《2》東條くんは
年明け後、初めてとなる授業の日。
「……恩田先生」
生徒用の出入り口前で不意に呼びかけられ、茅乃は立ち止まった。
後方を振り返ると、そこには神妙な面持ちで佇む小野寺の姿があった。
……ついに声をかけられてしまった。茅乃の息が自然と詰まる。
あの一件以来、お喋りな彼らしくなく、小野寺は茅乃に接触を図ってこなかった。あれこれ訊かれるだろうと身構えていた分、肩すかしを食らった気分ではあったが、茅乃は安堵を覚えていた。
とはいえ、あれから一ヶ月弱。小野寺が実際に見聞きしたできごとを、他の誰にも話していないとは考えにくい。
楯一高の生徒は教室内に数名在籍している。彼らは、同じ高校に通う蓮のことも、この塾に勤める茅乃のことも、両方知っている。喋りたがりの小野寺が、喜々としてあの日のできごとを彼らに言いふらしているとも十分考えられた。
彼と彼の友人たちとの間でどんな話がされているかなど、茅乃には知りようがない。
ときおり向けられる小野寺の思慮深げな視線を、近頃では煩わしく感じることが増えている。ナーバスになっている自覚はあるが、鬱陶しくて仕方なかった。
「なんでしょうか」
「あの。あれから大丈夫だった?」
努めて平静にと念じながら返すと、どうして今頃そんなことを訊くのかと訝しくなるような問いかけが返ってきた。
憂鬱が積み重なる。なんの話だとしらばっくれようかとも思ったが、今の茅乃にはそれさえも億劫だった。すぐにもこの会話を切り上げたくて堪らなくなり、喉の奥がひりひりと疼く。
「はい。こちらこそ見苦しいところを見せてしまって、すみませんでした」
「……あの。東條、だよね。先生を助けてたの」
心臓がどくりと脈打つ。
頬も音がするほど盛大に引きつり、茅乃は平静を保つだけで精一杯になる。否、すでに平静など保ててはいなかった。
やめてほしい。
軽率な詮索なんて要らない。私も、蓮くんも。
「あのさ、先生と東條って、もしかして」
――ああ、もう、うるさい。
声を荒らげて会話をぶった切ってしまいたい衝動に駆られ、茅乃は拳を握り締める。
それでも理性が勝った。ここは職場であり、相手は自分の教え子だという自制が、茅乃から本能的な衝動を削いだ。
「実家が東條くんのおうちに近いんですよ。あの子が小学生の頃から知ってるの。それだけ」
「っ、でも」
食い下がろうとする小野寺の表情は、なんとも不満げに見えた。
だが、茅乃はそれよりももっと別のことで笑ってしまいそうになる。
……東條くん、だって。
そんな呼び方、初めてした。茅乃の口元がわずかに緩む。
己の口調と態度に、投げやりな態度が滲んでしまった気がしてならなかった。
どうか小野寺には見えていませんようにと願いながら、茅乃は再び口を開く。なんとしてでも話題を変えたかった。
「それより小野寺くんはあの日、なんであんな時間にあそこにいたんですか?」
「っ、それは」
寄り道は禁止だ。
暗にそう匂わせた分、言葉尻に棘が混じった自覚はあった。だが後悔は感じない。
予想通り、小野寺は瞬時に口ごもった。
まずいと言わんばかりに引きつった頬を見て、若いな、と茅乃は思う。
完全に余裕を欠いた今の自分にこんなにもあっさり隙を与えてくれるくらい、十代の彼らは純粋でまっすぐで、眩しい。どうしたらいいのか対応に困るほど。
「危ないですから、用がないならまっすぐ帰ってくださいね」
「……はい。すみません」
小野寺は神妙な声で謝罪し、それ以上はなにも言ってこなかった。
いつもこの子と話しているときのような単調な口ぶりで、最後まで喋ることができていただろうか……茅乃には分からなかった。
*
「送ってもらえるのはありがたいんですけど、男性陣の負担を考えると結構キツいですよね~」
溜息交じりに美和がぼやく。
時刻は、午後十時を回ったところだ。ここ一週間、遅い時間まで勤務した女性スタッフは、正規・契約・アルバイトの枠組みに関係なく、正規か契約枠の男性スタッフに自宅近くまで送ってもらうという方針が取られていた。
茅乃と美和の住まいはそれほど近くないが、同じ方向にある。ふたりとも遅くなったときには大概まとめて送られていた。
「そうなんだよ。ガソリン代も出ないんだよねぇ」
今日の送り当番は佐久間だ。
苦笑気味に、彼は美和へ相槌を打つ。
「教室長も言ってたけど、一ヶ月くらい様子を見て一旦やめようかって話みたいだよ」
「ええ~、それって意味ないですよね。だいたい問題の変質者はもう捕まったのに、捕まった直後だけ気をつけても仕方ない気がするんですけど」
「はは。まぁ取り急ぎの対策だからねぇ」
辛辣かつ的を射た美和の意見に、佐久間は飄々と返事をし、運転を続ける。
交差点を曲がって百メートルほど進んだ先、車はゆっくりと停まった。美和のアパートのすぐ目の前だ。
深々と頭を下げ、美和は帰っていった。
車内で佐久間とふたりきりになり、茅乃はなんとなく気まずさを覚えてしまう。
「ええと。恩田先生のところは確か、この道をまっすぐだったよね」
「はい。よろしくお願いします」
佐久間に送ってもらうのは二度目だ。以前にも一度、美和と一緒に送ってもらっているからか、おおまかな道のりは覚えてくれているらしい。
再び車が走り出す。窓に視線を向け、茅乃が妙な気まずさを紛らわせていると、佐久間がぽつりと口を開いた。
「日下部さんの言う通りだよな。その場しのぎの対応って感じしかしないもんなぁ」
「あはは。けどまぁ私は助かりますよ、一ヶ月だけでも」
「……災難だったな。話を聞いたときはまさかと思ったよ」
「本当ですよ、私だって思いましたし」
深刻そうな声にならないよう努めつつ、当たり障りのない会話を交わす。
息苦しい。佐久間がどうこうという話ではなく、仕事帰り、茅乃はこのところいつも今と同じ気分に陥っている。
蓮との関係が知られてしまうのではと思うと、背筋が凍る。
高校生とふしだらな関係にあるなどという話がひとたび公になれば、茅乃は職場にいられなくなる。教室の評判にも傷がついて……それ以上は考えたくなかった。そのような事態になろうものなら、おそらく自分の精神はもたない。
考えすぎではないか。案外、誰もそんなことなど気に懸けないのではないか。
そういう楽観的な思考を抱けるならどれほど気楽だろうと、茅乃は密かに溜息を噛み殺す。
「……大丈夫? 顔色悪いけど」
「えっ? ああ、すみません。大丈夫ですよ」
霞みかけた茅乃の視界を、赤信号のランプが鋭く貫く。
近頃は、ベッドに入ってもなかなか寝つけない日が続いていた。寝不足とまではいかないにしろ、眠りたいときにさっさと眠ってしまえないのは堪える。
抱えたストレスのすべてを佐久間に見抜かれている気がして、茅乃は肝が冷える思いがしていた。
ほどなくして、車は茅乃の自宅アパート前に到着した。
お疲れ様でした、というお決まりの挨拶以外、佐久間はなにも言わなかった。
不意に、先日の小野寺とのやり取りが茅乃の脳裏を過ぎる。
佐久間は大人だ。小野寺と佐久間を比較してもなんの意味もないことは百も承知だが、彼は小野寺よりも、さらには自分よりもずっと大人なのだと改めて思い知らされる。
走り去っていく車のブレーキランプをぼうっと眺めた後、茅乃はアパートの階段へ足を向けた。鉛でも詰められたかと感じるほど重い気分のまま、靴音が響かないよう慎重に足を動かし、玄関の前で鍵を手にした、そのとき。
突如、鞄の中のスマートフォンがぶるぶると震え出した。
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