《8》嘘つきの本音

 おそらく、自分から電話をかけたのだと思う。

 カーペットに座り込んだ茅乃は、大学時代からの親友にきつく肩を揺さぶられ、ようやく我に返った。


 見たこともないほどの焦りを滲ませた亜希子の顔をぼんやり眺めながら、相変わらずこの子は美人だな、と茅乃は思う。

 やっと自分を視界に入れてもらえて安堵したのか、亜希子は茅乃の焦点が定まったさまを確認した後、張り詰めた表情をわずかに緩ませた。


「急に電話なんてなにかと思えば……ちゃんと説明してくれる? あ、その前になんか飲む? 顔色悪すぎよ、アンタ」

「あ、うん。冷蔵庫に牛乳入ってる……」

「キッキン、勝手に入るよ?」


 世話焼きの性格は大学時代から変わっていない。

 当時の記憶が過ぎり、茅乃の頬がわずかに緩んだ。


 電子レンジで手早くホットミルクを作った亜希子は、はい、とマグカップを茅乃に手渡し、自分はそれとは別のマグカップに口をつけた。

 自分用にコーヒーも淹れたらしい。昔からちゃっかりしているところもあったっけと思い出し、ますます笑いが浮かんでくる。

 そんな茅乃を訝しげに眺めた後、亜希子は意を決したように口を開いた。


「ねぇ、なにがあったの」

「……ん」

「喋りたくないなら無理に喋らなくてもいいけど、できれば教えて。こんなのあのとき以来でしょ」


 あのとき。

 亜希子のその言葉に、茅乃の肩がびくりと震える。


 大学時代の苦い記憶が、茅乃の脳裏に蘇る。辻との間に走った亀裂の件だ。

 亜希子は知っている。茅乃が自らすべてを打ち明けたからだ。辻になにをされたのかはもちろん、彼をどう思っているのか、彼にどうしてほしかったのかまで、すべてを。


 意識が伴わないまま、勝手に呼吸が荒くなっていたようだ。背中に置かれた手のひらが生むぬくもりに、茅乃は弾かれたように顔を上げた。

 思慮深く揺れる亜希子の視線と自分のそれがぶつかり、茅乃は思わず腹部に手を添える。

 元々膝に置いていたそれが微かに動いただけにもかかわらず、目に留めた亜希子は一瞬で顔色を変えた。


「茅乃……アンタ」


 呆然とした声の後、亜希子の表情がひときわ険しくなる。

 親友がなにを考えているのか、なにに思い至ったのかすらうまく判断をつけられず、茅乃は彼女の怒りを解くためしどろもどろに声をあげた。


「あの、違うの。あのね亜希子、私、ちゃんと好きな人としたの」

「こないだ電話で彼氏いないって言ってたじゃん。あれからできたの?」

「……彼氏、とかじゃなくて、その」


 食いつくような亜希子の反応は、茅乃に不安を抱かせる。

 ぼそぼそと零した最後の言葉に、亜希子はさらに険しく顔を歪め、茅乃が腹部に寄せた手に自分の手のひらを重ねた。


「彼氏でもない男とセックスしたの? アンタが?」

「……あの」

「茅乃」


 いつになく厳しい声で呼ばれたが、茅乃には曖昧な表情以外返せない。

 辻との一件で、男という生き物に茅乃がどれほど恐怖を抱くようになったのか、亜希子は知っている。正しく理解してくれているからこそ、今日、彼女は茅乃からの唐突な電話に応じ、こうやって遠路はるばる足を運んでくれたのだ。


 手を腹部に添え、茅乃は笑った。

 確かに笑ったはずなのに、目尻を涙が零れ落ちていく。


「もし妊娠してるなら、私、産みたい……」

「っ、なに馬鹿なこと言ってんの!!」


 怒鳴り声をあげられ、茅乃の全身がびくりと跳ねた。

 よほど怯えた顔をしていたらしい。深呼吸をひとつついた亜希子はすぐさま謝罪を口にし、だが、やがて臓腑の底から絞り出すような低い声を零した。


「茅乃。その男は、アンタのなんなの」


 喋りたくないなら喋らなくてもいいとは、もう言われなかった。

 返事を待つ亜希子が生む沈黙に耐えきれず、茅乃は吐き出すように口を開いた。


 相手が幼馴染であること。

 高校生であること。

 偶然再会したこと。

 何度も助けてもらったこと。

 昔から執着の傾向があったこと。

 小学生時代の失踪騒ぎのこと。


 二度目の救出以降は、自分こそが彼に依存していたこと。


 途中からしゃくりあげながら話す茅乃の声を、亜希子は一度も遮らなかった。

 無言の亜希子が本当に話を聞いているのか判断がつかず、「聞いてる?」と途中何度か質問したほどだ。そのたび、亜希子は茅乃の手を握る手のひらに力を込めては頷くばかりだった。


「好きなの。頭がおかしくなるくらい好き」


 ひとたび言葉にすれば、後は簡単な話だ。

 そうだと認めてしまえば、嘘をつかずに済めば、こんなにも呼吸が楽になる。気の置けない親友が相手なら、なおさら。


「でもね、私、蓮くんのこと駄目にしかできない。私に依存して私も依存して、そんなのこれから大学に進むあの子の将来、潰しちゃうだけだもん」

「……アンタが子供できるようなこと、けしかけたの?」

「ううん。違う」

「っ、だったら!!」


 耐えかねた様子で叫ぶ亜希子の声に、再び茅乃の身体が跳ねた。

 やり場のない怒りをぶつけるように動いた亜希子の拳が、ローテーブルに激しく叩きつけられる。テーブルに置かれたマグカップが耳障りな音を立てた後、亜希子は声を震わせて吐き捨てた。


「なんでアンタがそいつを潰すなんて話になってんの!? そのガキが好き勝手にアンタを犯したんでしょうが! 辻以下だろそいつ!!」

「違う!! 違うの、蓮くんはなにも悪くない!!」

「……茅乃……」


 崩れ落ちる茅乃の身体を、泣きそうな顔をした亜希子が抱き留める。

 蓮からの抱擁よりも力がこもっているのではと感じるほどで、かと思えば労るような優しさも確かにある。震える茅乃を両腕で包み込んだまま、亜希子はさっきまでの荒れた口調が嘘かと訝しくなるほど穏やかに囁いた。


「ねぇ茅乃、駄目だよ。病院行くよ」

「……嫌だ」

「茅乃、分かって。子供っていうのは、そんな気持ちで作ったり産んだりしちゃ、駄目なの」


 亜希子の声が、どこか遠い。

 さんざん泣き喚いた茅乃の目尻は赤く染まり、亜希子がそこをなぞる。ひりついた痛みを覚えた茅乃はわずかに身じろぎ、一度は外れた手のひらを再び自分の腹部に添えた。


 宿っているかどうかも分からない命を、確実に、初めからなかったことにする。


 病院に行く、と蓮に伝えた時点ですでに理解していたはずのそれは、今このときになって茅乃を追い詰め、喰い荒らす。

 麻痺に近い状態に陥った精神状態に囚われたきり、茅乃の心はどこにも向かえない。ただ、亜希子の腕に縋りつくしかできない。


 嗚咽はもう抑えられなかった。

 唸るような声でひたすら涙を零し続ける茅乃の背中を、亜希子は優しく撫でる。


「思いさえあればなんとかなるって思っても、そうじゃないこと、いっぱいあるのよ」


 すぐ傍から鼓膜を揺らした亜希子の声には、怒りはもう宿っていない。


『好きっていう気持ちだけじゃどうにもならないことばっかりなのに』


 偶然にも、彼女の言葉はいつか美和が零した呟きとよく似ていた。

 遠くを見る目でそれを口にした美和の顔が脳裏に浮かび、茅乃の口端から零れ落ちる嗚咽の音量は次第に大きくなっていく。


 自分こそが子供なのだと思い知る。

 駄々をこねる子供と、自分はなにも変わらない。


 蓮のためを思って、蓮の未来を壊したくなくて、だから切り出した。

 嘘をついた。傷つけた。壊した。全部、自分が選んだ。だから蓮は自分に背を向けた。二度と茅乃の視界に入らない場所へ行ってしまった。


 分かっていたことで、全部が自業自得で、それでも嗚咽は止まらない。

 茅乃の心を麻痺させていた麻酔は、もう醒めてしまった。


「……病院、行こう? ついてってあげるから」


 そっと囁く亜希子の声は、その日聞いた彼女のどの声よりも優しかった。

 まるで幼い子供のように、茅乃はこくりと首を縦に振って応えた。

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