廷内は静まり返り、緊張が漂っていた。
それは被告人の運命を左右するだけでなく、この社会そのものを問う重要な裁判となることが明白だったからだ。
静かな法廷で、弁護士は裁判官に促され立ち上がると、堂々とした態度で話し始めた。その手にはスマホがあった。
「ご覧ください、この膨大な数の『いいね』を。五千万を超えています。有権者の過半数です。これはまさに民意そのものです。これは現代社会における民主主義の新たな形態です。この数千万の賛同がある以上、被告人の行為はもはや正当とみなすべき事態です。法整備や法環境の遅れこそが問題であり、現行法のスピード感こそが時代遅れであることは明らかでありませんか。まさに民意による政治判断がネット上で行われています」
手を挙げて検察官は冷静な表情で反論した。
「現行法こそが民主主義のプロセスを経て制定されたものです。この法を施行することが道理であり、正義です。このようなネットのやり方を許せば、全ての犯罪が正当化され、社会は無秩序に陥るでしょう。現に、いま、まさに言いたいことも言えない不自由さ、不寛容さが蔓延しております。現行法を守ることこそが、真の民主主義の実現であり、変えたければ民主主義のプロセスを踏むべきなのです」
しかし、弁護士は一歩も引かなかった。
「言いたいことの言えない不自由さ? そうでしょうか? 言いたいことを言い、やりたいことをやる野放図さこそ、現代社会が無秩序に陥った要因です。現代のテクノロジーとネットワークの発展に伴い、民意の表現方法も進化しています。この数千万の『いいね』は、現行法が社会の実情に追いついていないことを示しています。日々、刻々と変わる情勢のなか、民意を選挙に問うたところで、なんの抑止力にもならないことが判明しているではありませんか」
検察官は目を細め、毅然とした声で応じた。
「いえ。法の遵守こそが、社会の秩序と安全を守るための基盤です。これを守ることが、社会を混乱させない、抑止力です。仮に数千万の『いいね』があっても、それが法を無視する理由にはなりません。もしこの主張を認めれば、法律の意味が失われ、社会は混乱に陥るでしょう」
弁護士はさらに声を荒らげて主張を展開した。
「では、事件の内容についてもう一度考えてください。被告人が殺害した相手とはいったい誰なのか? 何の罪もない近所の女子高生を攫い性的暴行を加えた上で奴隷契約書を書かせ複数人と性的関係を結ばせ風俗に売り飛ばし最終的に彼女を殺害してドラム缶に詰めて埋めた、冷酷非情な男です。その裁判では、被害者は『責任能力が制限されている』という曖昧な理由で、刑務所内での薬物治療となりました。被告人はその判決を確認後、強盗未遂で同じ刑務所に入り、獄中でこの男を殺害したのです。この男を殺すための犯罪です。この行為が数千万の『いいね』を得たことは、被告人の行動が正当化されるべきであることを示しています。現行法が時代に適応できていない現実を直視し、今こそ法の見直し、柔軟な法判断、法運用を必要としているのではないでしょうか」
検察官も譲らない。
「被害者の起こした事件は、本来、ここで争うものではありません。そして法治国家にその時の民意が重要であることは否定しません。しかし、それを法の外で実現しようとすることは、危険な前例を作ることになります。『責任能力が制限されている』のであれば、死刑には問えません。法治国家である以上、法の下での平等と秩序を守ることが最優先です。数千万の『いいね』があるからといって、それが法律を超越する理由にはなりません。被告人の行為は、たとえ被害者が極悪非道な人間であったとしても、法の範囲を超えた私的制裁であり、許されるべきではありません」
法廷内の緊張感はピークに達し、そして静寂が訪れた。
法は果たして機能しているのか。民衆の願いを果たさない法治に意味はあるのか。
ネットが現実に突きつけた重い錐は、全ての民衆の喉に平等に突きつけられていた。
──結審。裁判官がゆっくりと発言を始めた。
「両者の意見を慎重に検討した結果、本法廷は現行法の遵守を優先することとし、被告人を有罪とします。」
その瞬間、法廷内の傍聴席がざわめいた。傍聴者の中には、スマホを掲げる者たちが現れた。写真を撮っている。すぐさま守衛によって取り押さえられたが、その数は、一人二人ではない。
裁判官が大声でその理由を述べている間も、それは止まることがなかった。
止めても、止めても、スマホを掲げ続ける傍聴者たちに、守衛はたじろいだ。自分の顔を撮られていると気付いたからだ。
慌てて守衛は顔を手で隠した。
それは同じタイミングで気付いた検察官もだった。
傍聴者たちの顔は冷静でありながら、その行動には強いメッセージが込められていた。
裁判官も驚いた表情を見せたが、すぐに平静を取り戻し、声を張り上げ、法の威厳を保とうとした。しかし、その一瞬の出来事が法廷内の雰囲気を一変させていた。スマホを掲げる者たちの存在は、SNSの力とその底知れない影響力を改めて示すものであった。
法廷内の静寂が戻り、裁判官は判決を言い渡すために口を開く。
「以上。本法廷は、被告人に無期懲役を言い渡します」
その声が響き渡ると同時に、傍聴者たちは静かにスマホを下ろした。彼らの顔には、裁判の結果に対する無言の抗議が浮かんでいた。
裁判が終わり、法廷内の人々は静かに席を立つ。しかし、その光景は長く人々の記憶に残り、SNSを通じて広がる新たな民意の形が、今後どのような影響を及ぼすのかを示唆するものであった。
#一人一殺
このタグに触れてはならない。
しかし……果たしてこのタグだけの事件なのか……。
見落とされたタグが、他にも、どこかにある気がしてならない……。今も、この瞬間も……。
(了)
★★★ 作者より ★★★
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
用意していたオチはカットしました。皆さんで、オチをいろいろと想像してみてください!
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【短編】 #一人一殺 玄納守 @kuronosu13
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