《5》横槍男
悶々と日々を過ごしているうち、あっという間に新年会当日になった。
残務に追い回され、茅乃は定刻に遅れてしまった。同じく、授業の片づけやらなにやらで職員室に残っていた佐久間と一緒に店へ向かい、そしてごく自然な流れで佐久間の隣に座り――現在に至る。
ふたりが到着した時点で、貸切の大部屋はすでにガヤガヤと騒がしくなっていた。
元々、茅乃はこういう席が得意ではない。控えめにウーロン茶を啜りながら、話を振られれば適当に相槌を打ち、時間の経過を待っていた。
すぐに席を移動するだろうと高を括っていたのに、佐久間はなかなか腰を上げなかった。
遠目に美和の姿を捉えていたが、彼女は同じ大学のアルバイト講師たちと話し込んでいる様子だ。席を立つタイミングを逃した茅乃は、結局そのまま佐久間の隣に座り続ける羽目になった。
何度か声をかけられ、話を振られる。
そうこうしているうち、すっかり佐久間のペースで話を進められていた。
断る理由も特になく、また、今そうすれば確実に不自然さが残る。
なにがしかのボロが出てしまわないよう注意を払いつつ、茅乃は踏み込みすぎない程度に話を聞いては相槌を打っていた。
「恩田先生のことじーっと見てる奴、結構いるんだよ。俺としては勉強に集中してほしいんだけど……」
「えっ。なんですかそれ、初耳なんですが」
「うーん、多分眼鏡のせいかな。たまに外して目の辺り揉んでるでしょ、恩田先生」
……そんなところまで見られているのか。
周囲への無頓着が過ぎたようだ。しかも佐久間ばかりでなく生徒たちにまでとなると、今後はもう少し周囲に気を配らねばならないと、茅乃は内心で肝を冷やす。
「ギャップ萌えとかなんとか、昨日も何人か騒いでたよ。でも確かに恩田先生は眼鏡外すと雰囲気変わるよね」
「いえ、そんなことは……」
「コンタクトにはしないの? 眼鏡ばっかりじゃ、なんかもったいない気もするけど」
久しぶりにかけられたその手の言葉を前に、茅乃はつい苦笑を浮かべた。この人も大学時代の友人たちと同じことを言うのか、と思ったからだ。
もう少し外見に気を配ってはどうか、もったいないのではないか。相手は良かれと思って口にしているのだろうから、ムキになって言い返す気にはなれない。だが、言われるたびに息苦しさを覚えてしまう。
蓮はそういうことを言わない。
擽ったい気分になる。蓮は、やはり自分にとって特別な存在だ。
甘く解けかけていた心はしかし、続く佐久間の言葉にあっさり粉砕された。
「けどさすがになぁ、中学生や高校生相手にっていうのはね。しかも勤め先の生徒となんて、絶対考えられないよな」
「……そうですね」
茅乃の胸がぎりぎりと痛む。
佐久間の言い分は当然だ。蓮も教室の生徒たちも、ほぼ同じ年齢の子たち。自分はそんな男の子と、あれほど淫らなことを繰り返している。
視界がぐらりと傾ぐ。
慌てて目の前のウーロン茶を煽り、茅乃は走った動揺をごまかした。
『絶対考えられないよな』
いい加減、目を背けてばかりではいられない。
茅乃と蓮が抱える事情などなにも知らないはずの佐久間に、現実を突きつけられた気分だった。
結局、美和とはひと言も交わす暇がなかった。
やがて宴会はお開きになり、まだ喧騒が冷めやまないうち、茅乃は店を出た。
酒は飲んでいなかったが、帰りはタクシーを使うように蓮に言われている。
ランチのときに美和へ伝えた通り、料金がもったいないからと渋ったが、きつく睨まれたせいで黙るしかなかった。それに、蓮は怒っているのではなく自分を心配してくれている、それくらいは分かっているつもりだ。
冷えきった夜風に当たりつつ、茅乃は帰りのタクシーを待つ。
その間も、なぜか佐久間は彼女の隣を離れようとしなかった。
「ええと。風邪ひきますよ、中で待ってたらどうですか」
「それは恩田さんも一緒でしょ」
控えめに促したものの一蹴され、茅乃はつい返事に詰まってしまう。〝恩田先生〟から〝恩田さん〟に呼び方が変わっていることに気づき、警戒心も強まっていく。
だが、だからといって機転を利かせて距離を置けるわけでもない。結局、タクシーが到着するまで、茅乃は佐久間と過ごす羽目になった。
「さっきはあんな言い方しちゃったけど、恩田さんってもしかしてあの男の子と付き合ってるの?」
……またその話題か、と茅乃は心底辟易する。
顔が歪んだ自覚はあった。だからこそ、佐久間の顔は見られなかった。
蓮を茅乃の弟だと思っている同僚もまだいるようだが、いい加減、ごまかしも限界に近い。それに、ごまかしているほうがよほど怪しい気もする。現に、佐久間にはこうやって実情を見破られかけている。
無害そうな顔で、飄々と当たり障りのない話をして、相手の油断を引き出してから本題に入る。佐久間はそういう節がある人だから気をつけなければと常々思っていたはずなのに、このざまだ。
苛々する。そのせいで呼吸が止まってしまいそうなほど。
馬鹿げたことを考えながらも、茅乃はなんとか返事を口に乗せる。
「……なんの話ですか」
「帰り、いつも迎えにきてくれてる子。本当は弟じゃないんでしょ?」
「……ええ。けど付き合ってるとかじゃないですから。実家の近所の子なんです」
「へぇ、そうなんだ」
唐突かつ直球の問いかけを前に、茅乃は動揺を晒さないようにするだけで精一杯だ。
バレたらどうすればいい。蓮まで軽蔑されてしまうのではないか……それは嫌だ。蓮が他人にそんなふうに思われるのは、自分が軽蔑されるよりも遥かにつらい。
「ええと。もし付き合ってる人がいないんだったら、俺なんてどうかなって」
「……は?」
「本気で考えてほしいなって思ってるよ。どう?」
それが告白だと理解するまで、無駄に間が空いてしまった。
突然の展開に、茅乃の頬が派手に引きつる。だがそれだけだ。ドキドキもしないし、ときめきも感じない。
笑ってしまいそうになった。
やはり自分はこういう人間なのだ。恋愛小説を読んではしゃいでいた頃もあった癖に、今ではこんなにも冷めた目でしか恋愛というものを見られなくなっている。
……いや、違う。
蓮でなければ駄目なのだ。一緒に過ごしていて、茅乃が一切の不審感を感じずに済む男性は蓮だけだ。
あの子だけが、私の特別。
それを自覚した瞬間、想像よりもずっとスムーズに、断るための口上が茅乃の口をついて出た。
「すみません。私、男性が苦手で……佐久間先生の気持ちには応えられません」
「え? あの子とは仲良さそうにしてるのに?」
「あの子は特別なんです。弟みたいなものですから」
弟みたいなもの。自分で言っておいて、胸が抉れる。
普通、弟とはキスしない。弟とは、あんな淫らなことなんか、しない。
じゃあ蓮くんって、私のなに?
蓮くんにとって、私はなに?
「そう。でもあの子が彼氏じゃないんだったら、遠慮はしないよ?」
「あの、失礼ですけど……迷惑です。やめてください」
「……恩田さん」
呆然と目を見開いた佐久間を、これ以上見ていたくはなかった。
ちょうど到着したタクシーに足早に乗り込み、車内から軽く会釈をし、茅乃は強制的に佐久間とのやり取りを切り上げる。
その場にひとり残される形となった佐久間に対し、申し訳なく思わないでもなかったが、結局は罪悪感よりも逃げきったことへの安堵が勝った。
こんな地味な女に袖にされるなんて、思ってもみなかっただろうか。
次に佐久間と顔を合わせるのが億劫で仕方なかった。職場の同僚だから、どうしたって避けられない。
そういうことにも気を回せない――否、断られるという選択肢を考えてすらいない。自分勝手な男だと思う。その言動を不愉快だとも。
タクシーを降り、苛立ちを滲ませて歩く茅乃の足音は無駄に高い。
耳障りなその音こそが、彼女の神経を他のなにより燻らせていた。
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