《7》面倒くさい女

 隣に腰かけた蓮が落ち着くまで、茅乃は口を開かなかった。

 手元の缶の中身が半分ほどに減った頃、ようやく、蓮が観念した様子で口を開いた。


 当初の志望を変更し、地元の国立大に進んだこと。

 今はひとり暮らしをしていること。

 家族と、ある程度和解したこと。

 妹を可愛いと思えるようになってきたこと。

 継父への歩み寄り方や距離の取り方に、少しずつ慣れてきたこと。

 母親の気持ちも、なんとなく、なんとなく、分かる気がしてきたこと。


 抑揚のない声が、ときおり駅を通過していく電車の騒音に掻き消されつつも淡々と続く。

 最初は重そうに開くだけだった彼の口元は、話が終盤に差しかかる頃には随分軽くなっていたようだ。


 蓮が話す間、最低限の相槌を挟む以外、茅乃は声をあげなかった。

 少しずつ、だが確実に大人になってきている。大人に近づき続ける道の途中で、蓮は蓮なりに家族と向き合っている。以前は頑としてそれを避けていた彼の目が、今はきちんと、自分と家族の関係を捉えている。

 安堵、という表現では語弊がある気がした。しかしやはり茅乃の心には、ほっとしたような、胸を撫で下ろすような、そんな気持ちが舞い降りる。


 話が一段落すると、沈黙が落ちた。

 缶の中身はそろそろ空だ。手持ち無沙汰な気分で茅乃が生ぬるい缶を眺めていると、蓮がぽそりと呟いた。


「……それ」

「ん?」

「とっくに捨てられてると思ってた」


 なんの話をされているのか一瞬分からなかったが、彼の視線がシュシュを結び直した自分の髪へ向いていると気づく。

 思わず、茅乃はシュシュへ指を伸ばした。「これのこと?」と尋ねると、蓮は無言のまま小さく頷き、微かに口元を緩める。


「話には聞いてた。仕事、あれからすぐ辞めたこととか、他にもいろいろ」

「……うん」

「いまさらだろうけど……ごめん」


 掠れた謝罪と同時に、蓮の視線がすっと落ちる。

 なにに対する謝罪かを尋ねるのは憚られた。そもそも、それを知ること自体に意義があるとは思えない。


「蓮くんのせいじゃないよ。仕事を辞めた理由も、別にひとつってわけじゃないし」

「でも」

「過ぎたことだもん、もういいの。それより」

「……ん?」

「私も、あの頃の自分、若かったなって思うよ。余裕もなにも全然なかった」


 冷え始めてきた缶を、茅乃は両手で包み込む。

 声が途絶えた自分の口元を、蓮がじっと見つめてくる。意識して、彼女は続く声のトーンを上げた。


「さっきもちょっと話したけど、今は親戚のお店……っていうか整備工場で働いてるの。あ、こないだ小野寺くんが来たんだよ。うちの伯父さんと小野寺くんのお父さんが仲良しらしくて、びっくりしちゃった。世間って案外狭いよね」

「……小野寺?」

「うん。大学、一緒なんでしょう? そのときにちょっとだけ話したの」


 意表を突かれたような顔をした蓮を見て、小野寺はあの日のやり取りを蓮に話していないのかと、茅乃は訝しく思う。

 交わした話題が話題だっただけに、小野寺も口外を憚ったのかもしれない。彼もまた、やはり昔よりずっと大人になっているということか。


「今は従妹いとこの家庭教師も引き受けてるの。小学生の子。身内だから甘くなっちゃうけど、やっぱり楽しくて」

「……うん」

「また講師の仕事、バイトでもいいからやりたいなーなんて、たまに思うよ」


 嫌いで辞めた仕事ではない。蓮に伝えた通り、なにに対しても余裕が枯渇していただけ――それだけのことなのだと改めて認識する。

 懐かしく過去を思い返す機会はしばらくなかった。そういう意味でも、今日こうして蓮に会えたのは、自分にとって大切なことだったと茅乃は思う。


 時計を見ると、時刻はすでに午後六時を回っていた。そろそろ電車の時刻だ。

 田舎の終電は早い。そもそもが、一時間に一本しか走らない鈍行列車のみの路線だ。乗り遅れてしまえば次までの時間潰しが大変になる。


 腕時計を眺める自分を蓮がどんな顔で見つめていたのか、茅乃は気づけなかった。

 冷えきった空き缶を軽く握り締め、彼女は静かにベンチから腰を浮かせる。


「そろそろ行くね。今日はありがとう、時間作ってくれて。それと、助けてくれて」


 顔を引きつらせた蓮に茅乃が目を向けたのと、蓮が茅乃に腕を伸ばしてきたのは、ほぼ同時だった。

 結局、長い腕はなににも触れないまま力なく空を切る。だが蓮のその行動は、茅乃に驚きを覚えさせるには十分だった。助けられて以降、彼は一切茅乃に触れていなかったからだ。


 蓮自身も、自分がなにをしたのかよく分かっていないような顔をしていた。

 困惑を滲ませながらも元の位置に戻った自分の手を見つめた彼は、薄く苦笑を浮かべ、茅乃の顔を覗き込む。


「……見送るくらいはいい?」


 遠慮がちな問いかけに、茅乃の頬がふっと緩んだ。

 腕を掴もうとしたわりには控えめなお願いだと思ったら、返す口調は知らず悪戯めいたものになる。


「ふふ。家までは送ってくれないの? ひとり暮らしなんだけど、今」


 蓮は答えなかった。ただ曖昧に微笑んだだけだ。

 同じように薄く笑み返し、今度こそ茅乃は静かに立ち上がった。


 わざわざ入場券を購入してホームに入ろうとする蓮を、茅乃はやんわりと止めた。だが、彼は引かなかった。

 また変なのに絡まれるかもしれないだろ、と言われれば返す言葉もない。この短時間でそんなトラブルが起こり得るとは思えないが、うっと息を詰まらせて黙ると、蓮は勝ち誇ったような表情を向けてきた。


 生意気そうな顔を見た途端、茅乃の胸は懐かしさでいっぱいになってしまう。

 この子と再びこんなふうに軽口を叩き合う未来が訪れるなど、考えてもみなかった。いや、考えてはいけないと思い込んでいた。

 滲みそうになった涙をごまかすためだけに、茅乃は「失礼なこと言うな!」と声を荒らげる。すると蓮は、今日初めて声をあげて楽しそうに笑った。


 名残惜しくないはずはなく、だが帰らないわけにもいかない。手を振りながら、茅乃は跨線橋に足を伸ばす。

 ホームの反対側へ辿り着くと、対岸に蓮の姿が見えた。目が合うと、彼は手を上げて振ってみせた。茅乃もまた、同じようにまた手を振り返してみせる。


 目を離せない。寂しさが怒涛のように押し寄せてくる。

 ほどなくして、ガタガタと騒がしい音を立てて電車がホームに入ってきた。ついさっきまで隣にいた彼の長身は、電車の陰に簡単に隠れてしまう。


「……っ」


 ……耐えきれなかった。

 ドアが開いた電車に足を踏み入れることは、茅乃にはどうしてもできなかった。


 結局は一歩下がり、通過していく電車を見送る羽目になる。

 一時間待ち、決定だ。間抜けにもほどがある。思わず額を押さえた茅乃が、その場で深く俯いた――そのときだった。


 ガンガンと階段を駆け下りる音と、無遠慮に迫りくる足音が、不意に茅乃の鼓膜を忙しなく叩く。

 ぼんやりと視線を上げた先、息を荒らげた長身が彼女の目の前に立ち塞がっていた。傍から聞こえる乱れた呼吸はさらに近くなり、ふたりの距離は酔っ払いに助けてもらったときとほぼ同じになる。


 伸びてきた腕は見えた。直後、なにも見えなくなった。

 塞がれた視線と、身体にきつく巻きつく腕の感触が、茅乃の脳を直に焼き焦がしていく。


「そんなんだとそろそろ誤解する。好きな奴がいるっていう話」


 耳の傍で上擦った声がした。

 らしくないと思う。自信の欠片もなさそうな、弱々しく震えた、低い声。


「……別に誤解じゃないし……」


 腕を回さずにはいられなかった。

 茅乃の指先が触れた瞬間、広い背中がわずかに跳ねる。


「もっと分かりやすく説明しろ。齢取っても面倒くせえまんまとか、……馬鹿じゃねーの……」


 ……馬鹿はどっちだ。

 震えた声で毒づかれても、怖くもなければ苛立ちもしない。


 軽口を返そうかと思った。だができなかった。もう、口を開けそうにない。

 背に巻きつけた腕に力を込めると、相手の腕の力も比例して強くなる。息苦しさに顔をしかめた茅乃の目尻から、ぽたりと涙が零れた。

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