《3》お人好しの小野寺くん
翌月曜。
町の小さな整備工場に、意外な客が訪れた。
「あっマジでいた! 久しぶりー、恩田先生!」
軽快な声に、茅乃は我が耳を疑う。
小野寺だった。彼と話し込んでいたツナギ姿の大志が、驚いた様子で茅乃を振り返る。「本当に知り合いだったのか」と強張った声で尋ねられ、茅乃は頷かざるを得なかった。
純粋な驚きに、茅乃の口は開きっぱなしになってしまう。
聞けば、互いの父親が高校の同級生だそうだ。意外にもほどがある小野寺と大志の繋がりに、世間とは思った以上に狭いのだなと、茅乃は小さく苦笑を零す。
驚きを消化しきれないまま整備場へ戻っていく大志を、茅乃は小野寺とふたりで見送る。
その後、事務所で小野寺にコーヒーを振る舞った。凄まじい違和感を覚えつつも、茅乃は正面のソファに腰かけた客人に向き直る。
たっぷり十秒が経過した頃、小野寺がコーヒーカップを片手にぱちりと片目を閉じ、口を開いた。
「ねぇ先生。あれから彼氏、できた?」
……そこでウィンク、とは。
洒落たことをするようになったな、とつい感心を寄せたのも束の間、まるで高校時代と変わっていない好奇心丸出しのひと言が続き、茅乃はがくりと脱力してしまう。
「ちょっと小野寺くん、全然成長してなくない? 昔も似たようなこと訊いては人をからかって……」
「からかってなんかないよ。本気で訊いてる」
不意に表情を引き締められ、茅乃の軽口がふつりと途切れた。
相変わらずの軽快さの中に覗く真面目な表情は、過去の小野寺には一度も見出したことのないものだった。無論、茅乃が彼のそうした内面を知れる立場になかっただけかもしれないが。
大人になっている。おそらくは以前よりも、ずっと。
どこがどうと、はっきり言葉にはできない。だが、例えば彼がまとう雰囲気だったり、あるいは言葉の端々に滲む配慮の気配だったり、そういう類だ。
「俺さ、恩田先生のことずっと気になってたんだ。コンビニで変な奴に襲われてるとこ見てからは、ますます」
茅乃が言葉を途絶えさせたきり降りていた沈黙を、小野寺が先に破る。
「嘘だろって思った。だって恩田先生がまさかって思ったし、それと東條」
「……え?」
「初めて見たんだ、東條があれだけ怒ってるとこ。つうか感情剥き出しにしてるとこ」
――東條。
その名と小野寺の声が、頭の中を忙しなく駆け回る。
それは茅乃にすぐさま過去を呼び覚まさせ、決して新しいものではなくなった記憶の片鱗が彼女の脳裏を巡り始める。
巡っては満たし、満たしては渦を巻く。頭が痛みを覚えるよりも前、茅乃は軽く目を閉じてそれを振り払おうとし……だが。
待ち合わせ。コンビニ。襲撃。汚れたコート。吸い殻。ギラついた視線。
怒号。引き寄せる腕。荒れた呼吸。血の滲んだ手の甲。広い背中。ひしゃげた眼鏡。
今では変質者本人より、助けてくれた彼のぬくもりこそを鮮明に思い出す。
そのほうがよほど苦痛だ。今となっては彼の記憶こそが、茅乃に要らない感情を運んできては息を詰まらせ、眩暈を覚えさせるからだ。
「恩田先生ってあいつの幼馴染なんでしょ? なら知ってると思うけど、クールって言えば良く聞こえるっつーだけでさ、東條ってなにしてても無関心だった。勉強も、やらなきゃいけないからやってるだけ。その癖に成績はスゲェ良かったから、俺みたいなのは本当やってらんなかったけど」
「……小野寺くん」
「その東條が、感情剥き出しで誰かに殴りかかってる。心臓止まるかと思ったよ」
物騒な話をしているにもかかわらず、小野寺の声は至って穏やかだった。
以前と同じ声音にも聞こえるし、別物にも聞こえる。落ち着いた声で彼が語る、茅乃の知らない東條蓮。その人物像はひどく新鮮であり、同時に痛々しくもあった。
「慌てて店員に声かけて、周りの客と一緒に飛び出してってさ。東條、眼鏡ぶっ飛んでたけど、でも確かに俺と目が合って、あいつだって絶対気づいたはずなんだ。でもなにも言わなかった。そのまま裏の細い路地みたいなとこ入ってって、恩田先生のこと抱えて出てきて……また心臓止まったかと思った」
身体を包むぬくもり。支えてくれる腕の力強さ。
思い出してしまう。もう会えないのに。自分こそが、彼を拒んだのに。
「怖えなって思ったよ。けど先生は知ってたんだろ、あいつがああいう奴だって」
「……私は」
「恩田先生だけ特別なんだなって知ったら、初めて東條が生きてる奴に見えた。で、そしたら恩田先生がめっちゃ心配になった」
「え……私?」
意外な流れに、茅乃の言葉尻が上がる。寄った眉を目にしたらしい小野寺がくすりと口元を緩め、茅乃は苦々しい気分になった。
随分とシャープな笑い方をする。先ほどの〝大人になっている〟という所感は、あながち間違いではなかったようだ。
「東條さ、精神的に危ない感じ、ちょっとしてたから。それにあの頃って恩田先生も結構悩んでなかった?」
「……別に、悩んでなんて」
「好きだったんじゃねえの?」
まっすぐに己を射抜く視線を、茅乃はとても受け止めきれない。
「……それは、小野寺くんには関係ないことだよ」
シャツの首元から覗く、小野寺の尖った喉仏に視線を落とし、茅乃は声を絞り出す。
平静を保ちたかったが、いつまで保てるか、すでに自分では分からなかった。両目が微かに泳いだ瞬間、苦笑気味の小野寺の声が耳に届く。
「いや、そりゃそうだけど。……あのさ、すんごい余計なお世話、ひとつだけ。今、東條と俺、おんなじ大学行ってんの。学部は違うけど。知ってた?」
喋る小野寺と目を合わせないまま、茅乃は微かに目を見開く。
小野寺の志望大学は、確か県内唯一の国立大だった。あの子は違う。彼は都心部の大学を目指していたはずだ……だが。
茅乃が知るそれは、彼が高校二年生のときに聞いた話だ。あれから変更したのかもしれない。あり得ないことではない。
言葉が続かない茅乃を一瞥した小野寺は、思い出したようにコーヒーカップに指を伸ばした。
カップにかかる小野寺の指を眺めながら、茅乃が思い出したのは彼の指だった。何度も触れた、何度も触れられた、大人の男性と変わらない節の目立つ長い指。
……眩暈がした。今思い出すべきことでは、ない。
震える息を呑み込む。目の前の元教え子の話に集中しようと、茅乃は半ば強引に意識を向けた。
「あいつ、まだ高校行ってたうちから元に戻ったんだ。笑ってっけど笑ってない、死んでないだけで生きてもない感じ。あのまんま。今もだよ」
小野寺の視線を、やはり茅乃は直視できなかった。
目を逸らすが、それでも小野寺は言葉を止めない。そこに自分を責めるような気配を読み取れてしまいそうで、途端に茅乃は息苦しくなる。
「恩田先生は、まだ東條のこと好きなんじゃねえの?」
「……私は」
「だったら会ってやってよ。いいだろ、東條だってもう高校生じゃねえんだよ。ふたりとも大人で……いやあいつまだギリ十九だけど、でももう大人同然だろ? 大人同士がどうこうなって、それでなんか問題とかあるわけ?」
痺れに似た痛みが、ひりひりと茅乃の胸に広がっていく。
曲がりなりにも仕事中の職場、しかも小野寺の目の前で、なりふり構わず泣き叫びたくなった。それだけは避けねばと、茅乃はなけなしのプライドを必死に掻き集めて声を絞り出す。
「……そのうち、機会があればね」
「うん。絶対な」
「小野寺くんは……昔からお人好しなままだね」
「はは、それよく言われる。けどもし先生が東條のこと忘れてるんだったら、こんなお節介なんかしてねーで俺が告ってたよ。高校の頃からずっと憧れてたし」
想定外の告白に、茅乃は弾かれたように小野寺を見やる。
ばつが悪そうに視線を逸らし、それでも口元に緩い笑みを浮かべる小野寺は、少しだけ寂しそうに見えた。
「……あ、あの、小野寺くん」
「いいよ、気にしなくて。そんなことしても駄目だなこりゃって、ここ来てすぐ気づいたし」
「……あ……」
「じゃあ俺、そろそろ帰るね。車、後からうちの親父が取りにくるんでよろしくお願いしまーす」
「っ、えっ? ちょっと、あの」
ソファから腰を上げた小野寺を、茅乃は呆然と見上げる。
まさか、自分と話をするためだけにここに立ち寄ったのでは……そんな内心が顔に出てしまったのか、小野寺は座ったままの茅乃にくしゃりと顔を崩して笑いかけた。
「はは。超お人好しだろ?」
返す言葉は見つからなかった。
目を見開いたきり固まる茅乃へ、小野寺は悪戯っぽくまた片目を瞑ってみせた。
「じゃあね、恩田先生。あ、大志に絆されたーとか、頼むからそういうのはやめてくれよな。そんなんだと俺も東條も不憫すぎる」
ひらひらと片手を振り、小野寺は軽快にドアを開けて事務所を出ていく。
変わったようで変わっていない。もしかしたら自分もそうなのだろうかと思いながら、茅乃は閉まりゆくドアを見つめる。
小野寺の姿が見えなくなった後も、茅乃はしばらくぼんやりと手を振り続けていた。
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