《5》一日家庭教師

 前回送ってもらった際、休日の話になったとき。


『へぇ、日曜日休みなのか。じゃあ次の日曜日って空いてる?』


 そう訊かれて『空いてるよ』と答えた茅乃へ、蓮は少々緊張した面持ちで『勉強を見てほしい』とお願いしてきた。

 茅乃はとにかく蓮に甘い。決まり悪そうに頼まれ、そこで断れる彼女ではない。即座に了承し、だが。

 当日――今日になってから、茅乃は大いに頭を抱えていた。


『じゃあ、日曜はかや姉の部屋に行くから』


 あの日、蓮はそう言った。

 蓮可愛さのあまり、その意味についてほとんどなにも考えず頷いてしまった。結果、自室に客人を招く機会などまずない茅乃は、早朝からひとり大わらわである。


 着る物、髪型、メイク……なにもかもに悩み尽くし、朝からほとほと疲れ果てていた。もういつも通りでいいと割りきった後、茅乃は地味な色のみで構成されたクローゼットの中を再び漁り出した。

 仕事にはスーツを着ていくから、おしゃれな服など碌に持っていない。ここ一年ほどは一着も服を買っていなかった。

 冬はコートさえあればなんとかなると平気で思っていたし、こんなことにならなかったなら今でも思い続けていたはずだ。


 ダークグレーのセーターと膝下丈の黒いスカート、タイツの果てまで黒というコーディネートになった。

 寒さへの対策だけを考えて購入したタイツは強烈に分厚く、茅乃の口から堪らず溜息が零れた。仕方がない。これしかないのだから。

 バタバタと掃除したり自嘲したり呻いたりしているうち、あっという間に約束の時間になった。部屋の前に到着した蓮は、黒ずくめの茅乃をひと目見るなり、分かりやすく口元を押さえた。


「かや姉……通夜でもあんのか、今日?」

「ないよ! これが精一杯の休日スタイルなんだよ、仕方ないでしょ!」

「ふーん。まぁいいや、お邪魔しまーす」


 地味だとか、もっと可愛い服は持っていないのかとか、蓮はそういうことは言わなかった。

 関心がないだけかもしれないが、元々、蓮は茅乃の外見に関して得意の毒舌を披露しない。思えば高校二年生のあの救出劇の後、スカートの長さや眼鏡など、すべてを地味な方向にイメージチェンジしたときも、蓮はなにも言わなかった。


 小さく安堵を覚えつつ、茅乃は普段着姿の蓮を招き入れる。

 制服を着ていない蓮を見るのは、再会後は初めてだ。パーカーにジーンズというごく普通の格好だが、上背があるからか贔屓目が働いてか、茅乃の目にはやはり相当に洗練されて映ってしまう。


 蓮の右手にはビニール袋が提がっていた。

 駅ビルに入っている洋菓子屋の袋だ。茅乃がそちらへ目を留めると、蓮は少々かしこまった様子でその袋を突き出してきた。


「ええと、今日はよろしくお願いします。かや姉、ショートケーキ好きだろ? 奮発した。これを今日のお礼代わりにしていただきたい」

「えっ、丁寧すぎて逆に怖いんだけど。私、高校生の担当ってあんまりしてないし、大してお役に立てないかもしれませんが……ってアンタ本当に蓮くん?」

「会って早々失礼なこと抜かしてんじゃねえよ、いいからさっさと部屋に入れろ。外すげー寒かったんだぞ」

「あ、やっぱりただの蓮くんだった。ってショートケーキ一個しかないじゃん! もう一個はチーズケーキかぁ。蓮くんはチーズケーキでいいの?」

「いや、どっちにするかはジャンケンで決める」

「は、おかしくない!? ならショートケーキふたつ買ってきてよ!」

「ギャーギャーうるせーな、仕方ねえだろショートケーキは高いんだから……な、後で一緒に食べよ? お昼も一緒にどこか食べにいきたい」


 さんざんな言われようの後、最後だけ可愛らしく言われ、茅乃は毒気を抜かれた。

 首を傾げて愛らしくお強請りをされ、それ以上ガミガミと文句を垂れ続けられるはずもなかった。なにせ茅乃は単純だ。そして絶望的なまでに蓮に甘い。


「もう……仕方ないなぁ」


 緩んだ顔を直す間もなくすぐさま了承した茅乃を、蓮は若干小馬鹿にした目で見つめていたが、残念ながら茅乃はそれにも気づけなかった。



     *



 詳細を尋ねると、試験が近いから苦手な部分をおさらいしたい、との話だった。

 小学生の頃は宿題の手伝いを申し出ても鼻で笑われてばかりだったが、その蓮が頭を下げてまで勉強を見てほしいと切り出してくるとは。彼を居室へ招き入れながら、茅乃は新鮮な気持ちになる。


 茅乃が勤める教室にも、蓮と同じ高校に通っている生徒が数名いる。その生徒たちを担当する際には、できるだけ丁寧な事前準備を心がけていた。

 弱点を克服するために塾に通う子は多い。ゆえに、いかに分かりやすく噛み砕いて伝えられるかがポイントになる。知識が深いかどうかと、理解を深めさせる教え方ができるかどうかは、基本的に別問題。改めてそう思い知らされるのはそういうときだ。


 見てほしいと言うわりに、蓮の鉛筆の動きはスムーズだった。

 苦手科目は数学らしいが、ときおり筆先が止まっても、さほど時間を空けずにまたするすると動き出す。


 進学校へ通う子は、周囲の生徒も軒並み優秀という環境に置かれている。中学まで成績が上位にあった子でも、中位、あるいは下位に簡単に下がってしまう。そのせいで自信を喪失する子も少なくない。

 茅乃自身、似た体験をした友人を過去に何人も見てきたし、現在の教え子の中にもそうした子はいる。プレッシャーに強くなることや、気持ちの切り替えがうまくできるようになることも、きっと勉学に励むことと同様に重要だ。


 想像はしていたが、蓮は実に手のかからない〝生徒〟だった。


 たっぷり一時間、集中して問題集へ取り組んだ彼に休憩を促し、茅乃は買ってきてもらったケーキを冷蔵庫から取り出す。

 さっきまでの静まり返った空気が嘘のように、ふたりで騒がしくジャンケンをして、五度のあいこを経た後に茅乃が勝利した。

 露骨な舌打ちが聞こえてきたが、約束なのだから諦めてもらうより他ない。喜々としてショートケーキに食いつきながら、茅乃は高校生の頃から愛用しているフォークを蓮の目の前でちらつかせて見せた。


「羨ましいか? 食べたいか? ほしけりゃ『あーん』してみな、んん?」

「まったく変わってねえなあんた……なんかかわいそうになってきた」

「やかましい! ちょ、しかも食べんの!?」


 ぱくりとフォークに食いつかれ、室内に茅乃の絶叫が響き渡る。

 ふと懐かしい気分になり、茅乃はもうひと口、蓮の口元へケーキを運んだ。哀れむような目で茅乃を眺めながらも、蓮は差し出されたケーキを遠慮なく口に含む。こういうときだけは年相応に見えるな、と茅乃は微笑ましい気分になる。


「まだこのフォーク使ってんだな。物持ち良すぎ」

「まぁね! アンタこそよく覚えてたね、そんなの。どう? 見直した?」

「いや特には」

「はいはいそうですか。あ、そういえば蓮くんが通ってるのって楯一たていちでしょ? 超進学校じゃん」

「あー……まぁな」


 楯一、というのは〝たてさき第一高校〟の略称だ。

 県立高校の中では指折りの進学校で、近隣市町村に絞ればダントツの偏差値を誇っている。茅乃にとっては、高校受験の折に早々に諦めたという苦い思い出のある高校だ。


「なにその半端な返事。しかしさすがだね、小学生の頃から神童と呼ばれていただけのことはある……」

「いや呼ばれてねーし」

「私が陰でこっそり呼んでたことは知ってるかね?」

「知らねえよ!」


 心底面倒そうに返事しながらも、蓮はどこか楽しそうだ。

 あれから、こんなふうに腹を割って話せる友達はできただろうか。ひねくれ者の弟を見守る姉のような気分になる。しかし、同時に罪悪感に似た気持ちも抱いてしまい、茅乃は息苦しさを覚えた。


 進学という変更の利かない事情があったとはいえ、姉弟のように仲良くしていた蓮を残して町を出たのは自分だ。そんな自分が、見守るなどと言えた義理ではないのかもしれない。

 揺れる茅乃の内心を知ってか知らずか、蓮はフォークを動かしながら楽しげに口を開く。


「かや姉の塾に通ってる奴、クラスにもいるよ」

「えっ本当? あ、でも確かに楯一の子は何人かいる。知ってるかな、小野寺くん。えっと下の名前なんだったっけ、小野寺……小野寺ユウキ? いや、ユウトだっけ」


 楯一の生徒と言われ、茅乃の頭にぱっと思い浮かんだのは小野寺だ。

 小野寺のイメージはかなり鮮烈だが、下の名前はうろ覚えだ。ぼんやりと残る記憶を引っ張り出そうと眉を寄せていると、呆れ顔の蓮が呟く。


「祐希、だな。うわ……かや姉、小野寺なんかと仲いいの?」

「なにその引き気味な反応! いや、仲がいいっていうか、私は小学生の担当が多いからあんまり顔合わせないけど、まぁナメられてるとは思うよね。契約スタッフだし、私」

「ナメられ……なんかすげえ分かる……」

「は!? 失礼なこと抜かしてんじゃないよ!!」

「あんたが先に言い出したんだろ!」


 自覚している事柄でも、他人に面と向かって言われると違った苛つきがある。互いに声を荒らげ、それから一緒に噴き出してしまう。

 声をあげて笑い合いながら、しかしそのとき、茅乃の心の中には小さな焦燥が芽生えていた。


 ――蓮くんのお迎え、あまり周りに見られないようにしないと。


 蓮と小野寺が同じ高校の生徒だということは、蓮と顔を合わせたその日のうちに気づいていた。

 曲がりなりにも、茅乃は塾の講師だ。中学生以上の生徒なら、制服を見ればどこの学校の子かといった判断はすぐにつく。加えて今の蓮の口調から、ふたりが顔見知り――もしくはそれ以上の友人関係にあると窺い知れた。

 小野寺はあの通りの性格で、しかもかなりのお喋りだ。万が一、蓮と並んで歩く姿を見られでもすれば、近所の子だと説明したところで信じてもらえるか分からない。最悪、詳細をあれこれ説明するより先に、根も葉もない噂を流されてしまう可能性もある。


 茅乃の背筋を、ひやりと冷たいものが流れ落ちていく。

 生徒とその家族からの信頼が、他のなによりも評判に影響しやすい職場なのだ。事実はどうあれ、高校生を相手に妙な噂が立とうものなら、茅乃の立場は簡単に危うくなる。


 鉛のような思考を巡らせていると、不意に蓮が周囲を見回した。

 ケーキの皿はすでに空で、なんだかんだ言ってチーズケーキも好きなんだよなこの子、と茅乃は微笑ましく思う。


「かや姉、案外可愛いもの好きだよな」

「えっ……な、なんで?」

「いや、この部屋入ったら誰だってそう思うし」


 地味な格好ばかりしている茅乃がそんなことを言われるのは久しぶりだ。

 そう。元来、茅乃は可愛いものが大好きだ。それを外見に反映させる機会が激減したせいで、彼女は部屋のインテリアや食器類、小物類などにその趣味を活かしていた。普段の茅乃しか知らない人間がこの部屋を見たら、おそらく驚愕の声をあげるだろう。


「高校の頃も乙女チックな部屋だったもんな。俺が見たときはもうだいぶ片づけられてたけど」


 懐かしそうに言われ、茅乃の肩が小さく震えた。

 蓮の表情は、先ほどからあまり変わっていない。一方の茅乃は真逆だ。瞬く間にあの日の感触と熱を思い出し、カッと顔が熱くなる。


 小学校の卒業式の日、この子を部屋に上げたことは、やはり夢でも妄想でもなかった。だが、蓮は平然とあの日について口にしていて、自分だけがこんなにも挙動不審な態度を取っている。

 どうしたらいいのか、次になにを言えばいいのか、瞬時に分からなくなる。


「……なに?」

「な、なんでもない!」

「嘘つけ、真っ赤だぞ。もしかして思い出した?」

「っ、なに、を……」


 余裕の滲む微笑みが憎らしい。

 しかし、からかいの態度はすぐに掻き消え、蓮は気が抜けたような笑顔を浮かべた。


「はは、真っ赤だ。かや姉、全然変わってねえから安心する」


 屈託のない表情に、茅乃の目が釘づけになる。

 可愛いと思った。同時に、まずいな、とも。


 ただの近所の子では、すでになくなってきている。


 ここは大人の自分が毅然とした態度を取るべきで、けれどこれほど安易に顔を赤くしたり肩を震わせたり、あからさまな反応を示してばかりの自分に、果たしてそんなことができるのか。

 これではどちらが大人か分からない。曖昧に口元を緩ませながら、茅乃は心の中で溜息を零した。

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