《6》ラッピング

 季節は冬に差しかかりつつある。

 その日、発熱のため、茅乃は朝からベッドの住人と成り果てていた。


 元々、全身の気怠さと熱っぽさを感じていたが、週末でかかりつけ医は休み。かといって、休日診療所に駆け込むほどかと考えるとそこまでではない気がした。

 そんな不安定な状態のところに、一通の封書が届いた。おそらくはそれがとどめの一撃になった。


 教員試験、不合格通知。

 二度目の不採用が決定し、張り詰めていたものが切れた。


 ショックだった。だが、今回は迷いがあった。それが伝わったのかもしれないと思えば、素直に落ち込むのも憚られる。

 複雑に蠢く心境が、実はすべて周囲に露呈してしまっていたのでは。そんな気にすらさせられ、茅乃はさらなる窮状に陥りかけていた。


 悶々としたショックも相まってか、今朝には熱は三十九度を超えた。

 節々が痛むほどの発熱は数年ぶりだ。唾液を飲み込むたび喉が焼けるように痛み、うっかり喉を鳴らせば咳が止まらなくなる。

 健康だけが取り柄なのに……もっとも、日頃自分をタフだと思っている人間ほど、体調を崩したときの対処に慣れず重症化しやすいのかもしれない。


 なにも食べたくない。作る気力もない。立ち上がるのも億劫だった。

 時刻はすでに午前十時を回っている。今日が休みで良かったが、寝ている以外になにもできそうにない。明日まできちんと回復できるかどうか……ただでさえ割れるような頭痛に襲われている茅乃の頭が、余計にぎりぎりと軋む。


 こんなことなら、昨日、悪寒を感じた時点で早退して医者に行けば良かった。今となってはどうにもならない後悔が頭を過ぎったそのとき、携帯電話がけたたましい音を立てて鳴り始めた。

 這いつくばり、茅乃はローテーブルに置いた電話を手に取る。


 電話は蓮からだった。ほうほうのていで通話ボタンを押し、彼女は無理やり声をひねり出す。


「もしもし……」

『は? なにその声、風邪?』

「多分。なんか熱出た……そんなことより用件は……ゴホッゴホゴホッ!」

『っ、待ってろ。すぐ行く』


 ぶつん、と唐突に通話が切れた。

 焦りが滲んだ声の最後、告げられた言葉の意味を受け取り損ねた茅乃は、呆けたように液晶画面を眺める。


 すぐ行く、とはどういう意味だ。

 この部屋の場所はもちろん蓮も知っているが、こんなことのために駆けつけてくれるなんてあり得るだろうか。それに、そもそも電話の用件はなんだったのか。

 疑問を覚えつつも、茅乃の身体は碌に動かない。散らかった部屋を片づけることもできずぼうっとしていると、やがてインターホンが無機質な音を立てた。


 ……嘘。まさか本当に?

 信じきれないまま、茅乃は重い身体を玄関まで引きずっていく。


 鍵を開けた途端、焦り顔の蓮が飛び込んできた。

 そのときになって、パジャマ姿に加えてすっぴんという自分の格好に思い至り、茅乃は白目を剥きかける。一方の蓮は、息も絶え絶えな茅乃をひと目見るなりその腕を掴んだ。


「なんだよ、すげー熱いんだけど! 医者は!?」

「いや、昨日から具合悪かったけど、週末だったし行ってない……」

「バッカじゃねーの! ほら、薬買ってきた。なんか食ったか?」

「駄目、食べらんないし作れない……ていうか別に馬鹿じゃない……」

「いいから掴まれ。部屋、入るぞ」


 散らかった室内を思い返し、茅乃は一瞬ためらった。だが、もう〝散らかってるから駄目〟などという言い訳が通用するとも思えない。

 それに、水を一杯飲むにも難儀するほどの体調だ。介助してくれる人がいる状況は願ったり叶ったりだった。


 ふらふらと引き戸を開けた茅乃は、背後の蓮をそっと振り返る。

 しかしたったそれだけの動作で眩暈に襲われ、堪えきれず壁に寄りかかってしまう。


「ごめん……電話、なんか用事だったんじゃないの?」

「無理して喋んな。ったく、そこまで悪化しといてなんで医者行かねえんだよ」

「……すみません……」


 昨日はもう夜遅かったから。

 今日は日曜日で、病院はどこも休みだから。

 いろいろ言い返したかったが、すべてを言葉にするのはさすがに億劫だった。


 掴まり方が覚束なかったためか、溜息をついた蓮が、おもむろに茅乃の膝の後ろに腕をかけた。

 身体がふわりと宙に浮いたせいで、茅乃の喉から弱々しい悲鳴が零れる。そのときになってようやく、茅乃は自分がお姫様抱っこで運ばれていると思い至った。

 唐突な接触に、発熱とは別の意味で心臓が軋む。ほぼ同時に、六年前に『重い』と言われたことを思い出し、彼女は言いようのない焦燥に駆られてしまう。


「や、重いからいいってば……っ」

「こんな軽っこい癖になに言ってんだ」

「っ、重いって言ってたじゃん昔!」

「昔って……何年前の話してんの、あんた?」


 呆れたようにぼやいた蓮は、結局ベッドの上まで茅乃を運んだ。

 息を乱している様子はない。軽っこい、と評していたのはあながち嘘ではなかったのかもしれない、と茅乃は思う。


 部屋は、普段にも増して散らかっていた。特にローテーブルの上はぐちゃぐちゃで、書類やら体温計やらマグカップやら、とにかく煩雑に物が置かれている。この部屋に蓮を招くのは初めてではないが、茅乃は恥ずかしくてならなかった。

 だが、当の蓮は気にしていないらしい。一度玄関へ戻り、再び室内に入ってきた彼の手には、ドラッグストアのビニール袋がさがっていた。


「ほらよ、薬」

「おぉ、ありがと……って二、三、四……なんで五箱も買ってきたの……」

「いや、どれがいいのか分かんなくて」


 決まり悪そうに呟く蓮の顔を見て、茅乃は思わず噴き出した。


「こんなに買って、お金大丈夫だった? 薬って高いでしょ」

「小遣い使い果たした……あんなに高いと思わなかった」

「馬鹿じゃないのアンタ……でもありがと。かかった分、後で払うから」


 咳き込みながらも茅乃が礼を告げると、蓮は少し嬉しそうに笑った。

 その彼の視線がなにげなくローテーブルの上に向かったため、つられてその先を追いかけた茅乃は、そのときになってはっとする。

 テーブルには体温計やマグカップに交じり、昨日届いた不採用通知と、それが入っていた茶封筒が散らばっている。書類を目に留めた蓮が、微かに息を呑んだように見えた。


 隠していたわけではないが、なんとなく気まずい。

 降って湧いた居心地の悪さに、茅乃はつい黙り込んでしまう。そんな彼女には向き直らず、蓮がぽつりと呟いた。


「かや姉、先生目指してんの?」

「……うん。けど今回も落ちちゃった。さすがにもう諦めるつもり」


 妙な沈黙が流れた。だが、それ以上はなにも訊かれなかった。

 ビニール袋を漁り、「こういうのなら食えそう?」とゼリー飲料を取り出した蓮の顔には、驚きの色はもう浮かんでいない。茅乃は心底ほっとする。


「ありがと。今日は後光が差して見えるよ、蓮くん……」

「は、そりゃ良かったな。薬飲む前に腹に入れとけ、ほら」


 ぶっきらぼうにゼリーのパウチを手渡されたものの、丁寧にもキャップは外されていた。どこまで過保護なのかと苦笑が浮かんだ茅乃だったが、指に力が入らないから助かる。

 ちゅるちゅるとゼリーを啜る。ほんのり冷たいそれは、腫れた喉に気持ち良かった。


「薬も飲んじゃうか? どれにする?」

「あ、うん。こんなによりどりみどりなのって初めてだな……じゃあこれで」


 カプセルタイプのほうが早く効くかと、その箱を指差す。

 またも丁寧にひと粒ずつカプセルを取り出してくれた蓮の甲斐甲斐しさに、茅乃はひっそりと感動を覚えた。まるで子供の世話をする親だ。

 コップを受け取り、カプセルを喉へ流し込み、ようやく茅乃は安堵の息を零した。


「ありがと。多分もう大丈夫、後は寝ればなんとかなる気がする」

「そうか」

「うん。あ、ところで蓮くんの用事ってなんだったの?」

「……いや、大したことじゃないけど。かや姉、こないだ誕生日だっただろ」

「あ、そうだったかも。忘れてた」

「……あっそ……」


 げんなりした声でぼやかれた直後、ぽん、となにかが茅乃の枕元に置かれた。

 首を曲げると、綺麗にラッピングされた小さな箱と、くすんだピンク色のリボンが目に飛び込んでくる。堪らず、茅乃は目を見開いた。


「嘘……本当に覚えててくれたの?」

「……まあな」

「開けていい?」

「安物だけど文句言うなよ」

「言うわけないじゃん、すごく嬉しい。あっ、指痺れてて開けられないや、開けてくれません?」

「なんの羞恥プレイだよ……後で開けろよ、今じゃなくてもいいだろ」

「やだ、今がいい。できれば包装紙も破らないで。可愛いから取っておきたい」


 面倒な注文を次々と口にする茅乃に、少々苛立った態度を覗かせつつも、蓮は慎重にラッピングを剥いでいく。

 箱だけになったそれを手渡され、茅乃はゆっくりと蓋を開いた。


「なにこれ、可愛い……」


 中に入っていたのは、ラッピングのリボンと同じ、ブリティッシュローズカラーのシュシュだった。

 思わず可愛いと口にしたが、どちらかといえば綺麗と表現したほうが合う。白とシルバーの細いラインがサイドを飾り、トップにはそれぞれ同系色のバラのモチーフが、色違いで三つ添えられている。華やかながらも落ち着いた雰囲気のある、フェミニンな品だ。


 シュシュなど、自分では百円ショップでしか購入しない。しかも大概黒かグレーのアイテムを選んでしまう。

 高熱も手伝い、茅乃の涙腺がひと息に緩んだ。


「ありがと、嬉しい。大事にするね」

「……なに泣いてんだよ、馬鹿じゃねえの」

「うるさい……熱のせいだし……」


 バラの花びらのグラデーションを、茅乃は震える指で撫でる。

 忙しさにかまけて自分の誕生日さえ忘れていたのに、こうしてプレゼントをもらえるなんて想像もしていなかった。

 全身を苛む気怠さも忘れ、茅乃がお礼の言葉を告げようと顔を上げた、その瞬間。


 ふと、部屋の電気がかげった。


「……かや姉はなにも分かってない」


 傍で揺れる髪が、自分のものではなく蓮の前髪だと気づいたときには、すでにやわらかな感触が茅乃の唇を覆った後だった。

 掠れた声が聞こえてきた直後、ちゅ、と微かな音が届き、ぬくもりはゆっくりと離れていく。覆い被さるように枕の片側に置かれた腕もまた、静かに離れていく。

 言葉を出せないどころか瞬きひとつできずにいる茅乃へ、視線を外したきり、蓮はくすりと笑いかけた。


「こういうときに目を閉じないのは癖?」

「……な……」

「帰るよ。今日はもう寝てろ、後でちゃんと鍵かけろよ」


 最後まで目を合わせてはもらえなかった。

 玄関のドアが閉まる音がした頃、金縛りにでも遭ったかのように動けなくなっていた茅乃の身体が、ようやく動きを取り戻す。


 堪らず、茅乃は腕で目を塞いだ。


 長めの蓮の前髪が、まだ視界に映り込んでいる気がしてならない。

 またも不意打ちだった。顔は見えなかったが、部屋を出ていく後ろ姿、わずかに見えた彼の耳の裏側は赤かったと思う。


 ……こういうの、困る。事前に断りを入れてほしい。

 かといって、断りを入れてもらえるならされてもいいのかと問われれば、多分そうではない。

 熱のためか、考えがうまくまとまらない。


『かや姉はなにも分かってない』


 茅乃の気のせいでなければ、そう告げる蓮の声は苦しげだった。

 掠れた声がリフレインする頭はずっしりと重く、そして熱い。このまま溶けてしまいそうで、けれど別にそれは不快感も不安も生むことはなく、むしろ。


 ――〝むしろ〟、なに?


「……寝れるかっつの……」


 ごろりと寝返りを打つ。

 その先に、綺麗に折り畳まれた包装紙とリボンが覗き見え、茅乃はますます寝られる気がしなくなってしまった。

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