《6》ナイトの本性
自室へ急ぐと、ドアの前に膝を立てて座る人影が見えた。
ぎょっとしたが、それが蓮であると気づいた茅乃はほっと胸を撫で下ろす。しかし次の瞬間には、どうしてこんなところに、という困惑に頭が埋め尽くされてしまう。
まさか、ずっとここで待っていたのか。
歩きではなくタクシーで帰るからと、普段よりもずっと遅くなるからと、きちんと伝えたのに。
足音に気づいた蓮は、ちらりと茅乃を一瞥して微笑んだ。
頬と口端を無理やり動かしただけの、ぎこちない笑い方だった。
「あ……ずっとここにいたの!?」
「うん。ごめん、勝手に」
「っ、早く中に入ろう? 寒かったでしょう、連絡くれれば良かったのに!」
慌てて玄関の鍵を開けながら、改めて茅乃は思う。
様子がおかしい。玄関に足を踏み入れるや否やきつく抱き締められたせいで、その考えにはどんどん拍車がかかっていく。
息が止まるほどに強い力だ。背中から抱き竦められながら、茅乃の困惑は見る間に深まっていく。
「っ、あの……どうしたの、蓮くん」
「かや姉は俺みたいなガキって嫌い?」
抑揚のない声が耳に届いた途端、心の中を読まれているのかと本気で思った。
佐久間と交わした話を思い出した茅乃の背を、冷たいものが滑り落ちていく。
「……やっぱりそうなんだ。でも駄目だよ、そんなの」
「っ、蓮くん、違うよ? そんなことない。ねぇ、今日はどうし……」
「逃げようとしても無駄だから。かや姉は誰にもやらない」
性急だと思った。少し乱暴だとも。
だが、それ以上茅乃が口を開くことは結局叶わなかった。
*
気の抜けていた身体は、あっけなく彼の腕の中へ傾いだ。
いつも通り――否、いつもより格段に妄執めいたそれが始まる。仕事と慣れない宴席で疲れ果てていた茅乃はすぐさま陥落させられ、もはや蓮の思うがままだ。
抵抗する隙さえ与えてはもらえなかった。やめてと声をあげる前に唇を塞がれ、腕を払おうとするより前に両手を拘束される。
早々に眼鏡を奪い取られ、正常な視力を保てなくなった茅乃には碌な抵抗ができない。真上から圧しかかってくる蓮の目は冷たく、茅乃の呼吸は知らず上擦る。そんな彼女を嘲るように見下ろす蓮が、やがて薄く口を開いた。
「橘から聞いた。学校で」
「っ、なに、を」
「俺のことかわいそうとか思ってんだな、かや姉って」
ぐらりと視界が揺らめいた。
いつか橘に投げつけた言葉を、言いようのない苛立ちに乗せて放ったそれを、明確に思い出す。
『あんな格好いい子がいくつも年上の私みたいなのを、なんて』
『そんな噂が流れたら東條くんがかわいそうです』
……違う。
あれは、そういう意味では。
意図に反して切り取られた言葉が、明らかに誤解されて本人へ届いてしまっていることに、茅乃は深い眩暈を覚える。
カタカタと音がするほど口元が震え出す。これでは、とてもまともな言葉を紡げそうにない。
そのとき、不意に蓮が手を下ろした。
髪を梳かれた後、彼の指は茅乃の髪を飾るシュシュへ移る。今日くらいはおめかししてもいいかと思ってつけていった、誕生日プレゼントのシュシュだ。
「へぇ、今日はつけてくれたんだ。仕事のときは使わない癖に」
「……れ、蓮くん、なに言って」
「俺とのこと、そんなに周りにバレたくないか? は、そうだよな。こんなガキに懐かれてるなんて周りに知られたらヤベェもんな」
「っ、違う……!」
なにもかも誤解されている気がして、だがどこからそれを解けばいいのか分からない。
橘に伝えた言葉の本当の意味も、仕事のときにシュシュをつけない理由も、蓮には正しい形で伝わっていない。そのことが恐ろしくて仕方ないのに、丁寧に誤解を解く余裕など、今の茅乃には露ほどもなかった。
否定の言葉しか口にできない茅乃を、蓮は見るからに冷めた目で眺め、嘲笑っている。
こんな目をする蓮は、知らない。
自分の知らない、別人のような蓮――その衝撃は想像以上に茅乃の心を乱し、喰い荒らしていく。
それ以降口を閉ざした蓮は、もうためらわなかった。
身体に触れる指はいつもと同じ指なのに、触れ方はあからさまに雑だった。乱暴な所作で肌をなぞられ、涙交じりの悲鳴が茅乃の口をつく。
「なぁかや姉。おばさんから連絡、あったんでしょ」
「っ、な……」
「なんで俺のこと追い返さないの? そうできない理由でもあんの?」
「そ、それは……あっ!?」
首筋に息がかかり、返事は簡単に霧散する。狙ってそうしているのだと理解が及び、茅乃の目尻を涙が伝い落ちた。
朦朧としつつも、茅乃は真上の背中に腕を回す。そんな彼女の耳元で、それまでの行為がまるで嘘のように、蓮は恍惚とした声で囁いた。
「好きだよ、かや姉。小学生の頃からずっと好きだった」
仕種とは裏腹に、蕩けてしまいそうになるほどの甘さを含んだ告白が、茅乃の鼓膜をずぶりと犯す。
心のどこかで望んでいた言葉なのに、告げられて嬉しくないわけがないのに、ついに言われてしまったとも思う。
「本当は今すぐかや姉がほしい。全部俺のものにしたくて仕方ないけど、でもそれじゃ駄目なんだ。それだと、かや姉がちゃんと俺に依存してくれなくなるかもしれないから」
「……依、存……?」
「うん。でもそんな顔されたらもう我慢できない」
なにを我慢できないのか、彼は言葉にしなかった。
嘘だと言ってほしかった。だが、嗜虐の色を宿した視線に真正面から射抜かれてしまっては、抵抗などほとんどできそうにない。
「れ……蓮、くん、お願い、やめ……」
「なんで?」
「……待って。聞いて、お願い」
息が上擦る。
だが、どれほど息が乱れていても、みっともない声しか出せそうになくても、伝えないわけにはいかない。
「私、……私、蓮くんに甘えすぎてた。ごめん、だから、もうこういうことは」
気が動転したきり、茅乃は必死に口を開く。
自分でさえうまく聞き取れないほど掠れきった声が出た。それを聞いた蓮が、どうしてかにっこりと微笑んでいる。そのさまだけは、そこだけ切り取ったかのようにはっきりと見て取れた。
「それのなにが駄目なの? それでいいんだ」
わずかにも動揺を滲ませない蓮の声に、茅乃の息が止まる。
眼鏡で隔てられていない彼の両目には、ギラついては揺らめく、陽炎のような不安定な狂気が浮かんでいた。
それが直に茅乃を焼き尽くそうとしている。
声は、もう出せそうになかった。
「俺はかや姉じゃないと駄目なんだ。だから、かや姉にももっと俺に依存してほしい。そのためなら何度だって助けるし、怪我しようがなにしようが絶対に守る」
視界が歪み、蓮の輪郭が形を成さなくなる。
過ぎた執着の気配を感じ取って背筋を凍らせた茅乃の頬を、新しい涙が伝い落ちていく。
……別に、それでいいじゃないか。
ふと浮かんだ考えが、茅乃の心をますます追い詰める。
前にも同じことを思った。自分たちの関係についての真実は、自分たちだけが知っていればいい。他人には一切関係ない。それに、執着であれ依存であれ、そんなものの正体など他人の目にはそもそも映らない。
……違う。違う違う、違う。
そうやって自分を納得させようとする自分が許せない。大人の癖に。社会人の癖に。
この堕落した思考に、蓮を付き合わせたくなかった。
彼は受け入れてしまうだろう。喜んで茅乃と堕ちてしまうに違いなかった。
――それだけはさせたくないと、確かに思っているのに。
蓮が自分に触れる理由を、茅乃はようやく思い知っていた。
蓮はこの行為を通じ、茅乃が自分に頼りきりになることを、より深く依存することを期待していたのだ。
十代の男の子とは思えないほど自身の快楽を追求しない蓮を、いつか訝しく感じた。いや、今も感じ続けている。その理由は、きっと。
自分の快楽より、茅乃からの依存を優先させているからだ。
そうしてしまえるくらいに、彼は茅乃に固執して――依存している。
*
声が勝手に喉を滑る。
艶の宿る自分の声が憎らしくて堪らない。己の手の甲へ噛みつき、茅乃は必死に喘ぎを堪える。
鋭い痛みが走った後、鉄の味が微かに口の中を泳ぎ、血が出たのだと悟る。そんな彼女の行動を咎めるように、蓮は血が滲んだ茅乃の手を取り、ぺろりとそこを舐め取った。
「なんでそんなことすんの。血が出てる」
「ッ、あ、だって……っ」
「声、ちゃんと聞かせてくれ。本当は嬉しい癖に」
声も表情も、どこか恍惚としている。
自分だけが乱されている。悔しくて悲しくて、茅乃の瞼から大粒の涙が溢れた。目尻を滑り落ちた雫に、もったいないと言わんばかりに舌を這わされ、茅乃の腰は意図に反してふるりと震えた。
満足そうに笑んだ蓮は、今続けている行為とは懸け離れているとしか思えない穏やかな声で話し始めた。
「かや姉、あのとき俺の心配だけしてくれただろ? うちの親じゃなくて、警察でもなくて、俺だけ見てくれてた」
「……あ……」
「家に帰すのもためらってた。腹減ったっつったら食べ物分けてくれた。あのときから、俺にはかや姉しか見えてない。最初は弟扱いでもなんでも良かった、けど弟じゃ駄目なんだって気づいた。弟だと、かや姉といつまでも一緒にはいられない」
真上に覗く目の色が、ゆらりと翳る。
ほの暗さを宿した蓮の視線は、彼の真下に捕らえられた茅乃を確かに見下ろしているはずなのに、それでいて茅乃など少しも見ていないように見えた。
「……っ、蓮、くん」
「だから最初の変態にはむしろ感謝してるくらい。かや姉のこと、ああやって助けて守って、キスする口実までできた。あのときから……いや、あれより前からずっと、俺はかや姉をそういう目で見てた」
「……あ」
「好きだよ、かや姉。拒むならさっさと拒めば良かったんだ。けどかや姉はタイミング、逃しすぎた。小学校の卒業式のときも、再会したときも、コンビニの裏でまた変なのに襲われたときも。これじゃもう逃がしてなんてやれない」
言葉の最後に被せ、噛みつくような口づけを落とされる。
堪らず、茅乃は蓮の胸板を押し返した。思わず口をついた「やめて」という言葉が気に入らなかったらしく、蓮はつまらなさそうに目を細めながら、お仕置きだとばかりに拘束を強めた。
雑な素振りで両腕をまとめられ、茅乃の喉が掠れた音を立てる。
「っ、お願い、やめて……ッ」
「もう諦めろ。俺なしじゃ生きてけないくらい俺に依存してくれ、早く」
――俺が、かや姉に依存してるみたいに。
愉悦に染まりきった蓮の両目が、身体ごと茅乃の脳髄を刺し抜いた。
*
『かや姉のこと、今から犯すよ』
愛の言葉でも囁いているかのような甘い声と、愛おしげに茅乃を射抜く双眸が、彼女の心身からあらゆる感覚を奪い取っていく。
マフラーを外した蓮は、それで茅乃の目元を覆った。視界を奪われたためか、それ以外の感覚が無駄に過敏になっていく。
見慣れた蓮のマフラーは、なぜか以前触れたときよりもやわらかく感じられ、茅乃の瞼から新しい涙が零れる。碌に水分を吸わない素材のせいで目元が濡れて不快だと、そんな的外れなことを、茅乃はぼんやりと思う。
――幸せ、かもしれない。
抵抗する力の大半を失った後、そう思い至った瞬間、彼女は強い眩暈に襲われた。
……狂っている。この行為に幸福感を覚えること自体が異常だ、それなのに。
茅乃が頑なに守り続けてきた防波堤を、蓮はこれほどあっけなく壊せる。
この行為を愛ゆえのものだと思えずにいたのに、蓮が相手なら簡単に絆されてしまう。たとえそれが、茅乃を傷つけるための一方的な行為だとしても。
愛されている。圧倒的な快楽と多幸感が、頭のてっぺんからつま先まで――神経の一本一本に至るまで、茅乃のすべてを痺れさせていく。
溢れる自分の声を、もう聞きたくないと思った。蓮に聞かせたくないとも。
この行為を受け入れていることを、喜びすら覚えてしまっていることを、蓮にだけはどうしても知られたくなかった。
子供じみたプライドを守るため、茅乃は再び自分の手の甲に噛みついて声を堪える。蓮は首を横に振りながら、噛み痕のついた彼女の手を絡め取った。
血が出るほど強く噛んだそこを愛おしそうに舐め取り、それから少し困った顔をして、蓮は茅乃の唇に恭しくキスを落とした。
強引な拘束と、優しいキス。
アンバランスな蓮の愛情表現は、茅乃を極限まで掻き乱す。掻き乱して引っ掻き回して、身体ごと、心の中身をも塗り潰していく。
不意に、大声をあげて泣きたくなった。
だが、痺れるような愉悦を植えつけられた頭は、それさえ茅乃に許してくれない。
最後まで、彼はひと言も口を利かなかった。
ずれたマフラーの隙間から、わずかに光が入り込む。薄く開いた茅乃の目が、自分の右手を捉えた。鬱血して色が変わった手の甲がぼんやりと覗き見えたが、痛みはすでにあまり感じなかった。
やがてすべてが終わり、触れ合っていた肌が離れていく。
途端に、体温がひと息に下がったような錯覚に襲われる。
……終わってしまった。
愛される時間は、愛し合う時間は、これでもう、終わり。
冷えたシーツの上、茅乃に残ったものは、底の知れない喪失感だけだった。
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