第5章 麻酔、あるいは恋によく似た〈後〉

《1》食べて

 食材が詰め込まれたスーパーの袋を落とさないよう、取っ手を握り直す。

 旬だからか、価格が抑えられた小ぶりの品も目立ったが、それは避けた。売り場に並ぶパックを念入りに見比べ、大粒で形の良いものを選んだ。


 週末、金曜。

 正式に彼と交際を始めて以降、茅乃が遅くまで職場に残ることはなくなった。


 元々が残業などないに等しい、個人経営ならではの雰囲気に満ちた職場だが、すでに伯父一家の面々に事情は筒抜けだ。茅乃が自らそうしたいと望み、直接伝えた。

 居候を続けず、ひとり暮らしをしていて良かった。外泊のたびに冷やかされては堪らない。それに、大志に対しては、複雑に入り乱れた気持ちをまだ整理しきれていなかった。


『ねぇ、その人ってどんな人なの?』

『茅乃ちゃんのお眼鏡に適う男だなんて、ちょっと想像できないわぁ』


 伯母と姪の弾んだ声を思い出し、茅乃の口元が緩む。

 彼女の唐突な報告に、伯父は諦めたように笑い、伯母と沙耶ははしゃいだ声をあげた。大志に至っては、寡黙な彼らしくなく、笑みを浮かべて『おめでとう』と口にした。まだ祝われるような段階では……と顔を赤くして訂正した記憶はまだ新しい。


 懐かしい道を歩く。昔は毎日通勤に使っていた道――いや、まだ昔というほどでもないな、と茅乃は苦笑する。

 交差点から少し進んだところにある公園も、アパートの駐輪場から覗く隣家の小さな畑も、変わらず同じ場所にある。なんの変哲もないそういうことこそが、彼女に淡い懐かしさを湧き起こさせる。


 茅乃が手にする袋の一番上には、赤く熟したつやつやの苺が入っていた。

 揺れる袋に合わせてときおり顔を覗かせるそれは、生クリームたっぷりのショートケーキと同じくらいの彼の好物だ。


 あの子が昔から大好きな、とびきり甘酸っぱい、赤い宝石みたいな果実。



     *



 苺たっぷりのショートケーキにしようと決めていた。

 ふたりきりでのお祝いでホールケーキ、というのも微妙にためらわれたが、小さめに作ればきちんと食べきれるだろう。


 スポンジは前日のうちに焼いておいた。

 自宅から持ってきたふわふわのそれと、ここまでの道中に購入してきた生クリームとフルーツを、それぞれ袋から慎重に取り出す。


『そっかぁ、良かったね~! ……って言ったらさすがにフライング? けど茅乃、すごく幸せそう。声だけでも分かるよ』

『そ、そうかな。あ、でも……あのね、亜希子』

『なによ?』

『ええと。ちょっと悩んでることがあって』


 先日、親友と交わした電話の内容がふと茅乃の脳裏に蘇る。

 まだまだ新婚と呼べるだろう亜希子を相手に、電話越しだというのに真っ赤になって相談を持ちかけたこともまた一緒に思い出した。


 ……なぜあんな相談をしてしまったのか。

 恥ずかしさのあまり、手にしたケーキのスポンジを取り落としかけた茅乃は、無意識にひゃあと間抜けな声をあげた。


『ブフッ!! ちょっと、それってアンタはなにを心配してるわけっ!?』

『え、そりゃあいろいろ……私ってそんなに色気ないかな~とかは思うでしょ、普通』

『違ーう!! 他人の私が聞いてても違うって分かるから!!』

『は、なんで!?』

『ケ・ジ・メ!! ちゃんとつけたいんだよ、東條少年は!!』

『け、けじめ?』

『……なんかだんだん東條少年がかわいそうになってきたな……もういいよ、詳細は本人に訊けば?』

『なにそれ、急に投げやりすぎない!? ちゃんと教えてよ!!』

『はいはい、お幸せにね。あっ、式挙げるんならそのときはちゃんと呼んでよね! まぁその前に絶対会いにいくけど!』


 持参したパレットナイフに生クリームを取りながら、茅乃は逆の手で口元を押さえた。

 うっかり親友に零した相談――愚痴と呼んだほうがおそらく正しい――は、完全に惚気と受け取られてしまったらしい。

 呆れたような、また茅乃ではなく彼に同情を寄せているような親友の声は、最近彼女と交わした電話の中でも群を抜いて楽しげだった。


 彼が、頑なに茅乃に手を出そうとしない理由。

 亜希子の言う通りなのだとしたら、それはそれで嬉しい。大事に考えてもらえているという意味だろうから。


 生クリームがついた指をぺろりと舐める。

 茅乃の右手の薬指には、誕生日にプレゼントされた指輪が嵌まっている。控えめながらも繊細な輝きを放つダイヤが、キッチンのダウンライトをキラキラと反射し、茅乃の頬がふと熱を持った。


 高価なものは要らないと、何度も伝えた。

 彼は学生だ。自分へのプレゼントを購入するためにアルバイトを増やしたり夜遅くまで働いたり、そういうことはしてほしくなかった。


 結果、一緒に向かったジュエリーショップで茅乃が選んだのは、彼が提示した予算の半額ほどの品だ。

 不服そうにされたが、素知らぬ顔を貫いた。挙句、ペアリングがいいなぁ、と口にしてみた。ええ、と露骨に嫌そうな声をあげた彼も、結局は押される形で、茅乃が選んだペアリングのうちの一環を指に嵌めた。


 非常に満足だ。なにせ、茅乃は〝夢子〟なのだ。

 高校時代から〝カレとお揃いのリング〟に密かに憧れ続けてきた夢見がちな彼女が、これで浮かれないはずはない。


『わぁ、可愛い! もしかしてこれ、ふたつ重ねるとハート型になるやつですか!?』


 ……今度は、先日一緒に食事へ出かけた美和の声が脳裏を過ぎる。

 珍しく『愚痴りたいことがある』などと口にしていたわりに、顔を合わせるや否や、美和は茅乃の薬指に嵌まる指輪に目を輝かせた。

 前はつけてなかったですよね、と俄然表情をキラキラさせた美和に気圧されつつも、茅乃が詳細を伝えると、美和はうっとりと目を細めて独り言のように呟いた。


『いいなぁ。茅乃さん、すごく綺麗。愛されてるって感じ、めっちゃする……』

『えっ、そ、そうかな。ちょっと恥ずかしいけど』

『私なんかね……聞いてくださいよぉ!』


 傍目には気づきにくかったが、相当参っていたらしい。

 美和の愚痴の内容は、ちょっとした男女関係のトラブルに巻き込まれたというものだった。しばらく彼氏は要らないです、と呟いた美和の表情は決して暗くはなかったが、そもそも彼女がそこまで弱音を吐くこと自体が珍しい。


『あいつに茅乃さんの彼氏さんくらい甲斐性があったら、もうちょっと違ったと思うんだけど……えへへ。残念です』


 美和は明言しなかったが、彼女の言う〝あいつ〟が橘を指していると、茅乃はあっさり想像がついた。過去にも何度か相談を持ちかけられていたからだ。

 茅乃にとって、美和は妹のような存在だ。だからこそ彼女の話を聞き進めるにつれ、橘に対して物騒な感情が膨らんで仕方なかった。


『ねー茅乃さん、今日はいっぱい飲もうね!』


 うん、と頭を撫でると、美和は泣き出してしまった。過去のこととまでは、いまだに割りきれていないらしい。

 笑いながら泣く美和を眺め、以前の自分ももしかしたらこんな感じだったのかな、と茅乃は複雑な気分になった。そして、自分が橘に対して抱いている不穏な感情は、そっくりそのまま亜希子が蓮に抱いていたものと同じなのかもしれない、とも。


 ケーキに苺を載せていた指が不意に止まる。

 玄関のドアが開く音がしたからだ。


 ダイニングとは呼びがたいが、それなりにゆとりあるスペースが確保されたキッチンは、玄関との間に仕切りがない。ひょいと首を伸ばし、茅乃は帰宅した部屋の主に声をかけた。


「おかえり」


 ヘタを取った苺をひとつ摘み、彼女はドアの傍まで歩み寄る。

 帰宅したばかりの恋人は、茅乃が今日自室に足を運んでいることを知らされていたにもかかわらず、驚いた顔を見せた。思わず噴き出した茅乃は、手にした苺を彼の口元へそっと近づける。


「……ただいま」


 はにかむような笑みを浮かべた彼は、靴を脱ぐよりも先、目の前の苺へ、茅乃の指ごとぱくりと食いついた。


 ――今日は、彼の二十歳の誕生日。



     *



 ケーキそのものは上等に仕上がった。だが。

 居た堪れなくなった茅乃は、切り分けたそれからすっと視線を外す。


 等分の概念がまたも揺らぐ。お菓子作りの師匠である母に及第点をもらえる程度のケーキを作れるようになった癖に、残念ながら生来の不器用は簡単には直らないらしい。

 不格好に切り分けられたショートケーキを見て、蓮は肩を震わせて笑っていた。

 ならアンタが切り分けてよ、と真っ赤な顔で叫んだ茅乃に、蓮は「悪ィ悪ィ」と碌に誠意のこもっていない謝罪を入れ、ケーキに載った苺をひと粒摘んで茅乃の口元へ運んだ。


 ぎゃあぎゃあ喚いていた茅乃の口は、突如押しつけられた苺に塞がれ、部屋の中が一瞬しんと静まり返る。

 苺を咀嚼していると、それが終わるよりも前に、今度は蓮の唇が覆い被さってきた。果実の甘酸っぱさと、重なる唇のやわらかさに翻弄され、茅乃の呼吸は途端に詰まる。


 飲み込みきれなかった果汁が、ふたり分の唾液と一緒に口端を伝い落ちていく。

 零れていくそれを見たのか、薄く目を開いた蓮は、限界とでも言いたげに茅乃を床へ押し倒した。


「っ、あ、待って、ケーキ……」

「こっちが先」


 恋人の頬を伝う果汁を舐め取る蓮の顔は、にわかには信じがたいほど色っぽく、茅乃の胸が派手に高鳴り始める。

 は、と熱っぽい息を零した彼女を見つめる男の双眸はうっとりと濡れ、茅乃はその引力にずるずると引きずられてしまいそうになる。もう守るべきなのかどうかさえあやふやなプライドを守るために、彼女は傍に寄せられた蓮の耳元で恨みがましく囁いた。


「もう。せっかく蓮くんが好きなの、作って待ってたのに」

「ごめん」


 大して悪いと思っていなそうな謝罪にはもう慣れっこだ。

 諦念を滲ませた茅乃が薄く笑うと、重なる寸前まで寄せられた蓮の唇から小さく声が零れた。


「プレゼント」

「ん?」

「かや姉がいい。今すぐほしい、他にはなにも要らない」


 茅乃を射抜く彼の目には、獰猛な気配が宿っていた。

 極限まで茅乃を甘やかし、蕩けさせ、このまま食べられても構わないと思わせる、優しくも飢えた獣の目だ。


 途端に瞼が震える。

 単純に反応してしまう自分が恥ずかしい。浮ついた内心も熱を持った頬も、なにもかもをごまかしたくて仕方なくなり、茅乃は無理に口元を緩ませて切り出す。


「……いまさら?」

「うん。いまさら」


 わずかに笑んだ蓮の吐息が、唇を緩く掠める。

 たったそれだけで解れて蕩ける。この人だけの、この人の色に染まりきった、私。


「……いいよ。あげる」


 ――食べて。


 首筋へしがみつくと、熱い唇が茅乃のそれに再び重なった。

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