《4》ホワイトアウト

 電話をかける前、先に亜希子に連絡を取った。

 亜希子は笑っていた。茅乃の思い詰めた表情を直に眺めてでもいるように軽やかに笑う親友につられ、最後には茅乃も笑ってしまった。


『やっぱり、茅乃はまっすぐなんだね』


 ……違う。そうじゃなくて、自分は。

 他人に縋る勇気もなく、自分が狡くなることを恐れてばかりの、弱い生き物なだけだ。


 茅乃が亜希子の言葉を否定しなかったのは、本心では分かってもらえていると感じたからだ。

 亜希子は、すべて包み込んだ上で、今の茅乃をまるごとそう評した。その言葉を信じられないほどに浅い付き合いは、彼女とはしてこなかったつもりだ。


 通話を終えてひと息つき、茅乃は再び端末へ指を滑らせた。

 コールを三つ数えた頃、もしもし、と低い声が彼女の鼓膜を打つ。


 こんな気持ちのまま、佐久間先生を選ぶことはできない。それはやはり私にはできなくて、自分を許せなくなってしまいそうで……伝えるべき内容を事前に整理していたはずなのに、出てくる言葉は思いのほかしどろもどろになった。

 それでも、茅乃が気持ちを伝え終えるまで、佐久間は一度も話を遮らなかった。


 すべてを伝えきり、沈黙が降り、ふ、と電話越しに声が聞こえた。

 それが笑い声なのか溜息なのか、茅乃には判別がつかなかった。だが。


『……うん。そういう恩田さんだから、俺は好きになったんだと思うよ。ちゃんと向き合ってくれてありがとう』


 ありがとう。

 ふたりが交わす最後の言葉にそれを選んだ佐久間を、茅乃は純粋に、すごいな、と思った。


 笑って通話を終え、こういう別れ方もあるのだと知る。

互いの幸せを願い、穏やかな気持ちで別れを告げる。そして自分のために、前へ進むために、一歩足を踏み出す。

 男性との交際において、心ごと刃物で突き刺されるような痛々しい別れしか経験したことのない茅乃にとって、それはどこまでも不思議な感覚だった。


 端末を握る自分の手をじっと見つめる。

 どうして私なのか。どうして私のためにそこまでするのか。

 それらはきっと自分が考えるべきことではない。むしろ、問えば相手を傷つけるかもしれない――それを、茅乃ははっきりと認識していた。


 佐久間はやはり、自分よりもずっと大人だった。

 小さく笑んだ後、茅乃は端末をテーブルの上にそっと戻した。



     *



 残暑が和らいできた夏の終わり。

 朝、久々に母から連絡が入った。祖母の法事の件だった。


 ……十三回忌。

 完全に失念していた茅乃は、喪服の用意だなんだと電話越しに話を続ける母の声を聞き流しつつ、心の中で祖母に謝罪を繰り返す。とはいえ十三回忌くらいになってくると、明確に記憶しているほうが難しい気もするが。

 職場に到着すると、伯父からも早々に同じ話題を振られた。伯父の家族も全員参列するそうで、その日は車で皆一緒に向かおうという話でまとまった。


 電車に乗って七駅分。都会の七駅とはさすがにわけが違う距離だが、それでもさほど遠くはない。茅乃の実家と伯父の家はそんな場所にある。

 中途半端に近いと、それはそれで帰省の回数は減る。以前も同じことを思った。ただでさえ茅乃は、地元に戻れば絶対に思い出してしまう記憶を是が非でも振りきりたいと日々願っている身なのだ。


 今年の盆には帰らなかった。

 年末年始は大晦日に一泊だけ戻ったが、両親と顔を合わせるのはそれ以来になる。


 伯父が運転する車に揺られ、沙耶と伯母と三人で他愛もない話をする。

 助手席の大志は普段通り黙ったまま、女同士の少々騒がしい会話に文句を垂れるでもない。最近の茅乃は、この人たちこそ自分の本当の家族なのではという錯覚を頻繁に覚えていた。


 ほどなくして、窓の外に懐かしい景色が覗き始めた。

 子供時代に移り住んだ町は変わらない。相変わらず同じ場所に建つローカルスーパー、かつての新興住宅地からやや離れた場所にある老舗の団子屋。そういうものが無駄に懐かしさを煽る。

 うっかり涙が滲みかけた茅乃は、最近涙脆くなったな、と改めて思った。


 実家に到着すると、すぐに母から喪服を合わせられた。

 普通のブラックフォーマルでもいいのではと思った茅乃だが、母は「たまに袖を通しておかないと喪服が泣くわよ!」と叫ぶ。

 ……なにげに不謹慎な発言だ。振り返った先では伯父が苦笑いを浮かべている。自分は案外伯父似なのかもしれないと、茅乃も曖昧に笑って返した。


 慣れた手つきで喪服を着付けていく母を見て、茅乃はそのスキルの高さを改めて思い知らされる。料理もお菓子作りも、こういった着付けや礼儀作法の所作も、茅乃がどう足掻いたところで母にはとても敵わない。


 法要はつつがなく終了した。

 大往生で世を去った祖母の回忌法要だ。おときの席など、もはやただの宴会に等しい。

 早々に喪服から動きやすい服に着替え、茅乃は母と一緒に、あるいはときおり手伝ってくれる伯母と一緒に、台所と茶の間を忙しなく行き来する。


 数分が経過した頃、大志が辟易顔でキッチンに現れた。

 明日に響くからこれ以上飲みたくないのに、あそこにいたら潰れるまで飲まされる……低く唸った大志に、茅乃と茅乃の母は揃って同情の眼差しを送った。


 吊り目がちな大志は、口下手な性格も相まって、やや取っつきにくい雰囲気を持つ青年だ。いつもの無骨なツナギ姿がそれに拍車をかけているのだが、今日の礼服姿は彼の尖った雰囲気をさりげなく和らげている。

 もう少し饒舌になれば異性の注目も集まるだろうにと思うが、寡黙で素朴だからこそ大志らしい気もするから、その余計なお世話を茅乃が口にしたことはなかった。


 大志と苦笑を浮かべ合っていると、なぜか母が突然「茅乃を貸してあげるから散歩でもしてらっしゃい」と言い出した。

 気を利かせたつもりらしい。驚いて振り返った茅乃とは対照的に、母は澄まし顔だ。


 ……伯父からなにか吹き込まれたのだろうか。

 不穏な気持ちの芽生えを感じつつも、せっかくだから小間使いは休憩だと考え直し、茅乃はそそくさとエプロンを外した。


「悪い。付き合わせる感じになって」

「ううん、全然」


 久しぶりの町内を、従弟と一緒に歩く。

 不思議な感じがした。黒ネクタイを外した大志は傍目には普通のスーツ姿に見えるし、普段は無造作に流された短髪も今日はきちんと整えられている。ラフなツナギ姿ばかり見ている茅乃にとって、彼の正装は新鮮だった。


 寡黙な大志と交わす言葉は、それ自体が少ない。

 彼と並んで歩きながら、茅乃の頭に蘇るのは蓮との思い出ばかりだ。


 まだランドセルを背負っていた蓮と、高校の制服姿の自分。母が作ってくれたケーキを一緒に食べたり、つまらないことで言い争いをしたり――そんな他愛もない記憶が、いくつも彼女の脳裏を過ぎっていく。

 ハマっていた恋愛小説を勝手にめくられ、真っ赤になって取り返したこともあった。当時の自分はまだまだ子供で、蓮のほうが精神年齢が高かったのではという気さえしてくる。


 ウザい、面倒くさい……さまざまな言葉で毒づかれもした。

 だが、それが蓮の本心ではないと分かっていたから、茅乃はあまり気にしなかった。他人から言われたら確実に怒るか傷つくかしていただろうひどい言葉だと、今も昔も変わらず思うのに。

 あまりにも態度が過ぎたときには叱った。そういうとき、蓮は最後には必ず謝った。多分、彼は茅乃がどこまで許すのかを、自分がどこまで許してもらえるのかを、そうやって試していたのではないかと思う。


 そこまで考え、不意に歩く足が止まった。


「……茅乃ちゃん?」


 訝しげな大志の声を耳にして、茅乃は後ろめたい気持ちでいっぱいになる。

 大志の隣を歩きながら、蓮へ思いを馳せている。悪女にでもなってしまった気分だった。降って湧いた陰鬱の坩堝に、彼女は即座に呑み込まれていく。


 茅乃は大志に特別な感情を抱いていない。

 しかし、伯父から何度か仲を取り持つような話をされていた分、余計なことばかり考えてしまう。


 例えば、その件を大志は知っているのか。知っているなら、大志自身はそれをどう受け止めているのか。

 知ったところで茅乃にどうこうできる話ではないにしろ、緊張は少しずつ高まっていく。指で眼鏡を押さえ、強張る気持ちをごまかしていると、茅乃に合わせて歩みを止めたままの大志が遠慮がちに口を開いた。


「……あの。茅乃ちゃん、親父からなんかいろいろ言われてるだろ」

「っ、え?」

「迷惑だろうからやめろって、親父には何回も言ったんだけど……その」


 口ごもる大志は珍しい。いや、彼が自分から話を切り出してくること自体が珍しい。

 次第に赤く染まっていく大志の頬が見える。それはきっと、先ほどまでさんざん煽られていたというアルコールのせいではないと、茅乃は直感していた。


 相手の顔を見つめ続けてはいられなかった。

 露骨に視線を外してしまう。見慣れた、だがどこか懐かしい風景を眺めては、茅乃はなんとか平常心を保とうと、この会話を終わらせる方法はないかと、混乱に沈む内心を必死に鼓舞し……そして。


「……え?」


 捉えてしまった。確かに目が合った。

 ひとのない夕方の交差点、信号――その脇。呆然と立ち尽くす人影、それがすぐさま背を返して足早に去っていく姿。


 別れの日に見た広い背中と、たった今目にしたばかりのそれが、かちりと音がするほど鮮明に、茅乃の頭の中で重なる。


「……あ……ッ!!」


 弾かれたように足が動いた。大志が驚いた様子で茅乃を呼び、だが彼女は少しもそれを気に懸けられない。

 走った距離は決して長くなかった。それでも、全力で歩道を駆け抜けた茅乃がそこへ到着した頃には、運動不足の身体と心臓はすっかり悲鳴をあげていた。


 はぁはぁと息を荒らげ、ズレた眼鏡を直しながら、茅乃は周囲に視線を投げる。

 人影はもうどこにもなかった。夕暮れに染められたアスファルトは、日中に溜め込んだ熱をまだ保っていて、地面についた茅乃の膝に生ぬるいぬくもりが走る。


「……茅乃ちゃん」


 どうした、と問う声は独り言のようだった。

 明らかに狼狽した声で呼ばれ、ようやく、茅乃は走る自分を大志が追いかけてきたのだと思い至る。


「……ごめん、急に。知り合いかと思って……でも」


 ――見間違いだったみたい。


 荒れた呼吸に翻弄される茅乃の声は、自分でも別人かと思うほど醜く潰れていた。

 そのとき自分がどんな顔をしていたのか、考える余裕などとてもなかった。隣に佇む大志の、見開かれた目の色ばかりが強く焼きついて残り、あまりの居た堪れなさに彼女は深く俯いた。

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