《6》困惑する男

「もうちょっと気をつけたほうがいいと思う、……かや姉は可愛いから」


 よそよそしい声は、目を逸らされたことでさらに他人行儀なものになる。

 まっすぐに蓮の顔を見つめ続けていた茅乃の肩から、不意にぬくもりが消えた。自分を抱き寄せるように触れていた相手の手が外れたのだと、茅乃は一拍置いてから理解する。


 眼鏡越しの蓮の視線がすっと下がる。つられて茅乃も目線を下げると、床にシュシュが落ちていた。

 しゃがみ込んでそれを手に取り、茅乃は、ついているかどうかも分からない汚れを指で払う。震える指先を蓮が凝視していることは、見なくても理解できた。


 気づかないわけはないと思う。

 それが彼自身にプレゼントされたあのシュシュだと、蓮が気づかないわけは。


 シュシュを袖に通し、茅乃はゆっくりと立ち上がる。

 声を荒らげたからか、身体の芯がまだ震えている気がした。立ちくらみを覚えた身体が傾ぎそうになるところを堪えていると、我に返ったような顔をした蓮はくるりと背を向けてしまった。

 反射的に伸ばした茅乃の手のひらが、彼の腕を掠る。


「ちょ、……待っ、て」


 たどたどしい声で、茅乃は今にも立ち去りそうな長身へ声をかけた。

 蓮は困りきった顔をしていて、どうやったらこれ以上彼を引き止められるのか、そればかりで茅乃の頭は満たされる。ぐちゃぐちゃの内心のまま、口だけが動く。


「あの、こ、腰が抜けた、から。助けて……」


 もっといい言い訳はなかったのか、と先ほどまでとは別の意味で眩暈がした。

 だが結果的に、茅乃の斜め上に覗くしかめっ面が、思わずといった様子で緩んだ。


「……どう見ても抜けてねえだろ」


 しがみついた相手の腕が小刻みに震える。

 笑っているのだと、間を置いてから茅乃は気づいた。


 一気に気が抜け、彼女もまたつられるようにして笑う。

 笑いながら、茅乃の目尻からぼたりと涙が零れた。それを目にしたらしい蓮はあからさまに顔を引きつらせる。


「な、なんで泣いてん、ちょ、落ち着……」

「うぅ、ごめ、だって蓮くん、避けるから」

「っ、馬鹿言ってんじゃねえ、彼氏のいる女に気安く絡めるわけねーだろ!」

「な、なに言ってんの! 彼氏なんかいないし!!」


 茅乃が発した最後の声は、彼女自身の意思とは裏腹に大きくなってしまう。

 忙しなく泳ぐ蓮の視線には、深い困惑が滲んで見えた。口元を押さえた茅乃の腕を、蓮が乱暴に掴み上げる。驚いた茅乃は思わず呻いたが、今の蓮は彼女の悲鳴にも気を回せずにいるようだ。


 意外だった。

 そういうところには、昔から無駄に過敏だった癖に。


「っ、こっち来い!」


 焦った声とともに彼が茅乃を引きずっていった先は、駅前の広場だった。ロータリーの外れに設置されたベンチへ、蓮は雑な素振りで茅乃を腰かけさせる。

 茅乃はただ俯いていた。そんな彼女の手のひらに、ふと熱いなにかが押しつけられる。

 あ、と驚いた声が零れたものの、それはごく普通の缶コーヒーだった。俯いている間に蓮が買ってきてくれたらしい。


 ありがと、と小さく呟き、茅乃は冷えた手を温める。

 手しか触れていないはずのぬくもりが、いまだに残る身体の芯の震えまで癒やしてくれるようだった。


 缶コーヒーを抱える茅乃を見つめる蓮は、何度も忙しなく眼鏡に指を伸ばしては直している。動揺をさっぱり隠せていない辺りも、彼にしては珍しい。

 がしがしと頭を掻いた蓮は、やがて諦めたように口を開いた。


「こないだ男と歩いてただろ。あいつが彼氏なんじゃねえの?」


 ……やはり見間違いではなかった。

 交差点で背を向けられた記憶が、その広い背中が、瞬時に茅乃の脳裏に蘇る。

 ベンチには腰かけず、座る彼女の隣に所在なさげに佇む蓮を正面から見据え、茅乃ははっきりと告げた。


「違うよ。あの子は従弟」

「……従弟?」

「私、今あの子の家で働いてるんだよ。車の整備工場。あの日はおばあちゃんの法事だったの、それで一緒だっただけ」


 ぽかんと口を開けて固まった蓮の顔は、やはり珍しい。

 茅乃が口元の緩みを堪えていると、彼は狼狽した様子で呟く。


「で、でもあいつ、かや姉のこと、好きなんじゃねえの」

「え……なんで?」

「だってあいつ、そういう顔してた……手も繋いでたし、あんな」

「手……は繋いでないかな」


 大志と手は繋いでいない。親戚でも従弟でも、茅乃にとっては男性と接触すること自体がどうしたって不快だ。

 蓮以外の男に不用意に触れられるなど、考えたくもなかった。先刻の酔っ払いが頭の端を過ぎり、茅乃の顔に辟易が滲む。


「あの、本当に違うから。私……ずっと好きな人、いるし」


 アンタがそうだ、とはどうしても言えなかった。

 過去にも似たような応酬があった気がして、こんな言い方では駄目だと思って、それでもこの状況で本音を伝えられるほどの度胸は茅乃にはない。


 今はただ、少しで構わないから一緒にいたかった。

 その思いだけはごまかせそうにない。微かに目を伏せながら、茅乃は蓮に問う。


「ねえ。もし時間あるなら、少し話さない?」

「……いい、けど」


 彼の返事は、これまでに聞いたことがないほど上擦っていた。

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