第4章 麻酔、あるいは恋によく似た〈前〉

《1》優しい町

「……お、三時だな。茅乃ちゃん、そろそろ休憩にするか?」

「はーい。うわぁ、もうこんな時間だね~」

「おお、さすが! あの伝票の山が半分になってる!」

「ふふー。多分まだまだ増えるけどね、月末だし」


 電卓のクリアキーを弾き、茅乃は座ったまま伸びをする。途端に、凝り固まった肩と背中がバキバキと音を立てた。

 ここで働き始めて以降、身体の凝りにはすっかり慣れっこだ。思わず苦笑を浮かべると、関節の音が聞こえたらしいツナギ姿の伯父も、茅乃につられたように頬を緩めた。


 茅乃が、母方の親戚が経営する自動車整備工場に勤め始め、およそ三年が経過していた。


 今日は月末の処理に追われ、普段よりも忙しない。

 自宅にくっつけた形で増築された事務所は、いつもは工場よりも遥かにのんびりした空気が流れているにもかかわらず、今日に限っては例外だ。

 とはいえ、この忙しさも明日にはひとまず落ち着くだろう。ふう、と小さく息をついた茅乃は、デスク上の山積みの書類を一瞥した後、眼鏡を外して目頭を揉む。そのまま、お茶を淹れるために席を立った。


 片側に緩く流された彼女の髪は、今日も、三輪の薔薇が連なったピンクのシュシュでまとめられている。



     *



 亜希子に連れられて婦人科を受診した後、ほとんど日を置かず、茅乃は塾講師を辞めた。

 呆然と退職届を見つめていた教室長、突然の話に顔色を変えた同僚たち――皆、一様に動揺を滲ませていた。特に、佐久間と美和は露骨に顔を引きつらせて驚いていた。


 なんのためにあれほどの嘘をついてまで、そしてあれほど彼を追い詰めてまで別離を選んだのか……仕事を続けるためだったはずなのに、完全に本末転倒だ。

 だが、そうしなければその場から一歩も進めない気がした。前にはもちろん、後ろにさえも。


 実家に連絡を入れると、母は一度帰ってくるよう茅乃を諭した。

 仕事を辞めた以上、アパート暮らしを続けることは困難になる。母に言われるまま実家へ戻った茅乃だったが、長く居座るわけにはいかなかった。蓮の家が近すぎるからだ。


 茅乃が抱える、静かな、それでいて激しい焦燥に、茅乃の母は早々に気づいたのだろう。県北の田舎町で小さな自動車整備工場を営む兄夫婦に連絡を取った彼女は、しばらく茅乃を彼らに任せると勝手に決めてしまった。

 伯母が体調を崩したため、折しも事務スタッフを急募していたところだったそうで、茅乃抜きでとんとん拍子に話が進んでいったらしい。

 亜希子を頼ってもう一度東京へでも、などと考えていた茅乃にとって、なかなかに理不尽な決定ではあった。とはいえ、昔は頻繁に遊びに行った伯父の家だと思えば苦痛ではない。むしろ、懐かしい顔ぶれを思い出して胸が弾んだ。なにせ茅乃は単純なのだ。


 数ヶ月の居候生活の後、工場からほど近い場所に建つ貸家を借りた。

 賃貸アパートは町内に数える程度しかなく、また、この田舎ではそれより安く借りられる貸家がたくさんある。建物が古い上、ひとりで暮らすには広すぎて掃除も大変だが、実家や伯父の家によく似た造りの木造住宅は茅乃を甚く安堵させた。

 逆に、アパートのような空間のほうが記憶を無駄に揺さぶり、今の自分には堪えるのではという気もしていた。


 塾講師時代にもときおり担っていた事務仕事だが、帳簿をつけたり通帳とにらめっこしたりといった、事務職ならではの経験までは茅乃にはない。

 世話になり始めて最初の一年は、慣れない環境や作業に躍起になって没頭していたが、それも田舎町の小さな整備工場での話だ。イレギュラーな用件が重なることなど滅多になく、大概は平和に時間が過ぎた。


 伯父には熱い緑茶を、伯父の息子のたいにはブラックのコーヒーを、それから自分にはいつもより甘めに仕上げたカフェオレを。

 給湯室と呼ぶのも憚られるような狭いキッチンで、茅乃は手早くそれらを用意する。伯父が取引先の営業スタッフにもらったというカステラがあったから、そちらもささっと切り分けた。


 ……やはり等分の概念が揺らぐ。

 なんの変哲もない長方形のカステラなのに、斜めになったり台形になったり、いろいろとひどい。不器用さ加減は昔のままだ。その癖を直すのは諦め、逆に開き直ることを覚えて久しい。


 トレイを持って事務所へ戻ると、すでに伯父と大志が応接用のソファに腰かけていた。

 ふたりの休憩スペースはいつもそこだ。それぞれに、茅乃は湯呑みとマグカップを渡す。

 一番小さいやつでいいよ、と言われて差し出したカステラを見て、大志はわずかに固まった。「デカいな」と呟いた彼に、茅乃は苦笑いを返す。大志にとっては茅乃の不器用っぷりなど慣れたものらしく、黙ったきり、彼は最後のひと口まで残さず口に運んだ。


 お喋りな伯父夫婦に似ず、大志は寡黙な青年だ。

 茅乃の従弟いとこに当たる彼は、茅乃より学年がふたつ下で、今年二十四歳になる。専門学校で自動車整備士の資格を取得して実家に戻った彼は、今は伯父とふたりで工場を切り盛りしていた。


 大志には、齢の離れた小学生の妹、沙耶さやがいる。

 幼い頃はよく母と一緒に伯父の家に遊びにきていた茅乃だが、両親が現在の家を購入して以降は機会がぐっと減っていた。

 齢が近い大志とは何度か遊んだ記憶があるが、沙耶とはほとんど面識がない。物珍しそうに自分を見る沙耶に対し、最初こそ緊張を覚えた茅乃だったが、姉のように慕われるまで時間はそうかからなかった。


 今では、沙耶の勉強を見てあげる日もある。

 茅乃が塾講師だったと知る伯父夫婦に、娘の勉強嫌いをなんとかしてくれないかと頼まれたのだ。


 沙耶が得意だという科目は体育。尋ねた茅乃に元気いっぱい答えてくれた沙耶を、伯父夫妻は溜息交じりに眺めていた。

 茅乃はむしろ、そんな沙耶を羨ましく思ったものだ。自信満々に答えられるものがあるなら、それは大切にすべきだと思う。一度でも嫌いだと感じてしまえば、その感覚を〝好き〟や〝得意〟にまで引っ張り戻すことは難しくなる。


 沙耶は素直だ。嫌いだと零していた科目も、解けるようになれば表情で、そして全身で喜びと楽しさを表現する。そのうち自分から次を求め、解き進めていく。〝分からない〟が〝分かる〟に変わる瞬間を見るのは楽しい。勉強なんか嫌いだと言っていた沙耶が、『テストですごい点取ったよ!』などと笑う姿を見ると、茅乃は自分のことのように嬉しくなる。


 お金のことだけではなく、仕事だというだけでもなく、そういう喜びがあったのだ。あの頃も。


 茅乃のマグカップの中身が半分まで減った頃、コーヒーを飲み終えた大志が席を立った。「ごちそうさま」と小さく呟いてから整備場に向かっていく後ろ姿を、茅乃ははぁいと間延びした返事をしながら見送る。

 そんな息子を目にした伯父は、やれやれと言いたげに溜息をついてみせた。


「ったく、いくつになっても無愛想な野郎だなぁ。茅乃ちゃんもそう思わねえかい?」

「え、そうかな。大志くんがペラペラ軽口利いてきたら逆に驚きだよ?」

「いや、まぁそうなんだけどよ。……ところで茅乃ちゃん、こないだの話なんだが」


 言葉の最後、伯父の声のトーンとボリュームが下がった。

 反射的に苦笑を零しつつ、茅乃は大志が出ていったばかりの武骨な開き戸を眺める。またあの話かと即座に予測がついたため、伯父からはあえて視線を外した。


「大志はあの通り愛想のねえ男だし、こんな田舎の古い整備場の跡取りでしかねえんだけどよ。もし茅乃ちゃんさえ良ければ、俺も女房も安心なんだがなぁ。沙耶も喜ぶだろうし」


 茅乃から視線を外してボヤいているところを見ると、同じ話を何度か繰り返している自分の言動に、それなりに気後れを感じてはいるらしい。


 ポリポリと白髪頭を掻く伯父を、そっと見つめる。

 当然だが、母とこの家に遊びにきていた頃より随分老けた。それくらいの時間が経っている。伯父だけではなく、この家だけでもなく、すべてのものに同じだけの時間が流れている。


 もう三年になるのだ。

 去りゆく彼の背中を、最後に見送ったあの日から。


「ごめんね、伯父さん。大志くんがどうこうってことじゃなくて……私」


 前回、同じ話を振られたときには濁した。笑ってごまかした。『大志くんならすぐ彼女ができるよ、もしかしたらもういるんじゃない?』とおどけた調子で伝えて、しかし今回は真正面から伯父の目を見て返す。

 相当に困った顔をしてしまっていたらしい。はっと我に返ったらしき伯父は、決まり悪そうに茅乃に頭を下げ、「気にしねえでくれな」と三度ほど口にしてから事務所を後にした。


 すでに仕事に戻っている大志のもとへ足早に向かう伯父の後ろ姿を、茅乃はぼんやりと見つめていた。

 伯父も、なにも悪気があってあんな提案をしてくるわけではない。過ぎた干渉――しかもおそらくは息子本人も知らないのだろう――に居心地の悪さを覚えないとは言えないが、根は良い人だと知っている。伯父も伯母も、もちろん大志も。


 軽く溜息をついた後、茅乃は湯呑みとマグカップを片づける。


 穏やかな生活の繰り返し。この町に流れる時間は、いつも茅乃に優しい。

 少しずつ自分を取り戻して、自分のつたなかった部分を見出して、きちんと向き合って、そうやって茅乃は今も呼吸を繋いでいる。


 洗い物を終えてデスクに戻ると、茅乃の携帯電話が小さく震えた。

 業務連絡や、伯母や沙耶とのやり取りがあるため、デスクには常に自分の携帯を置いている。

 今日は沙耶の勉強を見てあげる日だ、予定の変更かなにかだろうか……そんなことを考えながら画面をスライドさせた茅乃の指が、表示された名前を目に留めた瞬間、ひたりと止まる。


 そこには、懐かしい人物の名前が浮かび上がっていた。

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