《4》盲目
一月も下旬に差しかかっていた。
今週末には、少し遅めの新年会が予定されている。他の教室のスタッフも交えて行われる塾全体の新年会とは異なり、茅乃のような契約枠の人間やアルバイト講師でも気軽に参加できる、教室内だけのライトな飲み会だ。
人の多く集まる場所が苦手な茅乃は、あれこれ理由をつけて不参加を決め込もうと考えていたものの、今回は美和も参加するという。熱心に誘われ、それならばと参加することにした。
勤務時間外に〝美和ちゃん〟と呼ぶ程度には、茅乃は彼女と親しくなっていた。
職場の人間関係に無頓着な茅乃だが、例の変質者によるトラブル以降、美和はなにかと茅乃を気に懸けてくれている。一見硬そうな外見から考えると意外なほど、彼女は情に厚いタイプらしい。
午後からの勤務となる今日、茅乃は美和とランチに出かける約束をしていた。
美和は齢よりも落ち着いて見えるが、浮いた話には事欠かないようだ。現在は
美和には今恋人がいないそうだが、橘相手にそういう気持ちにはなれないみたいだ。
「色恋にうつつを抜かしてる暇があるなら参考書でも開いてろって思いますよね、無駄に色気づいちゃってさぁ……」
口を尖らせる美和を眺め、茅乃は密かに橘を不憫に思う。
とはいっても、美和も毛嫌いしているわけではないようで、その点は救いなのだろうか。どのみち、報われない恋には変わりなさそうだが。
デザートのチーズケーキを頬張り、ふたりで他愛もない話を続ける。
女同士でのひとときは楽しい。学生時代にはいつも亜希子とこんなふうに過ごしていたが、最近はめっきりご無沙汰だったな、と茅乃は振り返る。
地元に帰ってきてから、こちらの友人とはなかなか予定が合わず、疎遠になってしまった子も多い。そんな事情も手伝って、美和とのやり取りは茅乃にとって純粋に楽しい。
蓮は弟ではないと、美和にはすでに伝えてある。
先日、周囲に誰もいないタイミングを見計らって尋ねられた。美和なら大丈夫かと正直に伝えると、彼女は『確かに似てないですもんね』と納得した様子だった。
どういう関係かを説明するのも、付き合っているのかと訊かれて否定するのも、どちらも大変だから、他のスタッフや生徒には黙っていてくれると助かる――茅乃のそんな無茶なお願いにも、美和は快く頷いてくれた。
「そういえば、新年会って今週末ですね。彼、そのときも迎えにくるんですか? 最近は水曜以外にも来てる日が増えてますよね」
「あ、ううん。遅くなるだろうし、タクシーで帰るつもり」
「あーそっか……遅い時間にそういうの、高校生だとマズいですもんね」
「うん。あの子、昔から心配症なんだよ。本当は歩いて帰りたいんだけど、タクシー使えって言って聞かなくて」
「いやいや、そこはタクシー使いましょうよ、危ないから! 私だってそう思うから!」
しっとりとしたベイクドチーズケーキは、母の手作りのものとよく似ていて、茅乃は懐かしい気持ちになる。
同時に、ぶつぶつ文句を零しつつフォークを動かす小学生の頃の蓮を思い出し、胸がずきりと疼く。タクシーの件について盛大に突っ込んできた美和と一緒になって笑うことで、茅乃は複雑に揺れる内心をごまかした。
ひとしきり笑い合った後、美和がふと表情を引き締めた。
緊張気味に開いた口元から紡がれる質問に、フォークを動かしていた茅乃の手がひたりと止まる。
「茅乃さんは、彼のことはなんとも思ってないの?」
……直球の質問をされたのは初めてだった。
職場で軽々しくこの手の質問をしない、そのくらいには美和は思慮深い子だ。そのことに感謝しつつも、正面からの彼女の視線をやんわりと避け、茅乃は言葉を選びながら口を開く。
「……うん。釣り合わないもん、どう考えても。仕事もこういう業界だし、ちょっと考えられないよ」
はは、と笑ってみたが、降りた沈黙の気まずさは変わらない。
美和は思慮深い上に口も硬い。だが、この話題は誰が相手であろうと、今の茅乃にとって負担でしかなかった。
なにか言いたげに口を開きかけた美和は、結局黙った。
たっぷり十秒が経過した頃、コーヒーカップに指をかけた彼女がぽそりと呟く。
「もしかして彼、本気なのかなって。なんとなく思っただけですけど」
優しい声だ。美和は、本当に優しい。
自分が大学生の頃、誰かになにかを相談されたとき、自分はどんな声で応じていただろう。今の美和ほど親身になれていただろうか。湧いた苦笑に、茅乃の口元が緩む。
「高校生くらいの頃の恋って、なんていうか、盲目になっちゃいやすいですよね」
「……うん」
「好きっていう気持ちだけじゃどうにもならないことばっかりなのに、それさえあれば障害なんて全部どうにかできるんじゃないかーなんて思ったりして、簡単に周りが見えなくなって」
チーズケーキの最後のひと口を、茅乃はゆっくりと口に運ぶ。
甘さ控えめで好みだと思っていたそれが、ひどく味気なく感じられた。もったいないな、と的外れなことをぼんやり考える。
「……ってなんか変な話になっちゃいましたね、えへへ。自分もそういう経験アリだからかなぁ」
「え、なに? 美和ちゃんの高校時代ってそんな感じだったの? ちょっと意外」
「そんなことないですよ~、まぁ撃沈続きでしたけどね! 碌な男がいなかった!」
「なにそれ、詳細すごく気になるけど訊いていいのかめちゃくちゃためらう……」
笑う美和と他愛もない話を続けつつ、話題が逸れたことに心底安堵する。
カップの底にわずかに残っていたコーヒーを、茅乃はひと息に喉の奥へ流し込んだ。
*
「恩田せんせーい」
突如、背後から声がかかった。
振り返ると、そこには橘がいた。美和にお熱だという例の高校生だ。
……珍しい。橘の担当に当たる機会は小野寺以上に少なく、個人的に声をかけられることも過去にはなかった。
なんとなく、嫌な予感がした。
橘は楯一高の生徒であり、小野寺と仲が良い。茅乃の胸が緊張に軋む。
「あのー、あんまりデカい声で訊いちゃ駄目かなっても思うんスけど」
「……なんでしょうか」
「えっと、こないだ小野寺から聞いたんスよ。恩田先生と東條の話」
眩暈がした。
思わず足がもつれそうになったところを、茅乃は必死に堪える。
橘の態度には、月初めに小野寺が見せたような神妙な雰囲気は一切ない。むしろ軽い印象を受けた。橘は小野寺と違い、あの現場を実際に目にしたわけではないからかもしれない。
深刻そうに尋ねられても不快には違いなかっただろうが、これはこれで精神的に参る。まるで普段の小野寺をふたり、一度に相手している気分だ。
だが、今ここで話をうやむやにでもしようものなら、ますます根も葉もない噂を広げられてしまう気がした。
それは困る。
もはや、茅乃はそのことに恐怖すら覚え始めていた。
蓮との関係を否定するたび、茅乃のやわな心は簡単に折れそうになる。
本当は否定したくない。しかし、否定しなければ職を失うかもしれない。社会人としての信用も、これまで積み上げてきた周囲との信頼関係も、仕事に対するやりがいも目標も、なにもかもを一瞬で失ってしまう。
面白半分の噂なんかに、あっけなく潰されてしまう。
「……小野寺くんにも伝えたんですが、東條くんと私は幼馴染なんです。あの子が小学生の頃から顔見知りなんですよ」
「へぇー。幼馴染……」
「残念ですけど、橘くんたちが想像してるようなことはなにもないです。だいたいおかしいでしょう、あんな格好いい子がいくつも年上の私みたいなのを、なんて。そんな噂が流れたら東條くんがかわいそうです」
苛々したら、無駄に饒舌になった。
抑揚のない己の声が、まるで別人のものに聞こえる。日頃さして接触のない茅乃の、ひどく冷めて見えるだろう態度に、橘があからさまに狼狽えた。
「え、いや、そんなことは……えと、その」
「話がそれだけならもういいですか」
駄目だ。余裕、全然ない。
苛立ちがそのまま声に乗ったような口調になったことを、茅乃が深く後悔しかけたそのとき。
「なにしてるの橘くん? お母さん、もう迎えにきてるよ?」
背後から声がかかった。
美和だった。反射的に視線を向けた先で、確かに美和と目が合う。
たったそれだけだったが、茅乃は美和が、自分と橘の話の内容を察していると直感していた。吐き出す息が震えないよう神経を割いていると、橘が我に返った様子で口を開く。
「あ、はい。えと、あの、恩田先生、いきなりすみませんでした……」
「……いいえ」
すぐさま、この場を離れてしまいたい衝動に駆られた。
さようなら、と橘に声をかけるだけで精一杯。そんな茅乃を、美和は無言のままじっと見つめていた。
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