《7》混線

 蓮の母親は婿をもらったらしく、彼の名字は東條のままなのだと、何度目か送ってもらったときに聞いた。

 蓮の母方の祖父母は資産家で、母親はひとり娘。そうした事情も重なったようだ。


 新しいお父さん、という呼び方は軽率な気がして茅乃にはできなかった。それ以前に、親の再婚相手の話題を出すこと自体がためらわれた。

 あれこれ尋ねないほうがいい気がした。細かな事情は、蓮が話したくなったときに聞かせてもらったほうがきっといい。彼が話したがらないなら、茅乃が首を突っ込んで問うべきことではない。


 学校に勤めたら、さまざまな子供や家族に出会うだろう。

 果たして自分はそのとき、正しい選択を取れるのか。そんな不安に駆られることも増えた。

 学校は、勉強を教わるだけの場所でも、他人とのコミュニケーションの取り方を学ぶだけの場所でもない。教職に就いた大学時代の友人に、日々の激務に加えて生徒の家族関係のトラブルに巻き込まれそうだと零されたことを思い出す。そう遠くないその記憶は、茅乃の心に重い影を生んでいた。


 最初から分かっていた。

 自分が進もうとしているのはそういう世界で、それが当然で、でも。


 そうした迷いが、試験に臨む己の口調や態度に表れていたのではと、今だからこそ茅乃は思う。仕事に就く前から迷いに溺れる人間など、採用されるわけがないとも。

 それに不採用通知を目にしたとき、茅乃は確かにショックを受けたものの、同時に安堵もしていた。心のどこかでほっとしている自分が嫌で、そんな内心すらも周囲に見抜かれていそうで、だからますます落ち込んだ。うっかり風邪を拗らせてしまうほどに。


 ……結局、翌日までに熱は下がらなかった。


 なんとか身体を動かせる程度には回復し、かかりつけの内科へ足を運んだ茅乃は、ひと通りの診察の後に薬を処方してもらった。市販薬で埋もれかけた自室の薬箱を思い出して苦笑が零れたが、おとなしく調剤薬局で薬を受け取り、帰路に就く。

 昨日までは喉の痛みと咳、そして高熱に苦しめられた。今日には喉が幾分か楽になり、熱もだいぶ下がった。快方に向かっているようではある。


 今日は仕事を休んだが、これなら明日からは出勤できそうだ。そんなことを考えて帰宅すると、ちょうど玄関の鍵を開けたところで携帯が鳴った。

 通話の着信音なんて滅多に鳴らないのに、近頃は妙に頻繁にかかってくる。

 液晶画面を確認すると、登録されていない携帯番号だった。訝しく思いつつも、茅乃はドアを開け、靴を脱ぎながら電話に出る。


 電話越しの声が耳に届いた途端、靴を脱ぎかけた彼女の足元がぴしりと凍りついた。


『あの……辻です、久しぶり。元気にしてる?』


 理解が追いつかず、茅乃の頭は真っ白になる。

 記憶の底から少しずつ、男性にしてはやや高めの声や、登録されていた番号を削除して以降一切のやり取りを避けていたことなどが、わずかな思い出と一緒に蘇ってきた。


 油断していた。

 もう二度と関わらずに済むと、地元に帰ってきたのだから接点はなくなると、勝手に思い込んでいた。相手も自分と同じように、電話番号もメールアドレスも削除したものと高を括っていた。

 そのまま通話を終えてしまおうかと一瞬迷う。が、小刻みに震える茅乃の指では、さすがにそれを実行には移せない。


「……うん」


 玄関の壁にもたれかかって返事をする。

 通話を切られなかったことにほっとしたのか、電話の向こう側の男性――辻は小さく安堵の息をついた。


 急にごめんとか、今時間は大丈夫かとか、そういうことを言われたが、茅乃は彼との間に残る苦い記憶を鮮明に思い出してしまわないようにするだけで精一杯だ。

 間がもたず、茅乃は黙り込んだ。

 できるだけ早くこの通話を終わらせたくて堪らず、掠れた声をひねり出して用件を尋ねる。すると、辻は間を置いた後、緊張の滲む声で喋り始めた。


『その、飲み会で会えたらそのときに伝えようと思ってたんだけど。茅乃ちゃん、今付き合ってる人っている?』

「……え?」

『もし良かったら……その、オレとやり直してもらえないかなって』


 胸が軋む。

 それはできない。絶対にできないが、ストレートにそう伝えることはできそうになかった。


 決して長くはなかった交際期間中、茅乃は確かに辻の言動によって心に深手を負った。だが、辻が狙って自分を傷つけたわけではないことは理解している。

 それに、当時の彼が、自分たちの関係に亀裂が走ったのは自身のせいだという事実を素直に受け入れきれなかっただろうとも分かっているし、それが仕方のないことだったとさえ分かっているつもりだった。

 重苦しい沈黙の後、茅乃は鈍る口元を無理に動かす。


「ごめん。好きな人がいるの」

『あ……そっか。どんな奴?』

「……優しい、人だよ」


 まるで辻が優しくなかったみたいな言い方になった。

 電話越し、辻も同じことを思ったらしい。


『そっか。オレは優しくなかった?』

「……あの……」

『っ、ごめん、未練たらしかった。ずっと後悔してたんだ、せめて謝りたかった。ごめん』


 時の流れは残酷だ。時間が経つことで理解を生む場合もあれば、新しい後悔を生む場合もある。

 辻にとってはどうだろう。

 取り返しがつくと思ったからやり直したいと切り出してきたのか、あるいは駄目だと分かっていながらそれでも伝えずにはいられなかったのか。


 それを察せるほどには、茅乃は辻という人物の内側を知らない。深く理解し合えるほどの時間を、彼と一緒に過ごすことはできなかった。

 そして、彼からたった今提案された〝もう一度〟という選択を取る気にもなれない。それだけは、どうあっても変わらない。


『謝ってすっきりするのって、多分オレだけなんだろうけど。本当にごめん』


 その通りだ。狡い言い方ばかりしやがって、と強い言葉で相手を詰りたくなる。

 だが、謝罪を受け取らざるを得ないストレスよりも、これ以上会話を続けるストレスのほうが、今の茅乃にとっては負担だった。


「……ごめん。私、そろそろ」

『あ……うん、急に電話なんかしてごめん。好きな奴とうまくいくといいな』

「うん。それじゃ」


 相手の言葉を遮るように通話を終えた。恨み言は、最後の最後まで言えなかった。

 それをまっすぐ辻にぶつけてしまえるほど、茅乃は綺麗に過去を清算できるタイプではない。それどころか〝責めるべき相手は彼ではなく自分なのでは〟という最悪の心理状態に陥りやすい。


 その自覚はある。昔も、今も。


 かかってきたばかりの携帯番号を着信拒否に設定する。

 自衛のための手段に他ならないのに、そんなことにすら罪悪感を覚えてしまう。

 自分がどれだけ下手な生き方をしているのかを思い知らされた気がして、茅乃は辟易の溜息を零した。



     *



 翌晩。

 コールを五つ繰り返した後、もしもし、と聞き慣れた声がした。

 茅乃から電話をかけるのは初めてかもしれなかった。午後十時半、非常識な時間にもかかわらず通話は繋がり、茅乃はこの上ない安堵を覚える。


 安堵を覚えるのは、果たして正しいことなのか。

 それを熟考できるだけの余裕は、今の彼女にはない。


「あの……ごめんね、急に。今大丈夫?」

『うん。なに、そっちから電話なんて珍しいじゃん。なんかあったの?』


 蓮に伝えて、本当にいいのか。巻き込んでしまうのではないか。

 自分も、引き返せない一歩を踏み出すことになってしまうのではないか。


 確かにそう思ったが、これ以上は無理だった。

 蓮は優しい。たとえ言葉がぶっきらぼうでも、態度がいけすかなくても、茅乃はその優しさにどっぷり浸かって甘えきっている。昔も、今も。


「昨日、元彼から電話があったの」

『……へぇ』

「やり直さないかって、言われた」


 沈黙が降りた。

 重く、長く、息苦しい沈黙だった。


『やり直すの?』

「ううん。やり直さない」

『なんで?』

「好きな人、いるって言った」

『好きな人、いるの?』


 いる、とは言えなかった。

 そんなところばかり躊躇してしまう。こうやって蓮に電話をかけている以上、自分ももうごまかしが利かないところまで来ているのに。


「ごめん。こんな話、蓮くんに伝えるべきじゃなかった」

『なんで?』

「……分かんない」


 謝ってどうしたいのか。

 だったら最初からこんな電話、かけなければ良かったのではないのか。


 辟易も、度を越すと溜息ひとつ出せなくなるらしい。

 ふたりの間に落ちた重すぎる沈黙を先に破ったのは、静かに息を詰めるしかできない茅乃ではなく、蓮だった。


『……かや姉は』

「ん?」

『いや、なんでもない。熱はもう下がったのか? 明日、迎えにいくから』


 そう言われ、明日が火曜ではなく水曜だとようやく気づく。

 熱を出して乱れていたのは、体調だけではないようだ。曜日感覚まで狂いかけている。こういう感覚は随分久しぶりだと、どこか遠い頭で茅乃は思う。


 的外れな考えを巡らせた後、うん、とだけ答え、彼女はそっと通話を終えた。

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