エピローグ

愛し合う恋人たち

 翌年にはプロポーズされた。

 さらに、その翌年には籍を入れた。


 そこまで急がなくても、とやんわり伝えたものの、聞き入れてはもらえなかった。

 むしろ〝なにを呑気なことを口走っていやがる〟とばかりに睨まれた。茅乃なりに彼を気遣っての発言だった分、あまりの扱いにムッとしてしまった記憶はまだ新しい。


 挙式は、ごく親しい親族のみで行った。

 白無垢姿の茅乃を目にして、なぜか両親よりも伯父夫妻のほうが激しく号泣していたことを思い出す。ついでに、そんな親たちを見守る大志と沙耶の顔も思い出した。ふたり揃って呆れ顔で両親を眺める、似た者兄妹……思い返すだけで、茅乃の頬はほんのりと緩む。


『蓮のこと、どうかよろしくお願いします』


 茅乃が何度たしなめても、蓮の母親は深々と頭を下げることをやめなかった。

 蓮が茅乃の横から離れたタイミングを見計らい、『茅乃ちゃん、本当にあの子でいいの? おばさん、茅乃ちゃんが無理してないかずっと心配で……』などと彼女が声をかけてきたときには思わず笑ってしまった。

 しまいには『あの子は腹黒いところがあるから』とボヤかれ、笑いが過ぎて肩が震えたものだ。その場に戻った蓮に顔色を見られ、なにがあったのかと訝しまれたほどだ。


 また、式には招けなかったが、亜希子には別の機会に蓮を紹介した。

 はじめまして、とにっこり微笑んだ次の瞬間には、亜希子は蓮の胸倉を掴み上げていた。女性にしては身長が高いほうに分類される亜希子が、見上げるように蓮を威嚇する表情は、今思い出しても心臓に悪い。美人は怒ると本当に怖いのだ。


『あと一回でも茅乃のこと泣かせたら、そのときは殺すから』


 ……多分、あれは本気だった。

 初対面の相手からの殺気立った挨拶に、蓮は盛大に顔を引きつらせていた。しかし、彼は己の首を圧迫する亜希子の手を外そうとは最後までしなかった。

 亜希子があの態度だったとはいえ、男の力で外せないわけはなかっただろうに。


『……泣かせません』


 睨み合っているように見えなくもなかった。

 たっぷり十秒が経過した頃、結局、亜希子は盛大に溜息をつきながら蓮の胸倉から手を外した。


『茅乃がいいって言ってんだから、仕方ないか』


 そう言って笑った亜希子の顔を、自分は生涯忘れられないだろうと茅乃は思う。

 それから、恩田家の両親に結婚の挨拶をしたときよりも緊張して見えた、蓮の横顔も。



     *



 申し訳なさそうに正面に座る美和から、すっと隣へ視線を移す。

 そこには、少々懐かしい人物が腰かけていた。


 明らかに顔を引きつらせた相手を見て、茅乃は密かに溜飲を下げる。

 茅乃がある程度の事情を知っていると、美和本人から聞かされているのだろう。チェーン店のカフェらしい小洒落たソファ、そこに腰を沈めて腕組みする茅乃を一瞥した美和は、場の空気に耐えきれなくなったのか、おそるおそる口を開いた。


「あの……茅乃さん、怒ってる?」

「美和ちゃんには怒ってないよ」


 茅乃の返答に息を呑んだのは美和ではなく、隣に座る男――橘だ。

 自身の結婚の報告を兼ねて美和と会う約束をしていたが、美和のほうから『私からも茅乃さんに報告したいことがあって』と切り出してきたのだ。


 どことなくばつの悪そうな電話越しの美和の声に、もしかしたらと思わなかったわけではなかった。しかし、その懸念が現実のものとなった以上、さすがの茅乃も態度に剣呑な気配を滲ませざるを得ない。

 涙を零しながら笑っていた二年前の美和を思い出す。騙されているのでは、また泣かされるのでは。そう思えば、茅乃の眉は自然と寄ってしまう。


 不穏が過ぎる茅乃の態度を目にした橘は、ようやく覚悟を決めたらしい。

 深々と深呼吸をしてから、泳がせてばかりいた両目をまっすぐに茅乃へ向けた。


「その、しゅ、就職が決まったんで、改めて告り直しました!! 幸せにします!! あの、絶対幸せにしますんで!!」


 耳が痛むほどの大声が、店内にわんわんと反響した。

 真っ赤に顔を染めた美和が、橘の後頭部を引っ叩く。「ちょっと黙りなさいよこんなところでなにこっ恥ずかしい発言してんのいい加減にしなさいよ……」と呪文のようにぶつぶつ呟く美和の声は異様に細い。橘とは対照的で、茅乃はつい笑ってしまう。


 ちらちらと他の客の視線を感じる。

 かなり居心地が悪い。すみません、となぜか茅乃が周囲に頭を下げた。

 こういう役回りには慣れているから構わないが、無論、庇う相手が橘ひとりならやっていない。しかも、実際に申し訳なさそうにしているのは美和だけだ。


 目が据わり、その癖、口元はふっと緩む。

 そんな茅乃を見るなり、橘は再びぴしりと背筋を強張らせた。


「次に美和ちゃん泣かせたら、そのときは……分かるよね」


 亜希子が口にしたものとよく似た台詞になったな、と思いつつ、結局は最も物騒なひと言をオブラートに包んだ。

 さすがに亜希子のようには振る舞えない。言ってやりたいのは山々だったが、これだけは性格の違いもあるから仕方ない……内心で苦笑した茅乃だったが、相手には十分に伝わったらしかった。

 派手に顔を引きつらせていた橘は、いつの間にか表情を引き締め、さっきの忙しない大声が嘘だったかと思えるほど落ち着き払った態度で口を開いた。


「……泣かせません」


 ……同じ台詞だ。

 無言のまま、茅乃はまた笑ってしまった。


 そのとき、美和の視線がふと上側に動いた。背後に気配を感じて振り返った先、茅乃の頭上に、先日恋人から夫になったばかりの彼の顔が覗く。

 迎えにいくとは言われていたが、予定よりも十分以上早い。理由を問おうとして、やめた。〝また変なのに絡まれるかと思って〟などと、美和と橘の前で嫌味たらしく惚気られるのはごめんだ。


 視線を戻した先、前方に腰かけた橘が呆然と蓮を眺めている。

 蓮は蓮で、美和ではなく橘を視界に入れ、わずかに眉根を寄せている。

 訝しく思った茅乃が、再び橘に視線を戻した――その瞬間。


「ああああああああ!! 東條!! お前めっちゃ東條じゃん!!」


 橘の大声が、またも店内にわんわんと響き渡った。眉を寄せていた蓮が、軽く耳を押さえながらますます顔をしかめていく。

 蓮が顔をしかめた理由は訊かなくても察せたため、茅乃はそっと立ち上がり、彼に席を譲った。蓮は「え……?」と思いきり嫌そうな顔をしたが、いいから、と半ば強引に座らせる。


 考えてみれば、このふたり、高校が一緒だ。しかも多分クラスメイト。

 席を立った茅乃は美和に目配せをして、ふたり揃って別の席へ移動する。


「長くなるだろうし、デザートでも食べてよう?」


 こっそり耳打ちすると、橘も顔負けのけたたましい声で、美和は心底楽しそうに笑った。



     *



 せっせと荷ほどきを進める。

 引越は、蓮の職場の新人研修が一段落する時期に合わせていた。新居となる2LDKのマンションは、新婚気分をほどよく掻き立ててくれる……とはいえ、現実はシビアだ。


 荷物に埋もれた茅乃の、段ボールに油を吸われた指がちりちりと痛む。なんとも残念な現状だ。

 すぐに使う日用品類をひと通り段ボールから出し終えた彼女は、のんびりと残りの荷物を眺めては整理する、という流れを繰り返していた。


 とそのとき、懐かしの文庫本が箱の底から顔を出した。

 ほんのりと時代を感じさせる表紙の絵柄、それでも高校生当時の茅乃をきゃあきゃあ言わせた美麗なカバーイラストが目に飛び込んでくる。

 懐かしさのあまり、彼女は荷ほどきを忘れてパラパラとそれをめくり始める。すると、間もなく部屋のドアが開いた。


「かや姉、ハサミってもう段ボールから出してあるか……ってなに本なんか読んでんだよ、荷物なんとかすんのが先だろうが」

「あ、ちょうどいいところに来た! ねぇ見て、これ懐かしくな……」

「あっ!!」


 小言を全力でスルーし、茅乃は本の表紙を蓮に見せる。

 しかし、なぜか蓮は盛大に顔を引きつらせた。手元の本を乱暴に奪い取られ、なにが起きたのかすぐには把握できなかった茅乃は、ぽかんと口を開いて蓮を見つめる。


 だが、蓮はそんな彼女を見てもツッコミのひとつも入れなかった。

 普段なら喜々として――といっても表情にはあまり表れないが――からかってくる癖に、彼の顔は焦燥に駆られたままだ。


「な、なに勝手に人の荷物開けてんだよ……っ!」

「は?」


 ……人の荷物?

 もう一度、蓮の手に収まった自分の本を見つめる。それが入っていた箱は、確かに、住んでいた借家から茅乃が持ち込んだ段ボールだ。


 蓮の視線が、茅乃のそれを辿るように動く。

 そのとき、彼女は夫の顔がさあっと青褪めていくさまを見て取った。


「あの……蓮くん。それ」


 頭を抱えて膝からくずおれた蓮を見て、茅乃は思わず笑ってしまう。

 どういう経緯で、彼はこれと同じものを手に入れたのか。詳細が気になった茅乃が口を開こうとした矢先、蓮は機械的に立ち上がってドアに足を向けた。


「あ、ハサミはやっぱり要らないですじゃあ俺は引き続き荷ほどき作業に戻りま」

「いやいやいや、待ってよ。なによ今の? アンタも持ってるってこと、これ?」


 逃げようとした蓮の腕を、茅乃ががちりと掴み取る。

 すると、茹で蛸と見紛うほど顔を蒸気させた彼は、荒れた口調で叫んだ。


「うるせえな!! あんたが昔ドハマリしてたから気になって買ったんだよ、小学生には痛ェ出費だったんだぞ! 全部あんたのせいだからな!!」

「な、なによその言いざま!? 責任転嫁にもほどがあるでしょ、だいたいそれならなんで買ったの!?」


 う、と途端に蓮が口ごもる。

 腕を捕らえたきり、茅乃はあえて沈黙を選んだ。黙って続きを促すと、彼は頭をがしがし掻きながら、とうとう観念した様子で口を開いた。


「……あんたがどんなのに憧れてるのか、ちゃんと知りたかったから」


 沈黙が降りた。茅乃も蓮と同様、茹で蛸になった。互いに気恥ずかしさが過ぎ、しばらく沈黙が続く。

 ふっと口を緩めたのは、茅乃が先だった。蓮の手からそっと書籍を取り戻し、茅乃は表紙に描かれた主人公たちを指差してみせる。


「ふふ。でも、私たちってこのお話のふたりに似てない?」

「は?」

「だって、ヒロインが三度目に助けてもらって、それからちゃんとした恋人同士になるでしょ。それって私たちと一緒かなって思って」

「……言ってて恥ずかしくならねえのか、かや姉……」

「は、恥ずかしいに決まってる!! っていうかむしろアンタのほうがよっぽど、んぐっ!!」


 それ以上は言うなと、大きな手のひらが茅乃の口を覆った。

 彼女がくぐもった声をあげるとそれはすぐに外れ、ふたりで声をあげて笑う。ひとしきり笑い合った後、少し遠い目をした蓮が口を開いた。


「なんつうか、あのときのあれで素直に終わってくれればいいんだけどな……」

「は? なにそれ?」


 含みのある言い方に、つい茅乃の眉が寄る。

 そこを撫でるように長い指が這い、茅乃は擽ったさに身を捩った。間を置かず頭にこつんと軽い衝撃が走り、ふたりの額が重なり合う。


「もう変なのに引っかかんなよって話。いや、別にかかったらかかったで」


 ――また助けるから、いいんだけど。


 重なった額が離れ、そこにやわらかな感触が降りる。

 生意気な台詞に、思わず軽口を叩き返してやりたくなった茅乃だったが、言葉とは裏腹な優しい口づけを前に毒気を抜かれてしまう。


 うっとりと目を閉じると、今度は唇にキスが落とされた。

 途端に言葉にできないほどの愛おしさに胸が満たされた茅乃は、広い背中にきつく腕を巻きつけた。




〈了〉

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麻酔、あるいは恋によく似た 夏越リイユ|鞠坂小鞠 @komarisaka

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