《2》いいんだよ
待ち合わせ場所に到着したのは、予定より十分も早い時間だった。
時計を確認した茅乃は、これではよほど楽しみにしていたみたいだと、思わず苦笑を浮かべる。
実家がある町に足を踏み入れるのは久しぶりだった。
電車で一時間強。遠すぎることもなければ、実家や今の自分の住まいが駅まで遠いというわけでもない。
しかし、中途半端な近さは逆に足を遠のかせる気がしてならない。遠のいている理由はそればかりではないが、そこを延々考え続けていてはさすがに疲れてしまう。
思考を切り替えようとしたそのとき、背後から声がかかった。
恩田さん、と自分を呼ぶ低い声を耳に入れるのは、前職を辞めて以来だ。ひと呼吸置いてから、茅乃はゆっくりと背後を振り返った。
「……お久しぶりです。佐久間先生」
思っていたより深く頭が下がってしまう。
お辞儀をする茅乃を見つめた佐久間は、三年前――ふたりが同僚であった頃と変わらない顔で薄く微笑んだ。
*
よく自分に声をかける気になったものだと感心しそうになる。不躾な態度を取った過去の自分を思い出し、茅乃はつい顔をしかめた。
新年会の夜の自分の言動は、佐久間にとってどれだけ不愉快だっただろう。気が重い。とはいえ佐久間の足取りは、茅乃とは逆で軽く見えた。
男性との接触はいまだに苦手だ。
ふたりきりという状況なら、なおさら。
佐久間が提示した約束の時間は、ちょうど昼食に重なる時間帯だった。女性同士や家族連れの客が目立つレストランへ、ふたりで足を踏み入れる。
賑わう店内には、子供と親の話し声や、楽しげに笑う声が次々とあがる。そういう空気が茅乃を落ち着かせた。
新年会の夜、茅乃は佐久間へ男性恐怖症の傾向がある旨を告げている。雰囲気のある敷居が高そうな店を選ばなかったのは、佐久間なりの配慮なのかもしれない。そう思えば、緊張は幾分か解れる。
それぞれの注文をウェイターに伝えた後、水のグラスを手に取った佐久間が口を開いた。
久しぶりとか、急に連絡してごめんねとか、当たり障りのない話を続ける合間に、彼が教員採用試験に無事合格したと聞いた。一昨年に合格し、今は県立高校にて教鞭を執っているそうだ。
以前、彼が口にしていた希望通りだ。
羨ましいとは思わなかった。純粋に、良かった、とだけ思った。
教員という夢が、すでに茅乃から離れて久しいからかもしれなかった。「おめでとうございます」と伝えると、佐久間ははにかむように笑い、「ありがとう」と答えた。
運ばれてきた食事を平らげた頃には、茅乃はすっかり饒舌になっていた。
友人や知人と一定の距離を置いた田舎暮らしは、茅乃に平穏をもたらしてはいたものの、久しぶりに顔を合わせる知人とのやり取りはやはり新鮮だし楽しい。
あけすけすぎるのではと思うほど滑らかに続く茅乃の話を、佐久間は微笑みを崩すことなく聞いてくれていた。
塾に勤めていた頃からそうだった。佐久間は聞き上手だ。茅乃よりもずっと大人で、落ち着きのある男の人。
食事の時間は穏やかに過ぎた。駅まで送ってもらい、「じゃあまた」と口に乗せかけ、茅乃はそこで小さく息を呑んだ。
また、などと安易に口にしていいものか。茅乃の躊躇はふたりの間に妙な沈黙を生み、それを佐久間が先に破った。
「生活の基盤が整ったら、また口説こうと思ってたんだ」
……三年前のデジャヴかと思うほど、茅乃の頬が派手に引きつった。
和やかな時間とやり取りを経て、茅乃の気はだいぶ緩んでいた。迂闊だった。自分はいつもそうだ。長年の音信不通を経た後に電話がかかってきた時点で、この展開は想定しておくべきだった。
おそるおそる茅乃が視線を上げた先、しまったとばかりに口元へ手を当てる佐久間が見えた。
え、と茅乃はつい眉をひそめる。
らしくない気がした。無害そうな顔で飄々と相手の隙を突く、そういうこの人らしさに、今の反応は微妙に欠ける。
気まずげに逸らされた視線はそのままだ。ペースを崩したきり、佐久間が呆然と口を開いた。
「ごめん。今日は言うつもりじゃなかった」
はぁ、と深い溜息が聞こえた。わざとらしさは感じなかった。
電車が来るまでまだ時間がある。心底困ったような佐久間の態度と顔を見る限り、狙ってこの時間に送り届けてくれたわけではなさそうだ。そのことが余計に茅乃を戸惑わせる。
「あの、返事は今じゃなくていいんだ。ごめん、本当……口が滑った」
途方に暮れた顔で零す佐久間を、茅乃はじっと見つめる。
返す言葉を思案するよりも前に、彼女の口が勝手に開いた。
「……忘れられない人がいるんです」
伯父から大志との結婚をほのめかされたときも、わざわざ言葉にしては伝えなかった。だが今、こんなふうに本音を零せる程度には、佐久間への警戒は和らいでいる。
つい口走った茅乃の本心に、佐久間は驚かなかった。
気の抜けたような、それでいてどこか諦めを滲ませたような、そんな笑顔を覗かせながら、彼も小さく呟いた。
「うん。知ってる」
「……え?」
「いいんだ。忘れられないなら、そのままでも」
相手については特に訊かれなかった。だが、勘づかれている。直感があった。
その相手が、間接的にではあるものの佐久間も知る人物であること。また、茅乃がどれだけの燻りと諦念を抱えて日々を生きているのかということ。
佐久間には、おそらくそのどちらをも見抜かれている。
「こうやって会ってくれること自体、想定外だった。そもそも電話に出てもらえるとも思ってなかったし」
「……佐久間先生」
「仕事、急に辞めたのって俺のせいかなとか、悩んだ時期もあったよ。でも今日会えて、なんとなくだけど違うんだろうなって分かった。それでも着信拒否とか、それくらいされててもおかしくないのにとは思ったけど」
「……端末を替えたときに、もういいかなって」
「それは不用心だな」
――そういうところ、彼も心配だったんじゃないかな。
小さく笑う佐久間の声は、茅乃に向けられているはずなのに、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
茅乃の気持ちが今どこにあるのかを知っていて、「それでもいい」と口にできる佐久間の心境など、茅乃には到底理解が及ばない。
投げやり、諦め、覚悟。そのどれでもあって、またどれでもない気がした。
分からない。わずかに拳を握り締めた茅乃は、吐息とともにぽつりとひと言零した。
「少し、時間を……ください」
答えは決まっていたのに、どうしてもそれを口に乗せきれなかった。
茅乃の精一杯の返事を聞いた佐久間は、なぜか「ごめんね」と再び謝罪を繰り返し、その日初めて顔を合わせたときのように困った顔で笑った。
*
『そっかあ。私はいいと思うよ、佐久間さん』
「……そうかな」
『だって茅乃、その人が嫌いだったら会いになんて行った?』
苦い顔をしていることさえ伝わっていそうだ。
辟易していると、電話越しに微かな笑い声が聞こえた。ムキになって言い返そうとした口を、茅乃は言葉が飛び出る寸前できつく引き結ぶ。
茅乃がこうした相談を持ちかけられる相手は限られている。
今でも連絡を取ったり食事に出かけたりする美和、もしくは大学時代以来の親友である亜希子。基本的には二択だ。今回は亜希子に相談した。美和は佐久間と顔見知りだから、気が引けたのだ。
亜希子は昨年結婚した。相手は、彼女が勤めていた職場の上司だ。
ウエディングドレスに身を包んだ親友の、幸せに満ち溢れた微笑みを思い出す。仕事を寿退職して姓が変わった亜希子を思い、茅乃は痛いくらいに時の流れを感じてしまう。
あれから、もう三年もの月日が経っているのだと。
『いいとは思うんだけど。でもね、茅乃が後悔するのは私、嫌だよ』
「……亜希子」
『もう吹っきれたの? 彼のことは』
亜希子の声は穏やかだ。
もし三年前に同じ話をしたなら、彼の話題など口にすることすら不快だとばかりに嫌悪を滲ませただろうに。
『ふふ。ならちょっと待ってもらったらどう? 佐久間さんに』
「っ、いや、さすがにそれはできないよ」
『なんで?』
「なんでって、そんなのどんだけ狡すぎるんだって話でしょ」
茅乃が堪らず語尾を荒らげかけると、亜希子は電話越しに軽やかに笑った。
『いいじゃん、別に。待つって言ってもらえたんでしょ』
「いや、だからって……」
『忘れられない人がいるってはっきり言ってるのに、それでもいいだなんて。相当本気なんだと思うけどな、私は』
……佐久間には三年前にも告白されている、とは言えなかった。
亜希子は優しい。かつて彼女が蓮に向けて放った糾弾が、茅乃を案じるゆえのものだったこと。それを当時の茅乃は理解できなかった。蓮を責める亜希子の言葉に、自分こそが深手を負っていたように思う。
亜希子は、過去の自分の言動が蓮ではなく茅乃こそを抉ったと理解している。
分かってもらえている。茅乃がまだなにひとつ吹っきれていないことも、佐久間との関係について答えがすでに出ていることも、きっと、全部。
こういうとき、亜希子と友達で良かったと、茅乃は心から思う。
『ねぇ茅乃。別にね、狡くなったって、いいんだよ』
それでもそんなふうに言ってくれる亜希子は、やっぱり優しい。
うん、と答えた茅乃の目尻から、ぽろりとひと粒涙が零れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます