《5》ナイト探し
結局、大志はそれ以上踏み込んでこなかった。
あの日茅乃がなにを見たのかも、自分がなにを言いかけたのかも、話しながら顔を赤くしていた理由も、一切口にしなかった。
これほど立て続けに地元に戻るのは、伯父の整備場に勤めてからは初めてだ。
地元の駅に到着し、茅乃はひとり小さく息をつく。
実家には寄らなかった。駅からまっすぐ、茅乃は祖母の法事の日に大志と並んで歩いた道を目指す。
高校時代の通学路だったそこをなぞり、例の交差点に辿り着いた。
願掛けのようにつけてきたシュシュへ、彼女は静かに指を伸ばす。この三年間、大切に使い続けてきた宝物。プレゼントされたときより随分と傷んでしまったそれを、思わずそっと握り締める。
「……はぁ」
ここに来ればまた会えるのでは、劇的な再会が待っているのでは……心のどこかで抱いていた期待の息の根を、茅乃は強引に止める。
どこまで夢見がちなのかと、自分をなじりたい気分だった。かといって、彼の家を直接訪ねるほどの勇気もない。まるで子供だ。
ほどなくして変わった歩道の信号を一瞥し、茅乃は歩いてきた道を引き返していく。電車を降りたときにはすぐ外へ出たが、今度はゆっくり駅の構内を歩いてみる。
高校の頃はよく立ち寄ったし、何度もここから友達と別の街へ遊びに出かけた。だからこの駅自体が懐かしい。
時刻は午後四時を回ったところだ。夕刻に彼を見かけたことをなぞり、この時間に訪れたのだ。夢見がちにもほどがある己の行動を恥じつつも、茅乃は歩みを進める。
彼と鉢合わせる可能性のない場所で暮らしたかった。
もし再び顔を合わせるような事態になれば、きっと自分は耐えられない。ほんの少し前までそう思っていた。だが、今は。
あれから三年、蓮はどうしているだろう。
小野寺と同じ大学に通っているとは聞いたが、それ以外のことは知らない。大学の学部は、家族との関係は、今暮らしている場所は。なにも知らない。
……自分が切り捨てたからじゃないか。
茅乃の口元がふと自嘲に歪んだ、そのときだった。
「ねぇお姉さん、なんか落としましたよー」
それが自分にかけられた声だと気づくのに、無駄に時間がかかった。
ねぇねぇとまた軽々しい声がして、茅乃ははっと振り返る。
その先には茶髪頭の若い男がいた。
彼の手元には、見慣れたブリティッシュローズ色が覗いている。慌てて自分の髪に触れると、シュシュがなかった。
危なかった。
あれは、茅乃にとって代えの利かない大切な宝物だ。
「っ、ありがとうございます……助かります」
礼を告げながら男に近づくと、男からは、この時刻には考えにくい強いアルコール臭がした。茅乃の作り笑顔が瞬時に固まる。
男は、にやにやと茅乃を眺めてくるばかりだ。
できれば関わりたくないタイプの人間だ。口元を無理やり笑みの形に戻して茅乃が手を伸ばすと、男の腕がすっと上がる。空を切った彼女の手を眺め、男はやはりにやにやと笑い続けていた。
遊ばれている。
よく見ると、酒臭いだけでなく顔も相当に赤い。完全に酔っ払いだ。
ここ数年、ナンパの経験なんて皆無だったのに、今頃になってなんなんだ。膨れ上がっていく苛立ちを、茅乃は躍起になって噛み殺す。
もう一度やんわりとシュシュを取り返そうとすると、今度は不躾に腕を掴まれた。ぎょっとして、だが正面から吹きかけられる生温かい吐息に先に気を取られた。あまりの酒臭さにえずきそうになったところを、茅乃はかろうじて堪える。
なんなんだよ。もっと可愛い子、いるだろうが。
いや、そっちを狙えとかそういうことではなくて、でもいくら酔っ払いだからってこんなしょうもない女なんかからかってる場合か。
……もしかして、助けにきてくれるんじゃないか。
男から視線を逸らしながら、茅乃は確かにそう思い、しかし次の瞬間にはそれは諦念に取って代わる。
『将来のこと、考えれば考えるほど、お互いいろいろ無理が出てくると思わない?』
あの言葉を彼に伝えて、自分はどうしたかったんだろう。
決まっている。まだ高校生だった彼の将来を壊したくなかった。だから離れた。良かれと思って、自分から身を引いた。
……本当にそれだけか。
そういう選択をした自分に酔っていただけではないのか。そのために、彼を余計に傷つけてしまったのではないのか。
美和、亜希子、小野寺、橘、佐久間。いろいろな人たちと、いろいろな話をした。
とはいえ、彼らと自分は別の人間だ。皆、考え方も生き方も違う人たちだ。社会人という己の立場を守るために、自分は彼らの言葉までをいいように解釈し、利用し、あの選択肢を選んだだけではないのか。
そうやって、あれほどアンバランスで傷つきやすい彼に、そうなると分かっていて深々と新しい傷を刻みつけた――違うのか。
ああ、もう嫌だ。
私は、こんなにも狡くて穢れきった大人になってしまっていた。
辟易と同時に湧き起こった苛立ちが、爆発的に肥大していく。
シュシュに指をかけ、おもちゃのようにくるくる回す男の手を目にした途端、この三年間、茅乃が限界まで溜め込み続けてきたものが堰を切って溢れ出した。
「っ、返せ!! 汚い手で触んないで!!」
「あぁ!? んだとテメェ急に、調子乗ってんじゃねーぞババァ!!」
苛々する。吐き気もする。ババァだと思うならヘラヘラ声かけてくるんじゃないわよ、大声でそう叫んでしまいそうになる。
大事なものなのに、代わりの利かない宝物なのに、こんなわけの分からない奴なんかに。
苛々することが増えた。
涙脆くも、なった。
『誰にもやらない』
『小学生の頃からずっと好きだった』
『かや姉じゃないと駄目なんだ』
『俺のこと、好きって言って』
――今頃になってからなんて、もう遅いんだよ、私。
ねぇ蓮くん、助けてよ。
公園のときみたいに。コンビニ裏のときみたいに。
……笑う気にもなれない。
自分の傷にだけは、時間が経ってもこんなにも敏感だなんて。
彼を傷つけて別れをほのめかしたのは茅乃自身だ。
だから自分は二度と彼に守ってもらえない。そんな資格があるわけもない。完全に自業自得だ。
情けなくも涙が零れ落ちそうになった、そのとき。
あらぬ方向からぐっと肩を抱き寄せられる感触に、茅乃の心臓が派手に軋んだ。
「……触らないでもらえませんか」
低い声が、頭上から緩く鼓膜を揺さぶってくる。
大きな手のひらは肩に触れたままだ。身体ごとぐらりと傾ぎ、黒いジャケットを羽織った肩が見え、気まずそうな顔で退散していく酔っ払いの後ろ姿が見えて、そして。
「……あ……」
顔を上げる。
痛みを覚えるほどに首を曲げなければ覗かない、その人物の顔がある辺りを、茅乃はただ呆然と見やる。
去っていったばかりの酔っ払いが最後に覗かせたそれよりも、遥かに気まずそうな顔をした蓮と、目が合った。
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