《9》守ってあげる
「知らなかったの。男の人と付き合って、初めて分かった」
本当に自分でも気づいていなかった。
トラウマと呼ぶには少々粗末な、しかしそれでも茅乃の根底にしっかりと棲み着いていた、深い心の傷だ。
茅乃にとって人生初の恋人が辻だった。
大学に入学して間もない頃から、少人数の授業などで、ふたりは頻繁に顔を合わせていた。琴線に触れるなにかがあったのだろう、辻は一年の夏頃から何度も茅乃に告白を繰り返していた。
辻を好きかどうか、当時の茅乃にはよく分からなかった。
どちらかといえば、自分の気持ちそのものよりも、彼の気持ちを無下にしてしまわないことこそを優先して神経を割いていた。共通の友人が多かった分、もし自分が辻に冷たい態度を取りでもすれば、そのせいで友人関係の輪が崩れてしまうのではと危惧していた。
交際を承諾すると、辻は見たことがないほど嬉しそうに笑った。
間違いではなかった、と茅乃は安堵した。自分の選択は正しかったと――彼と一緒に過ごすうちに新たな内面を知り、自分たちの関係はより良く変わっていくのだと、心から信じていた。だが。
辻はキスを急いだ。それ以上のことも。
例のトラウマが発覚したのは、初めて招かれた彼の部屋でベッドに押し倒されたときだった。押された肩、後方へ傾いだ身体……コート姿の変質者が瞬時に頭に蘇り、茅乃の心は恐怖に染まった。
顔を青くして震え出した茅乃に、辻は困惑しながらも事情を尋ねた。
しどろもどろではあったが、確かに伝えた。過去にそういうできごとがあったのだと。今の今まで自覚できていなかったが、それは自分にとって耐えがたい恐怖なのだと。
そうか、と辻は思案げに顔を伏せた。
分かってくれたと思い、茅乃はほっとして――だが。
茅乃の認識と辻の理解は別物だった。
辻は、行為を続けようとしたのだ。
大丈夫、オレは君が好きだから。
絶対に傷つけない。信じてほしい。
そんなつらい記憶、絶対忘れさせてあげる。
茅乃を慮って紡がれているはずの言葉のすべてが、呪詛のように彼女の鼓膜を叩いた。
頭の中で警鐘が鳴り響き、呼吸が浅くなり、喉がひゅうひゅうと掠れた音を零し始め、それでも辻は、そんな状態の茅乃に触れることをやめなかった。
きっと正解はいくつかあって、だが辻はそのどれもを取り逃した。
茅乃は茅乃で、伝えるべきことのどれもを伝えきれなかった。
大きく開かれた脚の間に無理やり割り込まれた瞬間、茅乃の胃の中が逆流した。己に圧しかかる身体をありったけの力で突き飛ばし、茅乃はベッドの上で嘔吐した。
辻が怯んだ隙を突き、強烈な臭いの残る口元をどうこうするよりも先に、乱れた衣服を直した。おどおどとタオルを差し出され、それすらも叩き落とすようにして払い除け、茅乃はそのまま辻の部屋を飛び出した。
帰宅してすぐに口をすすぎ、シャワーを浴びた。
汚れた服を洗おうとしたとき、血のついたショーツを目にした。自分の心が折れる音を、茅乃はそのとき確かに聞いた。
辻は辻なりに茅乃を大事にしようとしていた。
今ならそう判断がつく。無論、受け入れられるかどうかは別として。
しかし当時の茅乃は、その件をきっかけに辻のなにもかもを受け入れられなくなってしまった。もう少し待ってほしかったと伝えることさえ不快で、嫌悪が走って、茅乃は辻を避け続けた。
無理やり身体を引き裂かれる苦痛は、従来のトラウマに溶け込むようにして茅乃を苛んだ。
辻はそれでも茅乃を待とうとしなかった。話がしたい、という自分の意見ばかりを押し通し、再び茅乃を自宅に連れ込もうとした。
『別れて。今すぐ』
恐怖とともに限界を感じた茅乃は、その場でそう叫んだ。
そんな茅乃を、辻は呆然と見つめていた。なにを言われているのかさっぱり理解できないと言わんばかりの顔で。
以降、茅乃は彼と一度も口を利いていない。徹底的に避けた。辻はそれを茅乃からの悪意と受け取ったらしく、彼も徐々に茅乃を避けるようになった。
そういう経緯があったからこそ、先日の彼からの電話は堪えた。
茅乃自身、亜希子に探りを入れる程度で終わりだろうと思っていたからだ。あの男にそれ以上のことなどできるわけがないと高を括っていた。
月日が経過し、辻なりに、自分の言動を冷静に判断できるようになったのかもしれない。でなければ、大学卒業からこれだけ日が経った今、わざわざ茅乃に直接連絡を取ろうとは考えないはずだ。
だが、本当のところは分からない。彼がどんな人なのか、その人となりを茅乃が知るよりも前に、ふたりの関係は脆くも崩れ落ちてしまったからだ。
なにより、他ならぬ茅乃自身が、辻との関係を修復したいとは露ほども思えていない。
*
翌日。
水曜以外の平日に蓮と顔を合わせるのは初めてだった。
前日の件は職場に連絡しないわけにもいかず、茅乃は詳細を教室長に伝えた。深刻な表情をした彼は、「今日は早く帰りなさい」と指示を出した。
近々、本社に話が届いてしまうのだろう。深夜まで続く勤務時間に配慮がなされるのなら確かにありがたい。だが、起きた件が件だけに、茅乃は諸手を挙げて喜ぶ気にはなれずじまいだ。
さすがに水曜のように早くは退勤できない。
遅くなるから、とやんわり断ったが、蓮は頑として聞き入れなかった。
自室、午後八時。床に座り込んだ茅乃を、蓮は背後から抱き竦めたままだ。
話しながら、茅乃は茅乃で彼の腕を放せなかった。しどろもどろに言葉を選びつつ話し続ける間、蓮も、茅乃を抱き締める腕の力を緩めようとしなかった。
――結局、私は誰かに守られたいのだ。自分を守ってくれる人にこそ傍にいてほしいと思っている。
茅乃は固く目を瞑る。
自覚はあった。だからこそ蓮に縋ってはいけなかった。一度ならず二度までも、しかも二度目にはこれほど危険な目に遭わせてまで自分を守らせてしまった。ただの〝近所の姉ちゃん〟なんかを。
触れ合う腕は温かい。震えの残る茅乃の身体の芯に、まっすぐぬくもりを届けてくれる。
蓮が高校生であることを、自分が塾の講師という立場にあることを、ともすれば簡単に失念してしまいそうになる。
「これで、話はだいたい終わり」
「……うん」
「ごめん。なんか落ち着かなくて、脈絡なかったかもしれない」
笑ったつもりが、ひゅるひゅると喉が鳴るだけに終わった。
眉をひそめ、茅乃はわずかにずれていた眼鏡を直す。すると、背中の側から自分を抱き締める両腕の力が増した。
「あのとき、もっと早く助けてれば違ったのかな」
「え?」
「かや姉が高校生だったときのあれ……かや姉がヤバそうだって、声かける前から気づいてた。けど、やっぱり怖かった。大人を呼んだほうがいいのかためらった」
「……蓮くん」
震える声が傍から聞こえ、今度こそ笑いが零れる。
真横に視線を動かすと、恥ずかしくなるくらい近い距離に蓮の顔が覗く。甘く軋みかけた胸の内側をごまかしながら、茅乃は首を横に振ってみせた。
「違うよ。蓮くんのせいじゃない」
「でも」
「小学生があんなふうに助けてくれたこと自体、普通なら考えられないよ。それに昨日だって守ってくれたでしょ、本当に感謝してる。ありがと」
無理に笑ったからか、頬が引きつって痛い。
そんな自分の無理も内心も、蓮にはすべて見抜かれてしまっているのかもしれないと茅乃は思う。
目を細めた蓮が、茅乃の頬に手を寄せた。大きな手のひらに顔を包み込まれ、眼鏡が外される。そのまま、ふたりの唇が重なり合った。
ちゅ、ちゅ、と音を立てて繰り返されるキスは、昨日玄関で交わしたそれとは比較にならないほど労りに満ちている。触れては離れ、何度かそれを繰り返していたふたつの唇は、次第に触れ合う時間を長くしていく。
「かや姉のことなんかさっさと忘れようって、ずっと思ってた」
「……え?」
「だってかや姉、大学に行ってた間、ぶっちゃけ俺のことなんか忘れてただろ」
唇が重なった状態で零された蓮の声は、甘く掠れていた。
だが、彼が語る内容はどこまでも不穏で、茅乃は派手に身を強張らせる。
「ッ、そんな……」
忘れていられたわけがない――即座に返そうとした茅乃は、だが確実にそう言いきれるのかとつい自問してしまう。
たったそれだけの間でも、茅乃の否定を白々しいものにするには十分だった。
目を細めて見下ろしてくる蓮の視線を近くで受け止めながら、乱れた内心を振りきるように、茅乃は薄く口を開く。
「蓮くん、私は……」
「けど駄目だった。あんたの顔見たら、それだけで全部無駄になった」
「……あ」
「あんたはいつもそうだ。不用心で隙だらけで……無防備すぎる」
震える指先に、蓮のそれが絡みつく。
節くれ立った彼の指は、茅乃のそれよりずっと長い。握り締められれば、茅乃の胸はすぐさま甘く高鳴り始めてしまう。
「なんでそこまで簡単に俺に気、許すわけ? 俺以外の奴にもそんななの?」
「ち、違……」
「悪いけど、俺は都合良くしか受け取らない」
「あ……っ」
微かな自嘲の浮かんだ蓮の顔は、すぐに見えなくなった。
尋ねておいて返事はいらないとばかり、大きな手が茅乃の両目を覆い、ふたりの唇は再び重なり合う。鼻から抜けるような声を漏らした茅乃は、少しずつ深くなっていく大人のキスに翻弄されるばかりだ。
一旦そんな状態になってしまえば、なす術などもうありはしない。
キスが気持ちいいものだと、初めて知った。温かくてやわらかくて、唇を伝って気持ちごと流れていきそうだと、ぼうっとした頭で思う。
わずかに唇が外れ、蓮は茅乃の髪を指で梳いた。
……これでは恋人同士みたいだ。甘い思考が茅乃の脳裏を過ぎり、同時に胸の奥が鈍く痛んだ。ごまかすように広い背中へ腕を回すと、嬉しそうに目を細めた蓮も、茅乃の背をきつく掻き抱く。
「かや姉のこと、俺が守ってあげる。だからこれからは、俺以外の奴を頼ったり気を許したりするの、やめて」
耳たぶを甘く噛みながら囁く蓮の声は、一転して恍惚としていた。
小さな不安を覚え、だがその正体を明確に掴むには至らない。蓮が守ってくれるという安堵を二度も叩き込まれた茅乃の身体は、彼の言葉を否定するだけの理由をすぐには作り出せなかった。
そもそも、理由を作る必要などあるのか。
このまま蓮くんと、ずっと……そんな気持ちを止められなくなりそうで、茅乃の不安はさらに煽られていく。
『守ってあげる』
嬉しいなんて、思ってはいけないのに。
茅乃にとって、それは麻薬よりも危険な蜜だ。甘い言葉とキスに麻痺させられた隙を縫い、見る間に身体の隅々まで行き渡ってしまう、蕩けるような毒の蜜。
蓮を突き放すことは、自分には絶対にできない。
そればかりが巡る頭を放置したきり、茅乃は唇に落とされる熱にただ翻弄されるしかできなかった。
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