《8》傷まみれの学ランナイト

※ 変質者・暴力・怪我の描写あり ※




 次の休日には美容院へ出かけた。

 伸ばしっぱなしの髪を、手入れしやすいよう梳いて整えてもらう。


 およそ一年ぶりに訪れた美容院に、前回担当してくれた美容師はもういなかった。

 独立したという。それくらいの月日が過ぎている。思わず零れそうになった苦笑を、茅乃は慌てて噛み殺した。


 プレゼントされたシュシュが似合う髪型にしてもらうためだけに、足が遠のいていた美容院へノコノコ出かけている。

 つくづく自分は単純な生き物だな、と茅乃は思う。部屋でひとり、シュシュをつけては頬を緩ませて……間抜けにもほどがある。


 職場にはつけていっていない。上質とはいえ、普通のシュシュには変わりない。使えば使うほど傷んでしまう。

 ここぞというときに使いたかった。それがいつなのかは謎のままだし、どのみち自室ではひとりで着用し続けているのだが。


 職場につけていったら周囲に突っ込まれそうだという理由もある。

 問題は同僚より生徒だ。特に、小野寺などは率先して面白がるだろう。現に、彼は髪型を少し変えた茅乃をひと目見ただけで、「彼氏でもできたのか」と延々話しかけてくる始末だ。

 可愛くなったと思ったんだよ、としたり顔で頷かれた先日、茅乃は男子高生の持つ観察眼と想像力の猛々しさに感服した。もっとも、小野寺を基準にすべての男子高生をひと括りにしては、いささか申し訳ない気もするが。


 風邪の日のキス以降も、やや軽率に持ちかけてしまった電話相談以降も、蓮はそれまでと変わらず、週に一度茅乃を迎えにきてくれる。

 今のところ、茅乃はどちらの件にも言及されていない。

 そもそも、ふたりが共有している時間は週にたった五分だ。なにを問うにも答えるにも、あまりに時間が短すぎる。


 宙ぶらりんな状態で、月日だけが過ぎていく。

 自分の気持ちも蓮の気持ちも、靄がかかったように不明瞭なまま。



     *



 今日は朝から雨が降っていた。

 冬の雨は、雪より冷たく感じられるときがある。十二月に入ってからは風の強い日が増え、傘を差しているのにずぶ濡れになることも珍しくなく、茅乃は蓮からの連絡が入ってから外に出た。


 約束をして、一緒に帰って、またねと笑って別れる。

 それ以上でもそれ以下でもないのに、まるで蓮の恋人になった気にさせられることがある。そのたび、茅乃は自分を咎める羽目に陥っていた。


 コンビニへの道中、ふとアルバイトの大学生講師たちが交わしていた話題を思い出す。

 近頃、彼女たちが通う大学の周辺に変質者が出没しているという。立て続けに目撃情報が出ているそうで、女子の学生を中心に注意喚起がされているとの話だった。


 ……変質者。

 その言葉を耳にして以降、茅乃はひどくナーバスになっていた。


 アルバイトたちはさほど深刻そうではなかったが、帰宅が遅くなりやすい仕事だけに、上司にも近々報告しておいたほうが良さそうだ。

 茅乃自身、水曜以外は深夜に及ぶ勤務の後にひとりで歩いて帰宅している。そういう話題が出ると身構えてしまう。


 蓮との待ち合わせ場所も、変えたほうがいいかもしれない。

 変質者の件ももちろん理由のひとつだ。加えて、小野寺をはじめとした一部の生徒たちの視線が怖いからという理由もあった。

 教室では、授業後の寄り道を原則禁止している。だが、迎え待ちの子は近くのコンビニや書店で時間を潰すことが多いようだ。そもそも、塾側の禁止事項などはなから気に留めていない子もいる。


 ことさら、楯一高の生徒とは鉢合わせたくなかった。

 下手をすると、茅乃のみならず蓮までもが好奇の的にされかねない。受験前の大事な時期に差しかかりつつある彼に、余計な負担はかけたくなかった。


 小さく息を零したそのとき、背後から肩を揺すられた。

 蓮だと思って振り返った茅乃は、それきり続く言葉を失った。


「……えっ……?」


 そこにいたのは、コート姿の見知らぬ男だった。

 目深に被った帽子の隙間からギラついた目が覗き、茅乃の喉がごくりと鳴る。肩に触れていた相手の手は、いつの間にか茅乃の二の腕を掴んでいて、一拍置いてから鈍い痛みがそこを走った。

 声を出さなければと思っても、喉からは掠れた呼吸がひゅうひゅうと零れるだけで、それ以外の音を生み出してはくれない。


『最近、うちの大学の近くで変質者が出てるらしくて』


 ――まさか。


「っ、ひ……ッ」


 遠慮なく腕を引かれ、傘を持つ手がもつれた。

 それすら気に留めてもらえず、茅乃はコンビニ裏の駐車場、そのさらに奥へ引っ張り込まれていく。

 従業員くらいしか知らなそうな、細い通路の先の袋小路だ。地面にはタバコの吸い殻がいくつも転がっている。


 一瞬のできごとだった。

 雨に濡れた地面に直に尻もちをついた茅乃は、男に正面に立たれて逃げ場を失う。立ち上がれず、また吸い殻でコートが汚れることに気を配れもせず、彼女は真っ黒な恐怖に塗り潰されていく。


 ……これ、あのときと、おんなじだ。

 そう思っても、うまく悲鳴をあげられない。


 はぁはぁと乱れた男の呼吸が、茅乃の鼓膜をぞわりと撫でる。

 表のコンビニ看板の明かりがわずかに届くだけの暗がりの中、それでも男がコートの合わせ目に手をかけた様子がはっきりと見えた。

 襲われるのは確かに怖い。だが今の茅乃には、あの日と同じことを繰り返されるのが――茅乃の男性に対する意識を根こそぎぶち壊した、身体のあの一部分を、またも強制的に目の前に晒されることこそが、他のなにより恐ろしくて堪らなかった。


 スーツのスラックスらしきそれの前は、すでにベルトが外され寛げられている。

 茅乃は固く目を瞑ろうとした。視界から遮れば、まだ精神がもつかもしれない。そう思ったからだ。


「……ねぇ……お姉さん、見てよ、俺の……ほら……彼氏のとどっちがデカい……?」


 彼氏の、ってなに。

 なんなのこいつ、怖すぎる。


 閉じようとした目は、彼女の意思とは裏腹に大きく開いてしまう。

 場所が場所だけに、蓮と待ち合わせているところでも見られていたのかと、茅乃の血の気が引いていく。

 どうして自分ばかりがこんな目に遭うのだろう。こういう危険を避けたいから地味で目立たない格好をしているのに、なんの意味もない。ぐらぐらと揺れる茅乃の頭の端を、そんな考えが過ぎっては消えていく。


 大きく開かれた茅乃の両目が、とうとう、恍惚と歪められた男の目元を捉えた。


 視線を動かしてはならない。もう一度目を閉じないと……早く。

 早鐘を打つ心臓にもはや痛みを感じながらも、死に物狂いで茅乃がそう思った、その瞬間。


 ――ゴ、と鈍い音がした。


 重々しい音が聞こえると同時、怒号じみた声が狭い空間に反響する。

 堪らず、茅乃は背筋を凍らせる。だが、その怒号は変質者のものではなかった。


 男が後方に引きずられていく。駐車スペース側へ連れていかれた男は、後頭部を手で押さえながら意味不明の悲鳴を撒き散らしていた。吸い殻まみれの袋小路に取り残された茅乃の耳にも、その声ははっきり届いた。

 男の口から飛び散った唾液が看板の明かりに照らし出される。遠目にもかかわらず、それは無駄に鮮明に覗いた。口元を押さえ、茅乃は堪えきれずにくぐもった呻きを零す。


 不快な悲鳴はいつしか聞こえなくなっていた。

 ゆっくりと視線を上げた先に、コンビニ客と思しきスーツ姿の男性と年配の男性が走っている姿が見えた。それから、蓮くらいの齢の男子高生の姿も見える。蓮くらいの……蓮。


 ――蓮くんは?


 そのときになって、茅乃は、倒れた自分に触れる手のひらの感触に思い至った。


「かや姉……かや姉!!」


 肩を揺すられ、はっと我に返る。間近に迫る蓮の顔を、ピントのずれた視界が徐々に鮮明に映し出していく。

 焦った声で茅乃を呼ぶ蓮は、眼鏡をかけていなかった。

 よく見ると、彼の目の下には擦れて赤くなったような傷がある。できたばかりと思しきそこへ焦点が定まった途端、きつく掻き抱かれた。反射的に、茅乃も広い背中にしがみつく。


 蓮の呼吸は荒く、微かに血の匂いもした。

 大きな手に触れると、彼は低く呻いて茅乃から指を放した。擦り切れて血を零す手の甲が覗き見えた瞬間、茅乃の瞼からぽたりとひと粒涙が零れる。


 蓮が助けてくれた。

 でも、そのせいで怪我させてしまった。これほど危ない目に遭わせてしまった。


「蓮くん、け、怪我してる……」

「ちょっと擦っただけだ、危ねえからこっち来て。ったく、どんだけ変態引き寄せ体質なんだよあんた」

「……ごめ……」


 ここは果たして自分が謝るところなのか。

 そう思ったら確かにおかしかったはずなのに、笑えそうになかった。震えた声では謝罪もうまく伝えられず、茅乃は蓮の腕にしがみつくしかできない。


 足元の覚束ない茅乃を抱きかかえながら、蓮は薄汚れたその場所を後にした。

 袋小路は、茅乃が思っていたよりも奥まっていない場所にあった。これなら簡単に脱出できたのではと思えるほど、人の集まる場所はすぐ傍だった。

 駐車スペースには、先刻ちらりと見かけた年配の男性と高校生、コンビニの制服を着た店員がいた。お爺さんと高校生は店員に事情を伝えているようだ。


 そのとき初めて茅乃は、気が昂ぶった様子で話し続けるその男子高生が小野寺だと気づいた。


 背筋が粟立つ。懸念したばかりのことが、最悪の形で現実になろうとしている。

 小野寺が、クラスメイトである蓮に気づかないわけはない。そして、蓮が救出した人間が茅乃だとも、すぐさま知られるだろう。


 小野寺を含めた男性たちの声の合間、警察に、という言葉が微かに聞こえた。

 スーツの男性が、拘束するように変質者を押さえ込んでいる。変質者はすでにおとなしくなっていたが、それでも、姿が視界に入れば恐怖が蘇ってしまう。

 竦み上がりそうになる身体を叱咤し、なんとか自分の足で立っていなければと、茅乃はひたすら神経を集中させる。


 とそのとき、興奮気味に辺りを見回していた小野寺が、茅乃と蓮に目を留めた。

 わずかに目を見開いて見えたが、茅乃の予想に反し、小野寺はそれ以上の反応を示さない。今の茅乃がよほど血の気の失せた顔をしているからか、あるいはクラスメイトに抱えられている人間が自分の通う塾の講師だという事実に頭がついてこないのか、理由までは分からない。

 茅乃は深く俯いた。その程度の所作でなにを隠せるわけでもないと分かっていて、だがそうせずにはいられなかった。


「……あの。これなんですけど」


 不意に声をかけられ、茅乃ははっと顔を上げる。

 振り返った先に立っていたのはコンビニの店員だった。彼は遠慮がちに蓮を見つめながら、おずおずとなにかを差し出す。


 どうも、と気まずそうに蓮が受け取ったそれは、フレームのひしゃげた彼の眼鏡だった。

 頬を伝った涙が安堵によるものか、それとも他の原因によるものなのか、茅乃にはもう判別がつかなかった。



     *



 駆けつけた警官へ変質者を引き渡し、茅乃と蓮も交番で事情を訊かれた。

 すべてが終わる頃には、時刻は午後十時を回っていた。


 変質者は、あのコンビニの元店員だと聞かされた。

 男が口走った〝彼氏〟という言葉……茅乃と蓮が待ち合わせしているところを、男はおそらく何度か見ていたのだろう。また、駆けつけた店員が驚いた顔をしていたのは、見知った男が取り押さえられている現場を目撃し、衝撃を受けたからだったのかもしれない。

 自分が勤めていた職場の前でそのような行動に出るとは――男の正気を疑いたくなる。その内心が顔に滲んでしまったせいか、警官が、あの手の変質者の中には〝見せるだけなら〟と軽く考えている輩もいるのだと溜息交じりに教えてくれた。


 警官から「君たちの関係は?」と問われ、茅乃は言葉に詰まった。

 そんな茅乃とは対照的に、蓮は「近所の姉ちゃんです」と即答した。なんの迷いもない口調と態度で答えた蓮に、警官もそれ以上の質問はしなかった。


 蓮の手の怪我は、出血こそ目立っていたものの、やや範囲の大きい擦り傷とのことだった。警官が大判の絆創膏と包帯で応急処置をしながら、痛みがひどければ医者に行くようにと話している。蓮は静かに頷き返しただけだ。

 このところ、変質者を見かけたという通報が増えていたそうだ。さっきの男が方々でやらかしていた可能性は高い。過去に茅乃を襲った露出狂とはさすがに別人のようだが、そういえばあいつは捕まったのかな、と茅乃はぼんやり考える。


 いや、それよりも。

 蓮の言葉を反芻し、茅乃の胸を鋭い痛みが駆け抜ける。


『近所の姉ちゃんです』


 ……その通りだ。ただの、近所の。

 自分はなにを期待していたのか。じくじく痛み続ける胸の奥に、誰より苛立っていたのは茅乃自身だ。


 帰りは、警官がパトカーで送ってくれた。

 蓮の自転車のことが頭を過ぎったが、それを口にできる雰囲気ではなかった。誰ひとり口を開かないまま、パトカーは茅乃のアパートの前に到着し、警官は蓮に「早く帰りなさい」とだけ告げて来た道を戻っていく。


 蓮は帰らなかった。

 パトカーが見えなくなった後も、茅乃の傍を離れようとしなかった。


 がくがくと震える茅乃の身体は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった……だが。

 二度目の救出は、六年前のそれよりも遥かに生々しく、そして血なまぐさかった。繋いだ蓮の手には内出血の痕が滲み、目元には色を濃くした痣が浮かび上がっている。それを目に留めて以降、茅乃は蓮の顔をまともに見られなくなっていた。


 無言で階段を上る。玄関の鍵を開け、ドアを開け、中へ足を踏み入れる。

 隣を歩いていた蓮は茅乃と一緒に室内へ足を進め、ドアが閉まると同時、くるりと逆を向いて茅乃を抱き竦めた。


 身体ごとドアに押さえつけられている。

 拘束に等しい所作に、茅乃の心臓が先ほどまでとは別の意味で悲鳴をあげる。


「あ……蓮くん、あの」

「なに」

「眼鏡、ごめんね。その、今度、ちゃんと弁償する……」

「要らない」

「ほ、本当に、ごめ……」

「そんなのどうでもいい」


 ――今すぐお礼、寄越せ。


 性急な素振りだった。明かりを点ける暇もなかった。

 拘束に近い抱擁の中、茅乃は蓮に荒々しく唇を奪われてしまっていた。

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