《7》麻酔によく似た

 薄暗い中、静かに目を開く。

 早朝らしかった。靄のかかった記憶が、徐々に輪郭を取り戻していく。


 記憶の糸を辿る頭がある場面に差しかかったところで、茅乃は自分の胴に巻きつくなにかに気づいた。

 しなやかで逞しい腕――その正体に思い至った彼女は、無意識のうちに額を押さえた。あやふやな記憶が、自分の身体を緩く締めつけている感触とぴたり重なる。


 身体を起こせば、それだけで隣の彼は目を覚ましてしまう気がした。

 きつく目を瞑る。

 望んでいたこと。恐れていたこと。どちらともつかない昨晩の生々しい記憶が、ぐらぐらと茅乃の頭を揺さぶる。


 震える息を吐き出したのがいけなかった。

 再び横へ向けた茅乃の視線が、同じ枕に頭を沈める蓮のそれとかち合った。


 反射的に肩を震わせた茅乃を眺め、逃げられると考えたのか、蓮は昨晩のように茅乃の真上に身体を動かした。

 押さえ込まれ、冷めた眼差しで射抜かれる。ああ、昨日も同じ目を向けられたな、と茅乃はぼんやりと反芻する。


「……どこ行くの」


 かけられた声はいつになく低かった。

 喉が鳴り、それでも伝えないわけにはいくまいと思う。ひと呼吸ついてから、茅乃は静かに口を開く。


「お風呂。あと病院にも行くよ。これじゃ妊娠しちゃう」

「そうさせるつもりだったんだけど嫌?」

「……嫌、とかじゃなくて」


 よほど参った顔を晒してしまっていたのだろう。加えて、顔を隠すために動かした彼女の腕が、蓮の目には涙をごまかしているように映ったのかもしれない。

 無言のまま、蓮は茅乃をきつく抱き締めた。真上からの抱擁にもかかわらず、重みは感じられない。そんなことには配慮が及ぶ癖に、つくづくアンバランスな子だと茅乃は内心で苦笑する。

 首の横に動いた蓮の頭を、茅乃は泣く子供を慰めるようにぽんぽんと撫でた。蓮が嫌がると分かっていて、あえてそうした。


 ……これ以上は無理だ。

 視線が絡まない抱擁に包まれながら、茅乃はついに観念する。


「蓮くん。今日でもう、終わりにしよう」


 髪の間に差し込まれた長い指が、音がするほど露骨に震えた。


 口にしてしまえばこんなものだ。

 麻痺した神経にさらに麻酔をかけたとして、感覚的にはなんの変化もない。痺れは痺れ、無感覚は無感覚だ。


 確実に蝕まれている。身も心も、等しく冷えていく。

 その癖、どれだけ傷口を抉っても、抉られても、もうなにも分からない。


 麻酔に、あるいは遅効性の毒に、よく似ている。


「放して」

「かや姉」

「無理だよ。私と蓮くんじゃ、どうしたって釣り合わない。例えば今蓮くんとお付き合いして、それで? 蓮くんが大学を卒業して社会人になって、結婚とか家族とかそういうことを考える頃には、私とっくに三十過ぎてる」

「っ、それがなに? 別に俺はそんな……」


 わずかに怯んだ蓮の隙を、見逃すわけにはいかなかった。


 先刻までの拘束が嘘のように、茅乃の上体は簡単に起き上がる。

 冷えた空気に晒された肌がぶるりと震えた。それを和らげるため、そしてあられもない姿を隠すために、茅乃は毛布を強く引き寄せる。だが、身体に毛布を巻きつけても肌寒さは少しも緩和されず、辟易は募る一方だ。


 行き場を失った蓮の腕が、空を彷徨っている。

 感情的になるべきではない。少なくとも、冷静さを繕うことを諦めてはならない。それだけに神経を尖らせ、茅乃は続く言葉を口に乗せる。


「ちゃんと考えてみて。将来のこと、考えれば考えるほど、お互いいろいろ無理が出てくると思わない? それに私だって、『高校生と付き合ってるらしいよ』なんて噂にでもなったら仕事が仕事だけに致命的なんだよ。しかももうなりかけてる」


 蓮の顔が一気に曇る。

 頬を引きつらせて息を詰める彼を前に、茅乃こそが痛ましい気分になる。だが。


 あと、もうちょっと。

 今だけは迷ってはならない。絶対に。


「妹さんの話も聞いたよ、うちのママから。そんな大事なこと、どうして言ってくれなかったの?」

「……大事なことかな、それ」

「大事だと、私は思うんだけど」


 俯いたきり、蓮は茅乃と目を合わせようとしない。

 大事だと自分でも分かっているからなのか、それとも。


 思い知る。蓮はもう子供ではない。しかし、だからといって大人になりきれているわけでもない。

 子供でも大人でもない繊細な時期を藻掻きながら歩んでいる彼は、茅乃がわざとしかけた狡猾な言葉を覆したり打ち砕いたりできるほどのしたたかさなど、まだ身につけきれていない。

 自分は今、それを利用して、この人との別離を選ぼうとしている。


『好きっていう気持ちだけじゃどうにもならないことばっかりなのに』

『それさえあれば障害なんて全部どうにかできるんじゃないかーなんて思ったりして、簡単に周りが見えなくなって』


 いつかの美和の言葉が、茅乃の脳裏をぐるぐると回る。

 どうにもならないことばかり。それ自体は、大人だろうと子供だろうときっと関係なんてなくて、それでも。


「このままじゃふたり揃って駄目になるって、蓮くんも気づいてるんじゃない? それじゃ駄目なんだってことにも。……あのね、お母さん、すごく心配してるって。私にも連絡あったの、うちのママからだけど」

「……かや姉、俺は」

「ちゃんと話したほうがいいよ。蓮くんはまだ未成年なんだから……あっ!?」


 言葉の途中で、茅乃の視界がぐらついた。

 再びベッドに縫いつけられた彼女の上体は、今度こそ、どう足掻いたところで逃げようがないほどの力で押さえつけられている。


 茅乃が少しも恐怖を覚えなかったのは、拘束と同時に頬へ温かな雫が落ちてきたからだ。


 間を置かず、蓮は彼女の首筋に顔を埋めてしまった。

 茅乃の頬を濡らした雫は、ゆっくりと温度を下げていく。冷えきった彼女の頬に引きずられるように、ぬくもりを失っていく。


 寂しいと思う。

 温度を持つものがそれを失っていくのは、とても寂しいことだと。


 茅乃の目尻を伝った新しい涙も、すぐさま冷えてしまうのだ。

 シーツを濡らし、しみを作り、温度を失い、やがて乾く。最初からなにもなかったかのように、消えてなくなる。


「ごめんね。私が甘えすぎちゃった。だって蓮くん、怖い目に遭ってるとき、いっつも助けてくれて……格好良すぎるんだもん……」


 震える蓮の背中に、茅乃はそっと指を這わせる。

 抱き締めると、耳の傍で鼻を啜る音がした。背に置いていた右手を動かし、茅乃はそれを相手の顔へ伸ばしていく。

 指が頬まで辿り着いた頃、蓮がゆっくりと顔を上げた。真っ赤に潤んだ目は痛々しくも愛おしく、見ているだけで胸が張り裂けそうで、堪らず茅乃は自ら蓮の唇に自分のそれを寄せた。


 茅乃からキスをするのは、これが初めてだった。

 そして、ふたりが交わす最後のキスになるのだとも、思う。


「……今日で、最後にしよう?」


 わずかに開いた唇から零れた茅乃の声は、苛立ちに染まった激しいキスにあっけなく掻き消されてしまう。

 唇の先へ割り込んでくる舌先は、いつにも増して熱かった。泣きながら乱暴なキスを繰り返す蓮を、茅乃はただひたすら受け入れ続ける。


「かや姉、俺のこと、好きって言って」


 唇の隙間から、涙に震えた声が聞こえた。

 掠れきったそれが、声変わり前の蓮の声とふと重なる。


 ……今なら本音を言っても大丈夫だろうか。

 嘘だと、思ってもらえるだろうか。


 蓮の目には、昨晩までの不安定な狂気はもう宿っていない。

 虚ろでありながらもギラついた、虚無と凶暴性とが混ざり合った不安定な狂気、不安定な本性。それを知っているのは、蓮が晒している相手は、茅乃だけだ。


 だが、それでも茅乃は蓮の隣を歩けない。

 齢の問題だけではなく、また当然、外見が釣り合わないという引け目だけでもない。原因はもっと別のものだ。


 今のままのふたりでは、多分、駄目なのだ。

 自分も蓮も、共依存というあまりに居心地の好い居場所に、どっぷり浸かって甘えきってしまうだろう。自分は別にそれでいいと思いそうになるが、それでも茅乃は、蓮には絶対にそんな未来を選ばせたくなかった。


 誰より、大事な人だから。


 なにやってんだろ。

 馬鹿みたいだ。

 傷つけた。

 傷ついた。

 よく分からない。


 ぐるぐる、回る。

 痛くて、つらくて、ああ、さっさと、忘れてしまいたい。


 助けてもらった。

 格好良かった。

 もう一回キスして。

 抱き締めてよ。

 本当は、私、蓮くんのこと。


 ……違う。それでは駄目だ。

 ここでおしまいにしておかないと、きっと、私は。


「……好きだよ。蓮くんのこと、大好き」


 もう、蓮は茅乃の顔を見なかった。

 彼の手のひらが茅乃の両目を塞ぐ。昔よりずっと大きくなった彼の手は、熱い気もすれば、まるで氷みたいに冷たい気もした。


「かや姉は、……嘘つきだ……」


 震えた声が耳を揺らす。

 泣き顔を隠している。それも、知っている。


 私にそれを見せたくないから。

 私のそれを、見たくないから。

 だから隠す。塞ぐ。なにも言わずに。


 ――蓮くんは、そういう人だから。


 これ以上、なにも言ってほしくなかった。

 好きだとすら言ってほしくなかったから、茅乃は自分から口づけを深めた。

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