《9》綺麗だ
目を開けると、懐かしい天井が見えた。
三年前にタイムスリップしたかのような錯覚は、夢うつつの茅乃を、容易に困惑の渦へ沈めていく。
以前住んでいたアパートの天井によく似た――否、完全に同じ天井だ。
ここは、かつて茅乃が暮らしていたアパートの別室なのだから。
ふと首を横に向けると、寝息を立てる蓮が視界に飛び込んでくる。昔よりも精悍な顔立ちになった彼の、昨日再会した時点より厚ぼったくなった唇を目にして、茅乃の頬は瞬時に熱くなる。
この唇に何度も奪われた。思わず自分の口元へ指が伸びる。そこが、まだ疼くほどの熱を持っている気がしてならなかった。
長い睫毛に縁取られた蓮の両目は、依然閉ざされたままだ。薄く開いた唇に目を奪われ、茅乃は無意識に指を伸ばした。
ふにゅ、とやわらかな感触が指先を走った瞬間、びくりと蓮の身体が震える。弾かれたように彼の目が開かれ、茅乃は反射的に指を引っ込めた。
「あっ、あの、ごめん、起こした……」
「……いや」
忙しなく瞬きを繰り返す蓮が、次第に困惑を解していく。
はぁ、と大きな溜息をついた彼は、額を押さえる仕種とともに上擦った声をあげた。
「あの。昨日も言ったけど、もっと危機感とか、持ったほうがいいと思う」
ためらいがちに告げられた言葉に、茅乃の胸がずきりと痛む。
昨晩、確かに耳にしたはずの甘い囁きが、すべて夢だったのではと思えてくる。そのくらい、今の蓮の声には茅乃を突き放すような気配が宿っていた。
「……昨日あんなキスしといて、なにそれ。いまさら」
口調は自然と不満じみたものになる。
そんな茅乃を一瞥した蓮は気まずそうに口ごもり、やがて彼女から視線を外してしまった。
「いや……このまま襲われるかも、とか思わないの?」
「え?」
「それくらい警戒してもいいようなこと、実際にされてんのに」
彼の言葉には自嘲が滲んでいた。
息を詰めた茅乃を一瞥した後、蓮は視線を逸らしたきり続ける。
「今も、さっさと押さえつけて犯せたらいいのにって思ってる。逃げる気なら部屋に閉じ込めて、どこにも行けなくしてやりたいっても思ってる。俺はそういう奴なんだ、昔も今も。かや姉だって知ってんだろ」
いつの間にか、茅乃の背中には蓮の腕が回っていた。
不穏な言葉を零しながら、その癖縋らんばかりに茅乃を掻き抱く蓮は、今どんな顔をしているのか。首筋に埋められた彼の口元から漏れた吐息が、茅乃の皮膚を熱く掠める。
堪らず声を零しそうになりつつも、茅乃は気づいてしまう。
蓮は、茅乃に顔が見えないように……見られずに済むようにしている。
「昨日のことは謝る。どうしても我慢できなかった。でも、かや姉は俺なんか選んじゃ駄目だと思う。多分俺、かや姉のこと、また平気な顔して傷つける」
今にも空気に溶けて、ふつりと消えてしまいそうだ。
昨日も同じことを思った。細く呟く蓮の声は、茅乃を不安にさせる。
愛おしいと思う。
彼が彼自身に抱く不穏な感情ごと、包み込んでしまいたいと。
「好きなのに、一緒にいちゃ駄目なの?」
「っ、俺はまだ子供と変わらない。ただの学生で、あんたを養ってもやれな……」
「養ってほしいなんて言ってない」
嫌気が差してくる。深い眩暈に襲われ、茅乃は震える吐息を零した。
自業自得だ。三年前のあの日、蓮に叩きつけた言葉のすべてが跳ね返ってきただけだ。それが茅乃の首を絞めている。蓮を苦しめ続けた言葉の鎖が、今、茅乃自身をも追い詰めている。
誰も幸せにならないつまらない選択をした過去の自分がいかに身勝手だったか、茅乃は心底悔いる。
今からでも間に合うだろうか。自分が抱えてきた本当の気持ちを、この人に届けることはできるだろうか。
どうか、届いてほしかった。
「あの日、ひどいこと言ってごめんね」
「いや。本当のことだし、俺が最低だった」
「違うの。駄目になるんじゃないかって思ったのは本当だけど、私、信じられなかった」
「……え?」
長い間、内側に閉じ込め続けてきたもの。その箍が今、音を立てて外れる。
堰を切ったように溢れ出す感情が、初めて声になり、伝わってほしい相手のもとへ流れ出ていく。
「絶対無理だってはなから諦めて、蓮くんの気持ち、踏みにじった。信じきれなかった。私が弱かったから受け止めきれなかっただけなのに、私、それも蓮くんを守るためだなんて……勝手なことを」
本当なら、あの朝に告げるべきだった気持ちだ。
そう自嘲すると同時、今だからこそこうして言葉に置き換えられるのかもしれないとも、思う。
「でも駄目だった。なにしてても、どこで暮らしてても、蓮くんだけだった。忘れられなくて、寂しくて、全部自業自得なのに会いたくて、……けど、怖くて」
「……かや姉」
「そんななのにまた助けてもらって、守られて……私、蓮くんがいないともう駄目なんだと思う」
――離れたくないよ。
途切れ途切れに紡いだ言葉の最後は、ほとんど音にならなかった。
伝えきるまで泣くまいと覚悟していたはずなのに、溢れてくる涙は次から次へと茅乃のこめかみを伝い、枕を濡らしていく。
不意に、目尻を撫でられる。
茅乃が顔を上げた途端、ふたりの唇がやわらかく重なった。
激しさを欠いたディープキスは、貪るような昨晩のキスとは異なる安堵を連れてくる。
ゆっくりと唇を割る熱に、茅乃が長年溜め込んできた葛藤も自己嫌悪も、なにもかもがどろどろに溶かされていく。
唇が離れ、半端に熱に浮かされた茅乃は言いようのない寂しさに襲われた。だが、次の瞬間には首筋にきつく吸いつかれてしまう。
あ、と上擦った声が零れた。痺れによく似た愉悦が、茅乃の頭のてっぺんから爪先までを、稲妻のように駆け抜けていく。
「……綺麗だ……」
首の辺りから聞こえてきた蓮の声は、本当に彼のものかと訝しくなるくらいに上擦っていた。返事をする暇もなく、もう一度唇にキスを落とされる。
徐々に上がっていく息のせいで、茅乃の眉が堪らずきつく寄る。瞬間、唇は前触れもなにもなく離れた。
急速に熱を失っていく唇に触れながら、茅乃はつい寂しさを覚えてしまったが、一方の蓮はなぜか少々不機嫌そうに表情を歪めながら口を開く。
「なぁ、他の男にも見せたのか、そういう顔」
「っ、そ、そんなわけないでしょ……!」
恥ずかしいことを真面目な顔で問われ、茅乃の返事はつい突っぱねたような調子になる。
快楽とは別の意味で身体が熱くなる感覚に、躍起になって彼女が抗っていると、蓮は訝しげな顔のまま再び切り出した。
「……俺だけ? 本当に?」
余計なことを言ってしまいそうだと思った茅乃は、今度は頷くだけに留める。
茅乃がこくりと首を動かすと、貪るようなキスが降ってきた。先ほどまでも大概だったのに、息もつけない濃厚な口づけはますます執拗で妄執的で、呼吸すら許さないとでも言いたげな圧倒的な独占欲に満ちている。
この人に、自分のすべてを――呼吸までもを支配されている。
深すぎる酩酊感と喜びに堕ちていく茅乃の耳元で、蓮が掠れた声を零す。
「このまま、俺がいないと生きてけない身体になっちゃえばいいよ」
――俺はとっくにそうなんだから、かや姉だってそうなればいい。
執着のひと言では到底表現しきれない、妄執的な囁きだと思った。
それを愛の証だと解釈したくなっている自分も、とうに彼に依存している。下手をすれば、彼以上に。
「嬉しい……なりたい」
無意識に口をついた茅乃の囁きに、蓮がくしゃりと顔を歪める。
笑っているようにも泣いているようにも見えた。泣かないで、と伝えかけた茅乃の声は、結局、塞がれた唇の奥に吸い込まれて消えてしまった。
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