《8》未練とキスと

 有無を言わさずというわけではなかった。言葉でそれを促されたわけでも、まして強引に腕を引かれたわけでも。

 長い指が茅乃のそれに絡んだ瞬間、他の選択肢がすべて失われただけだ。


 蓮の部屋は、三年前まで茅乃が住んでいたアパートの別室だった。

 驚きと懐かしさに茅乃が言葉を失っていると、口元に微かな自嘲を浮かべた蓮が、絡まる指に力を込める。


「……未練たらしいだろ」


 掠れた声で囁かれ、言葉にならない茅乃は首を横に振り続けるしかできない。なにかひと言でも返せば、途端に泣き崩れてしまいそうでならなかった。

 鍵を回す蓮の手は震えていた。開いたドアの中へ、背を叩かれるようにして押し込められる。ふたりが玄関に入った直後、間を置かずに背を返した蓮に、茅乃はドアの内側に押さえつけられてしまった。


 室内に足を踏み入れると同時。ドアの内側。

 蓮の小学校の卒業式当日を思い出す。あの日と似ている。だが。


 既視感に脳裏を占拠されつつも、今はあの日とは違うのだと、茅乃は確かに思う。

 あの日は、茅乃がその気になればすぐにも抜け出せた。拘束などあってないようなものだった。だが、今は。


 頭の横に腕を添えられ、もう片方の手が頬をなぞる。

 日の落ちかけた夕刻、それも明かりがついていない玄関だというのに、蓮の顔は茅乃の目にはっきりと映った。吐息がかかるほど寄せられた彼の顔は、苦しげに歪んでいる。

 身を屈めた蓮は、焦った素振りで眼鏡を外した。そして、茅乃の耳元で熱っぽい吐息を零す。艶めいた声が零れそうになるところを、茅乃はぎりぎりで堪えた。


「あ……蓮くん」

「キスしたい、……でも、俺」


 いつの間にか、蓮の唇は茅乃の唇のすぐ前にあった。少しでも動けば簡単に重なってしまいそうな距離だ。茅乃の喉がこくりと鳴る。

 甘い願望を口にしている顔には到底見えなかった。

 明かりを点ける暇もなく身を寄せ合いながら、その癖、それ以上の接触をためらう。アンバランスな葛藤に揺れる蓮の、眼鏡というフィルターを外した双眸が、直に茅乃を射抜く。


 その目に見つめられたら、拒む気にはなれなかった。


 足の指を持ち上げた茅乃は、身体がバランスを崩すよりも先に、目の前の首筋へ腕を伸ばした。

 しがみつくように腕を絡めると、息を呑むような音が聞こえた。互いがそれを気に懸けてしまう前に、茅乃は薄い唇に自分のそれを重ねる。


 躊躇は、一瞬で霧散したらしかった。

 おそるおそる薄く触れただけのキスの主導権は、瞬く間に男へ移る。ドアに触れていた蓮の腕は茅乃の後頭部へ移動し、彼女は完全に身体を固定されてしまう。


 それでも、怖いとは思わなかった。自分からも、茅乃は淡く吸いついて応える。

 それは三年前、ふたりが一緒に過ごしていた頃、彼女がよくしていた仕種だった。恥ずかしさが先走ってキスにうまく応えられなかった彼女が、それでも蓮とのキスを少しも嫌がっていないと伝えるための、精一杯の応酬。


 角度を変えて何度も重ねられる唇と、その先で絡み合う熱――それらの動きはさらに艶を増していく。唇と唇の間、ふたり分の乱れた吐息が交ざり合う中、蓮が小さく囁きを零した。


「やっぱり俺、かや姉がいないと駄目だ……」


 茅乃の髪を撫でる男の指は、やがてシュシュに辿り着く。

 壊れ物にでも触れるかのような繊細な仕種で、蓮は何度もシュシュを撫でる。


 髪の間から差し入れられた指は、発熱しているのではと心配になるほど熱い。長い指でシュシュと頭を交互に撫でられ、茅乃の口からは熱のこもった息が零れてしまう。

 蓮の触れ方は、妄執を通り越してもはや病的にも感じられた。腫れぼったくなった茅乃の唇が、吐息に合わせて切なく震える。


「こんな安物、いつまで使ってんだよ……こんなもんのために、あんなクズみてえな酔っ払いなんか相手にしやがって」

「……なによ。そういう言い方やめてよ、宝物なんだから……」


 蓮の声は悔しそうであり、また嬉しそうでもあった。

 迫力のない減らず口を返した茅乃は、再び自ら口づける。一旦は茅乃が握ったはずの主導権は、やはり一秒ともたずに奪われ、唇とともに脳髄までもが蕩けていく錯覚に彼女は簡単に溺れさせられる。


 暗がりの玄関に、ふたりの交わすキスの音だけが響く。

 茅乃の頭は、徐々にぼうっと霞がかかったようになっていく。この感覚も、三年前に蓮から教わったものだ。茅乃が知る愉悦のすべては、彼がこの身体に教え込み、植えつけた。


 不意に触れ合う唇が外れた。あ、と零れた自分の声は思った以上に甘く掠れきっていて、茅乃は羞恥に頬を染める。

 朱に染まったかどうかを判別するのも難しい暗がりで、茅乃の頬がはっきりと見えているかのように指でそこを撫でた蓮は、なぜかキスの前と同じくらい苦しそうに目を細めていた。


「かや姉は俺なんか選ばないほうがいいんだって、ずっと思ってた。なのに」

「……あ」

「部屋に来るのもキスも、なんで嫌がんねえの? 俺、あのときよりもっとひどいことかや姉にしちゃいそうで、……めちゃくちゃ怖い……」


 声の震えは、即座に全身に転移したらしい。

 茅乃を抱き竦めながら、蓮はこの期に及んでためらっている。怖いのに止められない――彼の指にも唇にも、そういう葛藤が色濃く滲んでいた。


 震える長い指へ、茅乃はそっと触れる。

 熱く茹だっていると思っていた指先は、今度は妙に冷えて感じられた。温めるようにそれを包み込み、心許なげに揺れる蓮の視線を、茅乃は真正面から受け止める。


「いいよ。それでも」


 切れ長な目がくしゃりと歪む。

 つらそうに首を横に振った蓮は、掠れた声を零した。


「馬鹿じゃねえの……いいわけねえだろ」

「ううん、いいの。だって私、蓮くんのこと、ちっとも忘れられなかった」


 そう。忘れられなかったのだ。

 亜希子に蓮を非難されれば、茅乃こそが深い傷を負った。妊娠できているなら産みたいとさえ思った。

 現実を直視しないまま、甘ったれた願望を垂れ流してばかりだった過去の自分を、心の底から恥じていた頃もある。だが、今は。


「自分だけ逃げちゃって、傷つけて、ごめんね」


 泣きたい気分だったが、結局涙は出なかった。

 ところが蓮は違ったようだ。頬を生ぬるい水滴が伝い、茅乃は反射的にそこへ指を這わせた。


 眼鏡が外れた蓮の目元から零れた涙に、今度は直に触れる。

 触れた途端に降ってきた口づけは、涙の味がした。



     *



 部屋に上がり、部屋着を借りる。

 繰り返したキスのせいで、心地好くもくらくらとした酩酊感に苛まれながら、茅乃は手渡された部屋着になんとか袖を通した。

 その間、蓮は律儀にも引き戸を隔てた廊下に出てくれた。気にしなくていいのにと思ってしまうのは、さすがに無防備すぎるだろうか。


 男物、それも長身の蓮が着ている長袖のTシャツは、茅乃にとっては膝上丈のワンピースのようだ。袖も丈も、彼女には大きすぎる。

 苦笑しつつも着替え終え、茅乃は廊下の蓮に声をかけた。引き戸を開けた蓮は、シングルベッドに腰かけた茅乃を目にした途端、露骨に肩を震わせた。


「な……し、下も、わ、渡した、だろ」

「え? あ、うん……大きくてズルズル落ちてきちゃうし、これでいいかなって」

「……あっそ」


 苛立った様子で頭をがしがし掻いた蓮は、目のやり場に甚く困ったらしい。両目を泳がせた挙句、あからさまな舌打ちまでしてみせた。

 茅乃としては、いまさら、という気がしなくもなかった。三年前にあれだけのことをしておいて……今もあんな濃厚なキスをさんざん繰り返しておいて、せいぜい太腿が覗くか覗かないか程度の格好をしたくらいでそこまで動揺するなんて。


 蓮が六つも年下の男の子なのだと、今頃になって思い出す。

 ふふ、と笑った茅乃を忌々しそうに一瞥した蓮は、機嫌を損ねたのか、彼女に背を向けてベッドへ腰かけた。乱暴な仕種だったために、パイプ製のシングルベッドは派手な音を立てて軋む。

 視線を逸らし続ける彼の顔はまだ赤い。ベッドの上を移動し、茅乃は蓮の背中に自分の背中をくっつけた。びくりと震える感触が伝わってきたが、彼は特に拒まなかった。


 無造作に放られた彼の手を拾い、茅乃が指を絡めると、観念したような溜息が聞こえた。

 振り向きざまに腰を抱き寄せられ、まだ痺れが残る茅乃の唇は、不機嫌そうに顔をしかめたきりの蓮にあっけなく奪われる。

 今度のキスは、触れるだけのキスだった。ちゅ、と音を立てて離れた蓮の唇も、駅で見たときより腫れぼったく見える。赤みの増したそこへ茅乃が見入っていると、彼は居心地悪そうに口を開いた。


「……ずっと気になってたこと、あるんだけど」

「なに?」

「三年前、かや姉が大学出てこっちに帰ってきてから初めて会ったとき。もしかしてあれ、偶然じゃないんじゃって疑ってなかったか?」


 おそるおそるといった声で尋ねられ、茅乃は息を詰めた。訝しく思ったことがあるのは事実だったからだ。

 長い指が茅乃の頬を優しく辿る。彼女の内心を読んでいるような所作だ。ただ、彼の表情は少しも和らがない。緊張を宿した低い声が、短く舞い降りた沈黙を再び緩く裂いた。


「本当は偶然なんかじゃなくて、俺がずっとかや姉のことつけてたんだって、疑ってたんじゃないか?」

「……それは」

「いや、いい。俺、あの頃すげえ神経質になってたから、なんとなくそんなふうに思われてるのかもって……そしたらもう、それしか考えられなくなって」


 途切れ途切れに、だが慎重に言葉を選びながら話す蓮の眉尻はすっかり下がっている。

 その顔が、小学生だった頃の彼と重なった。家を飛び出して腹をすかせて、それでも自宅に帰っていいのか迷っていた、小学四年生の蓮に。


「かや姉が俺からどんどん離れてく気がして、怖くなって、そんなときに橘から話聞いて、一気に頭、おかしくなった」

「……蓮くん」

「かや姉、ああいうこと受けつけられないんだって分かってて、なのに」


 ……それ以上喋らせたくなかった。

 蓮が、すぐにも空気に溶けて消えてしまいそうな気がした。


 言葉ごと封じ込めるように、茅乃から唇を寄せる。

 開きかけた口を無理やり塞ぐと、蓮が大きく目を瞠った。しがみついた彼の背中は震えている。困惑とともに茅乃に巻きついてくる腕も、躊躇に震えていた。


「いいの。蓮くんになら、どんなひどいことされても……私」


 わずかに離れた唇の隙間から零した茅乃の声は、キスを深めた蓮の口内に吸い込まれ、ふつりと途絶えて消えてしまった。

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