《2》麻酔、あるいは恋によく似た
不格好にもほどがあるとはいえ、事前に切り分けておいて良かった。
今からやれと言われても、手元が震えて現状以上のひどさになったに違いない。
夕食の時間をとうに過ぎていたため、作り置きしていた夕飯を先に用意した。その後、微妙に生クリームが溶け始めていたショートケーキをふたりで一緒に食べる。
一度溶けたクリームは、冷やしたところで元の形には戻らない。せめて事前に冷蔵庫へ入れておけたら良かったのに、と後悔を覚えた茅乃だったが、上機嫌でフォークを動かす蓮の顔を見ればそれも簡単に薄れていく。
綺麗に平らげられた皿を見て、茅乃は頬を緩めた。
ふたり揃って「ごちそうさまでした」と手を合わせる。ふと正面を向くと、蓮の口端に白いクリームがついていて、茅乃は思わず噴き出してしまう。
「ちょっと、クリームついてるよ。ふふ、今日から大人なのに可愛いじゃん」
途端に、蓮はムッと眉を寄せた。
不格好な切り分け方を笑われた仕返しとばかり、茅乃はからかいを含んだ視線を向ける。すると蓮は、そんな彼女を小馬鹿にするようにふんと鼻で笑った。
「じゃあ拭いてくれ。早く」
「はぁっ!? ば、馬鹿じゃないの、自分で拭きなよ!」
甘えた声でのお強請りに、茅乃の顔が赤くなる。
しかし、蓮はそれを気にする素振りを露ほども見せず、ほら、と彼女に自分の口端を指差してみせた。
……遊ばれている。
さっさと拭いてしまおうと、赤い顔のまま茅乃がティッシュへ手を伸ばすと、蓮はあからさまに不満げな声をあげた。
「は? ティッシュなんか使うつもりかよ。そんな色気のねえやり方が許されるとでも思ってんのか」
「ゆ、許されるに決まってるでしょ! さっきから調子乗りすぎよ、アンタ!?」
声を荒らげ、茅乃は頑なにティッシュへ指を伸ばす。だがさして間を置かず、その指は蓮の手に包み込まれてしまった。
睨みつけてやろうとキッと横を向いた茅乃だったが、彼女の指を口元へ運びながら、蓮はまっすぐに見つめ返してくる。ふざけ合う空気は途端にふつりと立ち消え、茅乃の心臓がどきどきと高鳴り始めた。
「……やっぱり舐めて」
告げる低い声は掠れていて、なぜかそれは茅乃の腰に直接響いた。抱き寄せられるように手を引かれ、意識とは裏腹に、彼女は蓮の口端に唇を寄せてしまう。
深く愛し合った先刻の記憶が鮮明に蘇る。同時に、彼はわざとクリームを口端につけるなどという醜態を晒したのかもしれないと、茅乃はどこか遠い意識で思う。
震える舌で、彼女はぺろりとクリームを舐め取る。
ケーキに載ったクリームよりも遥かに甘く感じたそれを嚥下するより早く、満足そうに目を細めた蓮に、茅乃の唇は再び奪われた。
浅く啄まれた後、間を置かずにキスは深くなっていく。ん、と零した抗議の声は抗議としてさえ受け取ってもらえず、しばらく茅乃は蓮の思うがまま、唇を吸われ続ける羽目になってしまった。
*
キスを続けていると、頭がぼうっとしてきて立っていられなくなる。
それは、当時高校生だった彼に、実践を伴いながら教え込まれたことのひとつだ。
足元がぐらついてテーブルに手をついた茅乃を、蓮が無言で抱き上げる。
微妙に間取りが異なるとはいえ、過去に自分が住んでいた部屋とほとんど変わらない内装だ。高熱を出して寝込んでいた日の記憶が、瞬時に茅乃の脳裏へ蘇る。
玄関でふらついた茅乃を、あの日も蓮はお姫様抱っこで運んでくれた。
逞しい腕。乱れない呼吸。涼しげな横顔。あの日に戻ったかのような錯覚に簡単に溺れ、茅乃はますます心地好い酩酊に沈み込まされていく。
……ところで、これほど濃厚な口づけを繰り返していて、蓮は大丈夫なのか。
ぼんやりと考えていたことが顔に出てしまったのか、シングルベッドへ横たえられた途端に真上に圧しかかってきた蓮が、掠れた声で囁いた。
「は……頭クラクラする」
「や、やっぱり? じゃあちょっと休憩しよう? 後片づけもあるし、それに私もぼうっとして……」
「やだよ」
呼吸が上がったまま返した茅乃の言葉は、あっさり却下されてしまう。
絶句した茅乃の唇が、一層逃げ場のなくなった状態で再び塞がれる。彼女の手首を拘束する蓮の手は熱く、茅乃の鼻から艶めいた声が抜けて零れた。
「ああ、片づけは後で俺がやる。気にしなくていい」
「っ、あ」
「駄目だ。逃げたら許さない」
過ぎた執着の気配を前に、茅乃の吐息が震えた。
ここまでしなくても逃げない――そう伝える隙ひとつ与えられない。そのことにさえ、茅乃の胸は高鳴りを増していく。
ベッドが軋むほど強い力で押さえつけられ、口端からはどちらのものとも判別がつかなくなった唾液が零れた。もったいないとでも言いたげに、唇から離れた蓮の舌がそこを舐め上げる。
ざらついた感触に、触れられてもいない腰が震える。茅乃の身体の芯は、勝手に期待を寄せ、甘く疼いてしまう。
頭が痺れ、唇もまた麻痺したように感覚が薄まっていく。閉じた目を微かに開くと、同じように薄く目を開いて茅乃の唇を食んでいる蓮と目が合った。
腫れ上がっているだろう茅乃の唇を、長い指がなぞる。あ、と零れた自分の声は掠れきっていて、すでに碌な働きができていない頭でも、茅乃は確かな羞恥を覚えた。
茅乃の蕩けた声を聞いた彼は、目を細めて笑んでみせた。
少々意地の悪い目で見つめられているにもかかわらず、茅乃はそれさえも悦びとして受け取ってしまう。
そんな自分を恥ずかしく思うと同時に、もうなにも考えられなくなるくらい激しく苛んでほしいとも、思う。
薄く開いていた目を完全に閉じた茅乃は、愛する人の首へ、自分から腕を巻きつけた。
*
時計を見ると、時刻は九時半を回っていた。
乱れた呼吸はまだ元に戻っていない。さんざん押し上げられた絶頂の余韻もさっぱり抜けない。幾度となく愛された身体は、指一本動かすことすら億劫だった。
髪を撫でられる心地好さのあまり、茅乃の口から欠伸が零れる。
隣からくすりと笑う声が聞こえたが、羞恥を覚えるよりも先に、彼女の瞼はうとうとと落ちかけてしまう。
「眠い?」
「う、うん……でも片づけが」
「俺がやるって言っただろ、いいから寝てろ。明日の朝、ちゃんと起こしてやるから」
「……あした……」
明日。ふたりで一緒に迎える、朝。
ふふ、と茅乃は笑い声を零した。
かつても、何度かそんな朝をふたりで迎えた。だが、そのたび茅乃は身を焼くような背徳感と不安に溺れるばかりだった。
だから言えなかった。認めてしまえなかった。日を追うごとに募っていく思いにも、自分の気持ちにも、きつく蓋をした。自分を守るためにそうしたはずなのに、それこそが結果的に蓮ごと自分を追い詰めてしまっていた。
二度と巡らないと思っていた未来が、こんなにも近くにある。
噛み締める。こんな幸せは、きっと他にない。
「……なに?」
「ううん。なんかそれ、いいなって、思っただけ……」
「……うん。おやすみ」
大きな手のひらが、もう一度茅乃の頭を撫でる。
安心する。これでは本当にどちらが年上か分からない。前にも同じことを思った気がしたが、茅乃の意識はすでに限界だった。
「……、……」
なにか言われた気がした。だが、内容までは追いかけられなかった。
半分夢の中に足を踏み入れながら、うっかり声をあげて笑ってしまった茅乃の唇に、温かなぬくもりが舞い降りた。
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