第3章 麻酔によく似た〈後〉

《1》蜜月ナイト

 茅乃としては大事おおごとにしたくない気持ちが強かった。

 しかし、彼女が近くのコンビニで変質者に襲われた件は、結局教室内の全スタッフの知るところとなってしまった。


 中でも驚いていたのは、アルバイト講師のくさ美和みわだ。

 彼女は、大学近辺に変質者が出ていると話していた女子大生たちのひとりだった。


「恩田先生。あの、大丈夫でしたか?」


 美和と同時刻の退勤となったその日、茅乃は帰り際に声をかけられた。

 美和の声は緊張気味で、珍しいな、と茅乃は思う。一方的にではあるものの、彼女に対して冷静沈着なイメージを抱いていたからだ。


 変質者の話題は、美和も他の講師仲間たちと不快そうに話していた。

 普段彼女と一緒にいる講師仲間たちの姿は、今日はない。茅乃に気を遣ってか、美和は互いがひとりのタイミングを選んで声をかけてくれたらしい。


「あ、うん。怪我もしてないし、私は全然」

「良かった……私、身近な人が襲われるなんて思ってなくて」

「うん、私も思ってなかったよ。怖いよね……あ、けど警察にも連絡したし、ちゃんと捕まったからもう大丈夫かも」

「はい。捕まったって話は学校でも出てて」

「そっか。若い子ならなおさら怖いよね、この仕事だと夜も遅くなっちゃうし」


 美和と個人的にやり取りしたことは、これまであまりなかった。

 数人の女の子同士で一緒に講師の登録をしたようだが、彼女自身の勤務態度は優秀だ。友人や周囲のアルバイト講師と足並みを揃えたがる学生が目立つ中、美和はひとりでも気負いなくシフトを入れる。

 実際の勤務姿勢も、見る限り問題がない。信頼が置けるアルバイトスタッフだ。


 茅乃の最後の言葉に、美和は神経質そうに眉をひそめた。

 なにか不快なことでも言ってしまったかと茅乃は一瞬身構えたが、次いで聞こえてきたのは、納得がいかなそうな不満の滲む声だった。


「『若い子』って……恩田先生だって若いじゃないですか」

「え? いや、私は別に」

「だいたい、こういうことに年齢なんて関係ないと思います。恩田先生は実際に襲われたんだし、絶対気をつけたほうがいいですよ。夜とか、あれからも普通にひとりで帰ってますよね? 今日だって」

「う、うん。そうだね、気をつける。上にも報告しておいたから、帰宅時のこととか、後でいろいろ通達があるかも」


 勢いに押され、しどろもどろになってしまう。

 緊張を孕んだ茅乃の声を聞きながら、美和はわずかに眉尻を下げ、はぁと控えめな溜息をついた。


「恩田先生、もっと自分を大事にしたほうがいいです。一番大変な目に遭ってるのに、今だって私の心配なんかしちゃって……もう」

「え、あ、でも」

「途中まで一緒に帰りましょう? 佐久間先生から聞きましたけど、しばらくは帰りが遅くなった女性陣を男性陣が送るみたいな感じになるそうですよ。そういう話が進んでるって」


 はっとして隣を見やると、困ったように笑う美和と目が合った。

 自分が知らない情報を美和が知っているという事実に衝撃を受けた茅乃だったが、どうやら教室長も思った以上に気に懸けてくれているらしい。それに、もしかしたら美和自身も茅乃が心配で声をかけてくれたのかもしれない。


 隣に見知った誰かがいる安心感は何物にも代えがたい。それが男性であれ、女性であれ。

 美和の言動が、今の茅乃にとってはなによりありがたかった。



     *



 日曜、午後四時。

 休日の自室、薄暗いワンルームのシングルベッドの上、茅乃は両手首を頭上でまとめられ、押さえつけられていた。


 難なく片手でそれを実行に移している人物の吐息が、ふっと彼女の耳を掠める。上擦った声が零れそうになり、茅乃は必死にそれを堪えた。

 服を着たままとはいえ恥ずかしくて仕方ない。顔を背けると、手首を押さえているほうとは逆の手――節の目立つ指が首筋をなぞってきた。堪らず声を漏らした茅乃を眺めながら、指の主は目を細めて笑う。


 胸元のボタンを半端に外され、肌寒さに息が震える。

 鎖骨が見えるか見えないかくらいまで開かれた茅乃の首筋を、今度は唇が這う。艶めいた自分の声が別人のもののように聞こえ、彼女の羞恥に拍車がかかっていく。


 眼鏡は早々に外された。

 だらしなく蕩けた顔を見られている。晒してしまっている。背徳感に目が霞み、だが茅乃には制止の言葉など少しも紡げそうになかった。


 いけないことをしている。

 六つも年下の、相手が小学生だった頃から知っている男の子と、自分は今、こんなにも淫らなことを。


『守ってあげる』


 その代償という意味で触れてくるだけなのかもしれない。

 過去に二度、似た理由で強引に唇を奪われた経験から考えるなら、なおさら。でも。


 半端に開いた唇を舐められ、堪らず茅乃は背を反らせた。

 首へ向いていた意識が居場所を見失い、彼女は反射的に広い背中へしがみつく。眼鏡の助けがない弱々しい視力では心許なく、いっそ目を瞑ってしまったほうが気楽なのではと思う。


 吐息だけで笑う声がした後、口づけはにわかに深くなった。

 じゃれ合いと変わらなかった接触は、途端に濃厚な気配へ変わり、大人だってそこまでしないのではと思うほどの貪るようなディープキスが始まる。


 小学生の教え子と偶然遭遇した、たった数十分前の記憶。

 まだ色濃く残るそれが、茅乃の脳裏を過ぎっていく。


『あっ、恩田先生だ! 隣の人、誰? かれし!?』

『ちっ違うよ!! 違います!!』

『じゃあ誰ー? 誰ー!?』

『あ、ええと、その』

『……彼氏じゃないけど、先生に変な虫がつかないように見張ってる』

『え? むし?』

『うん。ちゃんと見張ってないと危ないんだ、恩田先生。ほっとくと変な人にフラフラついていきそうだろ?』

『あっ、なんかそれ分かるー!』

『そこは分からなくていいよ!!』


 蓮とふたりで並んで歩いているところを見られ、心臓を鷲掴みにされた思いだった。

 いつもより数段大きな声が口をついて出て、だがどうにもどもってばかり。そんな茅乃を横目に蓮が取ったのは、不安になってくるほどスマートで冷静な対応だった。


 平坦な蓮の声と、笑いながら手を振って走り去っていく教え子の後ろ姿。両方を克明に思い出しては、それを戒めるように長い指が、あるいは薄い唇が茅乃を苛む。

 自分のものとは思えない色めいた声が零れ、後はもうそればかりになる。


『……あんなに全力で否定しなくても良くない?』


 あの後、笑ってそう告げられた。その癖、新しい眼鏡の奥で揺れる両目はまったく笑っていなかった。

 優しいはずなのに獣じみた獰猛さも確かに宿した、熱っぽい視線を思い出す。茅乃の口端から、あ、とひときわ掠れた声が零れ落ちた。


 ――彼女は今、蓮にお仕置きを受けている。


「っ、ふ……」


 お仕置き、などという取ってつけたような言葉に目が眩み、酔い痴れ、挙句の果てに溺れている……それは自分だけなのだろうか。シーツを握り締める茅乃の指が、得体の知れないもどかしさに震える。

 茅乃に触れている間、蓮はほとんど喋らない。自分の眼鏡を外しもしない。

 室内には、艶めかしく濡れた茅乃の声が反響するばかりだ。溺れているのはやはり自分だけなのだと思い知らされる。


 もっとほしいと甘えたがる本心を、これ以上ごまかせそうになかった。

 縋るように、茅乃は蓮の首へ腕を絡める。昔は女の子かと思うほどに華奢だった蓮の首筋は、今では大人と変わらない。男の人の、逞しいそれだ。


 もう無理だ。

 蓮くんが好き。傍にいてほしい。怖い人から私を守ってほしい。これからも、ずっと。


 ――それが叶うんだったら、私。


 つらい過去などまるでなかったかのように蓮を求めたがる自分は異常だ……いや、違う。

 茅乃は理解できている。だからこそ、自分を苦しめた人たちと同じ男性である蓮へ、ここまで全幅の信頼を置けてしまっている。


 彼は絶対に、これ以上のことは――セックスはしない。


 半端に肌を晒し、唇とその先を絡め合わせ、今日も茅乃は想い人から与えられる絶対的な安堵に溺れるしかできずにいる。



     *



 昔、何度も繰り返し読んだ恋愛小説のことを、近頃よく思い出す。

 ごく普通の女の子と、意地悪ばかり繰り返す幼馴染の男の子。高校時代、公園で蓮に助けてもらって以来、茅乃はそのふたりに自分と蓮を重ねた。その都度自分を咎めながらも、結局やめられなかった。


 半分騙された形で奪われた唇。ファーストキス。

 あの日、蓮はそれを、助けたことに対する〝お礼〟だと言った。なら、再び蓮に助けられた自分が今されている行為も、彼にとってはあのときと同じ意味なのか。


 そうであってほしい。そんなのは嫌だ。

 どちらも茅乃の本音だ。でも、だからといって自分がどうしたいのかは、彼女には分からないまま。



     *



 例のトラブル以来、蓮はスタッフ用出入り口の前まで茅乃を迎えにくるようになった。

 他のスタッフにもたびたび遭遇しているらしく、茅乃自身は焦燥を募らせている。だが実際には、同僚に何度か『弟さん、迎えにきてるよ』などと声をかけられただけだ。


 ……弟。

 複雑な気分だったが、その誤解をわざわざ訂正する気にはなれなかった。


 同僚たちの反応にはむしろ安堵を覚えてもいいくらいで、それなのに、茅乃の胸はじくじくとした痛みに苛まれ続けたきりだ。


『近所の姉ちゃんです』


 交番で聞いた、蓮の平坦な声が脳裏を巡る。胸の痛みはすぐにその記憶と交ざり合い、重苦しさを増していく。

 自分は一体どうしたいのか。蓮とは恋人同士でもなんでもなく、どちらかといえば姉弟に近い関係なのに。


 いつもより遅くなってしまったことを謝ると、蓮は無言で首を横に振った。

 先日学校が冬休みに入ったと聞き、今日の迎えは断ろうと思っていたが、聞き入れてはもらえなかった。普段彼が引いている自転車は、今日は見当たらない。茅乃を迎えにくるためだけにわざわざ外出したのだろう。


 交差点をひとつ曲がったところで、指を絡められた。教室の建物が視界に入らなくなった途端に触れ合う指先は熱い。

 まるで恋人同士だ。前にも同じことを思った。甘い気持ちに包まれ、だが次の瞬間には強烈な焦燥に襲われる。そんな不安定な感覚にも、もうすっかり慣れっこだ。


 アパートの前で「またね」と手を振って別れていたはずが、今ではそちらのほうが珍しい。玄関のドアが閉まると同時に身を屈められ、止める間もなくキスを落とされる。

 今日も変わらない。冬の空気に冷やされた身体を包み込むように抱き締められ、唇が重なり合う。


 他人の目がない自室での抱擁は、外よりも茅乃を大胆にさせる。絡まる舌先にちゅ、と吸いつき、自分からもキスを深めていく。

 数年前に不意打ちで奪われたキスも、今しているキスも、同じ人とのキスだ。それなのに、茅乃にはひどく現実離れして感じられてしまう。舌を絡め、互いの唾液を交換し合い、そうこうしているうちやがてなにも考えられなくなる。


 触れ合う唇が一瞬離れ、茅乃は薄く目を開いた。

 視線の先では、蓮がふたり分の唾液に濡れた自分の唇をぺろりと舐めている。十六歳の少年とは思えないほど艶めかしい仕種に、見ている茅乃のほうこそ羞恥に喘いでしまいそうになる。


 こくりと喉を揺らしても、渇いた喉は潤わない。

 乱されきった茅乃の内心など知る由もない蓮は、さらに身を屈め、茅乃の耳元でそっと囁いた。


「かや姉。今日、部屋泊めて?」

「っ、え? で、でも」

「親にはちゃんと言ってきたから大丈夫。友達んちに泊まるからって」


 ……嘘じゃないか、それ。

 それとも、自分は蓮にとって単なる友達という扱いなのか。こんなキスまでしておいてと思えば、さすがにムッとしてしまう。


「嘘は良くないと思うけど。本当に帰らなくていいの?」


 そんなことを返されるとは思っていなかったのか、蓮が微かに目を瞠った。

 じっと見下ろされ、茅乃はたじろぎそうになる。だが引くわけにはいかなかった。たっぷり十秒が経過した後、珍しく食い下がって返答を待つ茅乃から目を逸らし、蓮は溜息交じりに口を開いた。


「うちの親、あんまりそういうの気にしない人たちだから」

「……蓮くん」

「俺はかや姉と一緒がいい」


 それ以上、彼はなにも言わなかった。

 というより、茅乃がなにか返そうとするよりも前、強引にキスを再開してしまった。


『かや姉と一緒がいい』


 自分の家族よりも茅乃と一緒に過ごしたい。暗にそう告げる蓮の声は、今まで聞いたことがないほど寂しそうだった。

 ……いや、違う。茅乃は知っている。

 今のそれと同じくらい寂しそうな声を。今よりもずっと甲高かった、声変わりを迎える前の、昔の蓮の声を。


 何年も前の記憶が脳裏を掠め、余計なことなど尋ねなければ良かったと、茅乃は激しい後悔に襲われた。

 蓮と彼の家族の間には溝がある。その亀裂が新しい父親との間に入ったものなのか、母親との間にも入ってしまっているのか、蓮から細かな事情を聞けていない茅乃には判断がつかない。


 自分は、蓮についてなにも知らない。

 それを眼前に突きつけられた気がして、茅乃は息を詰めた。


「お願い。かや姉には絶対迷惑かけないから」


 感情の滲まない声で呟く蓮は、もはや悲痛な顔をして見えた。

 生意気な表情ばかり浮かべていた少年の心の軋轢、欠落……そういうものが垣間見えるたび、茅乃こそが深い沼の底に沈められたような息苦しさを覚えてしまう。


「……うん。いいよ」


 その選択は正しいのか。自分がそれを口にして、本当にいいのか。

 ぎりぎりまで悩んだ。だが、茅乃にはそうとしか言えなかった。


 元々、蓮は茅乃にだけ異常なほど心を開く傾向にあった。

 心を開く、などという言い方をすれば聞こえはいいだろうが、突き詰めればそれは紛うことなき執着だ。


 執着……もしくは。

 どくりと不穏な音を立てて軋んだ己の心臓に、茅乃は気づかないふりを貫いた。


 蓮は眼鏡を外さない。その癖、茅乃の眼鏡は早々に奪い取る。

 眼鏡越しに覗く蓮の双眸は色っぽく艶めいていて、自分が彼よりずっと年下になったような錯覚に、茅乃は簡単に囚われてしまう。


 ふたりきりで淫らなことをしているからか、愛されている気分になるのも危険だ。

 茅乃をどう思っているかも含め、蓮は自分についてあまり話さない。執着されているのではという疑問も、結局は想像の域を出ないのだ。そんな宙ぶらりんな状態で、勘違いだけはしてしまいたくなかった。


 マフラーで塞がれた茅乃の両目は、暗闇しか映し出していない。それでも恐怖を感じずに済んでいるのは、蓮の指先が信じがたいほど優しく彼女の肌をなぞるからだ。

 鼓膜を直に犯す熱い吐息に狂わされ、あるいは唇を掠める舌の感触に踊らされ、こうなってしまえばもう茅乃は蓮の思うままだ。


 深くなっていくキスの途中、マフラーを外される。

 輪郭を失ってぼやけた視界でも、すぐ真上に覗く蓮の顔ははっきり見える。口元を緩める仕種を目にするたび、この子にはなにもかもが見えているのだと思い知らされ、茅乃の意識は遠のきそうになる。


 例のトラウマのせいで、茅乃は現在の年齢に至るまで性の快楽を碌に知らずに過ごしてきた。そんな彼女の身体の芯に、今日もまた、麻薬のような愉悦が植えつけられていく。

 それが幸せか不幸かは分からない。分かっているのは、蓮は最後まではしないということだけだ。


 厳密に言えば、蓮は絶対に、自分自身の興奮を茅乃に伝えてこない。


 もしかしたら興奮など一切していないのではと思えるほど涼しい顔で繰り返す彼の行為に、乱されるのはいつだって茅乃だけだ。

 触れ合う間、蓮はひと言も喋らない。だが、彼はときおり切なげに息を詰める。

 盲目的に茅乃の肌を暴いた辻には、そういう態度は見られなかった。好きだよ、と何度も何度も言われたが、辻には茅乃の困惑も血の気の引いた顔もなにも見えていなかったのかもしれない。


 蓮は、辻とは根本的に違う。

 蓮はきっと、茅乃が抱えるトラウマを正しく理解している。


 茅乃が男性からの接触を避けて生活していることを、蓮は知っている。

 いつからかは分からない。昔以上に地味な格好をしている茅乃を見て勘づいたのかもしれないし、再会した日に『送るよ』と言われて露骨に狼狽えた茅乃の様子から、すでにある程度察していたのかもしれなかった。


 知っている。だから見せない。強要なんて絶対にしない。

 だが、それなら蓮が自分にこんなふうに触れる理由は、なんだ。


「……蓮くん……」


 涙目で訴えかけても、蓮は薄く笑うだけだ。

 無言を貫く彼に、今日も茅乃は極限まで乱される。アパートの壁の薄さを気に懸けながら、途中からはそんなことを気にしている余裕すら奪われながら、延々喘がされるばかりだ。

 身体の芯が波打ち、うまく息ができなくなる。浅い呼吸を繰り返す唇を、満足そうに笑う蓮が奪ってしまったために、乱れきった茅乃の呼吸はなかなか元に戻らない。


 オーガズムという感覚を茅乃に教えたのは蓮だ。

 キスを続けていると頭の芯がぼうっとして、そのうちうまく立っていられなくなることを教わったのも、蓮からだった。


 茅乃の身体の中で蓮が触れていない場所は、おそらくもうない。

 だが彼は、茅乃に〝好き〟とも〝愛している〟とも言っていない。茅乃自身、自分の素直な気持ちを蓮に伝えたことは一度もなかった。

 蓮は決して箍を外さない。そのことに最初は安堵を覚え、安堵は次第に寂しさへ姿を変え、今となっては茅乃は身を焼くような焦燥に溺れてしまっている。


 ――私は、蓮くんにとって、なに?

 今日もまた、答えは出そうで出ないままだ。

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