《3》本質の片鱗

 電話は母からだった。

 靴を脱ぐよりも前に、茅乃は慌てて通話に応じる。


『茅乃。アンタ、こっちに戻ってきてから蓮くんに会ったことってある?』


 ためらいがちな問いかけが耳に入った途端、茅乃の心臓が派手に軋んだ。

 母にはなにもかもが筒抜けなのでは――そんな気にさせられた。男の薄い唇と自分のそれが重なり合う艶めいた感触が、無駄に生々しく蘇る。


 今この場に蓮がいないことだけが救いだと、意識が遠のきかけた頭で茅乃は思う。


 返す言葉が見つからない中、平静を保たねばと、茅乃は無理に声を絞り出した。

 なにかあったのかと問うだけで精一杯だったが、茅乃の母は娘の焦燥には気づかなかったらしい。わずかに間を置いた後、彼女は溜息交じりに喋り始めた。


 高校に進学してから、帰宅の遅い日が増えたこと。

 今年に入ってからは、その頻度が上がっていること。

 今では無断で外泊までするようになったこと。


 蓮くんのお母さんから聞いただけなんだけど、と物憂げに話す母親の声が、ゆっくりと茅乃の鼓膜に刺さる。

 乱れた呼吸が電話越しに伝わってしまわないようにと、茅乃はひたすら神経を割き続け、そして。


『蓮くんが変わっちゃったのは、妹さんが生まれてからみたいなのよ』


 くらりと眩暈がした。

 壁にもたれかかり、ひどい酩酊感に今にも倒れそうな身体を、茅乃はなんとか支える。


 妹って、なに。

 そんな話は聞いていない。

 お母さんが再婚したことしか、自分は知らない。


 どうしてそんな大事な件を教えてくれないのかと、一瞬憤りに近い感情に震えた茅乃は、しかしすぐに思い至ってしまう。


 ……自分だ。

 自分がそれ以上蓮に尋ねなかった。いつか向こうから話してくれるときが来るまで待とうと思って、それで。


『こんなこと言われても困るだろうけど、蓮くんについて、アンタなんか知らない?』

「……ママ」

『蓮くんのお母さん、茅乃ちゃんならもしかしたらなにか知ってるかもって。昔はいっつも一緒だったもんねぇ、アンタたち』


 母親同士の会話に自分の名が登場したことを、茅乃はわずかに訝しく思った。

 とはいえ、自分は過去にあれだけ蓮に懐かれていたのだ。それに、それよりも前には。


『うちの親、あんまりそういうの気にしない人たちだから』

『かや姉には絶対迷惑かけない』


 迷惑、とかじゃないの。

 私はただ、蓮くんが心配なんだよ。


 ずっとそう思っていた。だが、本人に直接そう伝えたことはなかった。

 伝えたらそれだけで、蓮が簡単に壊れてしまいそうな気がしていたからだ。


 溝はきっと、少しずつ少しずつ、時間をかけて広がっていったのだろう。

 離婚後は仕事に追われ、再婚後は新しい夫との間に授かった子供の世話に追われ……いつだって忙しく頑張っていた蓮の母親は、息子との間に静かに広がっていく溝を、知らず見逃してしまったのかもしれない。


「……会ってるよ」


 いろいろ割愛せざるを得ず、茅乃は小さくそれだけを伝える。

 母が微かに息を呑んだ。まさかと思ったのか、あるいは。


『……そうなの?』

「うん。いろいろ、私のせいなのかも……しれない」


 声が電話越しにわんわん反響して聞こえ、茅乃は無意識に額を押さえる。

 すると母はふっとひと息ついた後、茅乃を元気づけるように明るい声をあげた。


『アンタのせいじゃないわよ、気にしないの。一緒のときってどんな様子なの?』

「え……と。学校にはちゃんと行ってると思う。宿題とか予習とか、うちにいるときも結構してるから」

『そう』


 核心は突かれなかった。

 会ってなにをしているのか、たまに泊まっている先もお前のアパートなのか。その手の質問はされなかった。


 ただ、母の声には憂いと疲れが滲んでいた。

 なにを憂いているのかまでは考えたくない。適当に理由をこじつけて電話を切ってしまおうか――茅乃がそう思ったとき、ふふ、と笑った母が再び口を開いた。


『蓮くん、お母さんが離婚してからちょっと大変だったもんねぇ』

「……うん」

『あの子、小学生のとき、突然行方不明になって捜索願を出されたことがあったでしょ? アンタがうちに連れて帰ってきたときは本当にびっくりしたわ』


 古い記憶が茅乃の脳裏に蘇る。

 年季の滲み始めたランドセルを背負う華奢な背中。途方に暮れた顔。十歳にもなっていなかった小さな蓮の、当時の姿が。


『腹減った』


 細い声で呟かれたそれが、蓮と茅乃が初めて交わした言葉だ。

 買い食いしていたパンと菓子を分け与え、茅乃はおずおずと『おうちに帰る?』と声をかけた。


 蓮は泣かなかった。泣き腫らした目をしているわけでもなかった。

 ただ困っていた。自分の家なのに本当に帰っていいのか、本当にそこが自分の帰っていい場所なのか、迷って困り果てている――あの日の蓮は、茅乃の目にそう映った。


 捜索願が出ているとは知っていた。だが、高校に入ったばかりだった当時の茅乃は、この子の家がどこか知っている癖に他人行儀な態度で警察に連絡などして良いものか迷った。

 また、蓮自身が帰ることをためらっているのに、まっすぐ帰してしまっていいのかも分からなかった。蓮の母親の顔が頭に浮かび、心配しているだろうなと思い、それでもどうすべきか迷いは抜けなかった。


 迷った末、茅乃は蓮を連れて自分の家に向かった。

 自分の母親なら、どうしたらいいのかきちんと判断してくれるかもしれないと思ったからだ。


 結局、茅乃の母は速やかに警察へ連絡した。

 それが正しい対応なのだと、大人はそういう対応を取るべきなのだと――忙しなく受話器を手に取る母親の姿を、蓮の小さな手を握り締めたまま、茅乃はぼうっと眺めていた。


『蓮くんのお母さん、ちゃんと覚えてるみたいでね……まぁ当たり前かもね。でも話の最後に泣き出しちゃって。あれから何年も経ってるから、あんまり茅乃に期待しないでねっては伝えたんだけど』


 ……そうだ。そして、蓮は茅乃にだけ心を開くようになった。

 口の悪さも意地悪も、たまに覗かせる優しさも、すべて茅乃の前でだけ晒すようになったのだ。


 茅乃自身、最初はもちろん面食らった。

 だが、蓮が見つかったときの自分の行動が正しかったのかどうかまだもやもやしていた彼女は、自分に心を許す蓮を拒めなかったし、拒みたくもなかった。自分の前でくらい、どうかありのまま過ごしてほしいと思った。


 それ以外の時間、蓮がどんな顔をしていたのか。

 それも茅乃は知っている。茅乃と〝ふたりきり〟でなければ、蓮は本性を一切晒さなかったからだ。

 他人が誰かひとりでも交ざり込もうものなら、蓮はすぐさま態度を豹変させた。その相手が茅乃の母でも、彼自身の母親であっても。


 薄気味悪さすら感じるほどだった。

 人を小馬鹿にした笑いは穏やかな微笑みに、粗暴な言葉遣いは敬語交じりの丁寧な調子に。茅乃の傍で、蓮は何度も何度も仮面を被っては外した。当時十歳にもなっていなかった子供が。


『かや姉と一緒がいい』


 今はどうだろう。蓮にとって、自分はなんなんだろう。

 このところ延々と頭を巡っていた疑問と、もはや病的と言っても過言ではない妄執的な蓮の言動が、静かに重なる。


 やはりそうだ。蓮は自分に執着している。

 なにも変わっていない。蓮の本質は、小学生の頃のままだ。


 蓮はますます面倒くさがりに、そして不安定になった。

 その姿を、蓮が茅乃以外の人間にどこまで見せているのかは分からない。ただ、再会をきっかけに、彼は茅乃への執着を再び開始した。それだけは確かだった。


 その〝再会〟自体はどうだろう。不意に茅乃は思う。

 あの日、蓮は偶然茅乃を見つけたと言った。帰宅中の茅乃をたまたま見かけ、焦燥とフラッシュバックに足元をふらつかせた茅乃にたまたま手を差し伸べ……たまたま。


 あれは本当に偶然だったのか。

 それすら疑ってしまいそうで、茅乃はそういう自分こそが怖くなる。


 変質者から助けてもらったとき、血の滲んだ手の甲を、蓮はさして痛くないと言った。そのどこまでが本心なのか、茅乃には見えなかった。

 肌を触れ合わせるたび、浮かされたような視線で茅乃を射抜いてくる。そうやって、男性にとってはなんのメリットもない行為を延々と繰り返す。そんな蓮の本心はやはり見えそうもない。


 蓮は、自分のことを話さない。だから茅乃には分からないまま。

 なにもかもが想像の域を出ない上、自分がとんでもない勘違いをしている気にさせられる。

 通話を終えた電話を握り締め、茅乃は静かに溜息を落とした。

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