《4》水曜日、五分間

 何度か水曜日が巡った。

 週に一度、それもたった五分程度。四年以上顔を合わせていなかったふたりの、瞬きする間に終わってしまうようなひとときを、茅乃は密かに楽しみにしていた。


「結構遅い時間まで働いてんだな、かや姉」

「仕事が仕事だからね、仕方ないよ。蓮くんは塾には行ってないの?」

「うん。前は行ってたけど面倒くさくなって辞めた」

「なにその理由。ちゃんと行きなよ、受験どうすんの?」

「えー。だって……」


 以前に比べ、蓮はますます面倒くさがりな男の子になっていた。

 小学生の頃とばかり比較して申し訳ないが、茅乃の中での比較対象がそれしかない以上は仕方がない。


 加えて、蓮はとても格好良い男の子に成長していた。茅乃としては、自分のような地味な人間がノコノコと隣を歩くなど気が引けるし、恥ずかしくも感じる。

 茅乃がかけると野暮ったくしかならない眼鏡も、蓮がかければシャープでスマートな印象になる。眼鏡自体の違いや、天使と凡人という素材の違いがあるとはいっても不公平だ。もっとも、茅乃は自分が凡人でまったく構わないと思っているが。


 学校では、女子生徒という女子生徒の視線を掻っ攫っているに違いない。

 そんな子にわざわざ時間を割かせていると思うと、それだけで心苦しさを覚えてしまうが、蓮はその点を気にする素振りを特に見せなかった。

 ふと、茅乃は高校二年生だった頃の自分を振り返る。部活に入っていなかった分、確かにさほど忙しい高校生活ではなかった。案外そんなものなのかもしれない。


 蓮は自転車で通学しているそうで、茅乃を送り届けた後、そのまま帰路に就く。ふたりが顔を合わせるのは週に一度、茅乃の職場から自宅アパートまでの、五分前後の短い時間だけだ。

 再会したときから変わっていない。自転車を引く蓮の隣を歩いて、それだけ。


 優しい子だ。

 見返りを求めるでもなく、部屋に上がり込むでもなく、毎回、蓮は茅乃が拍子抜けしてしまうほどあっさり帰っていく。


 半ば騙される形で奪われたファーストキスの件がある以上、お礼と称してまた見返りを期待されるのでは、などと考えていた自分を茅乃は心底恥じた。

 だいたい、あのときも蓮は危険を顧みず茅乃を助けてくれたのだ。彼に助けてもらえなかったらどうなっていたかと思うと、背筋が冷える。


 ……背筋が冷えて、するすると別の記憶の糸が引き上げられてしまう。


 それ自体が危険なのだと、茅乃が初めて気づいたのは大学時代だった。

 結局、現実に起きていることがすべてだ。実際に変質者に襲われた高校二年生当時には認識できていなかったトラウマは、時を経て似た状況に立たされたとき、瞬時に茅乃の中でフラッシュバックして弾けた。


 弾けるきっかけとなったのは、ひとりの男子学生だ。

 茅乃に想いを寄せ、熱烈な告白を何度も繰り返してくれた、まっすぐで盲目で不運な男の子。


 私なんかを好きになったばっかりに、彼は。


 脳裏に浮かび上がりかけた記憶を、茅乃は無理やり掻き消した。

 慌てて別のことを考え、気を紛らわせる。そうしないと自分がもたないからだ。


 短いやり取りの中、茅乃は蓮の母親が再婚したことを知った。

 口早にその詳細を話す蓮の顔には、特別な感情は浮かんでいなかった。起きたできごとを淡々と受け入れている、そんな彼の態度と表情に胸が締めつけられたのは先週の話だ。


 自分が大学に行っていた四年間、蓮はどんなふうに過ごしていたのだろう。

 下校後、まっすぐ我が家に足を運んでばかりだった小学生時代の彼を思い出すと、茅乃は途端に息苦しくなる。


 蓮に送ってもらう時間は楽しい。

 職場近くのコンビニで待ち合わせをして、ふたりで並んで歩きながら、他愛もない話をする。たった五分でも、仕事や私生活でストレスを溜め込みやすい茅乃にとって、それは確かに気分の晴れるひとときだった。だが。


 蓮は高校生だ。二年生だからまだ先の話ではあるが、進路の話題になった際、志望校は県外の大学だと聞かされていた。

 そうなれば、いずれこの時間には終わりがやってくる。

 いや、それ以前の問題だ。高校生とふたりきりで歩く……社会人の自分がこんなことをしていていいのか。そんな不安が過ぎっては、茅乃の胸はじくじくと疼き出す。


 蓮は可愛い。だが、再会して以降はただ可愛いだけではなくなってしまった。むしろ再会前からずっとそうだった気もしてくる。

 不意打ちのファーストキス、息がかかるほど寄せられた顔、ドアに押さえつけられる自分の身体。

 時間が経てば経つほど、そのどれもが現実にあったことだと思えなくなる。今こうやって蓮の隣を歩いていても、その気持ちは変わらない。


 蓮がその手の思い出話を切り出してこないことも、きっと影響していた。

 まるで過去のできごとなどなかったかのように、ふたりは一週間に五分だけ一緒に過ごし、別れる。どれもが自分が見た夢か、もしくは単なる妄想だったのではと、茅乃はいつも惑わされてばかりだ。


 茅乃のほうがわずかに高かったはずの身長は、頭ひとつ分も追い越されている。今ではかなり首を曲げて見上げないと視線が合わない。再会した日に支えてもらった腕も、自分のそれよりずっと力強かった。

 かよわい女の子にでもなってしまった気分だ。当然、もう〝女の子〟という齢ではないことくらい分かっている。


 声変わり前が思い出せないほど低く落ち着いた声。

 年季入りのランドセルの代わりに手に提がる、黒い学生鞄。

 僕、ではなくなった一人称。


 蓮を包むそういう要素が、茅乃を現実から引き剥がそうとする。

 得体の知れない浮遊感に呑まれたくなかった。それでも、『送る』という彼の言葉をあれ以上拒めなかった。躊躇を残したまま、週に一回のその日の訪れを、今の茅乃は心待ちにしてしまっている。


 ……なんだかいろいろぐちゃぐちゃだ。

 蓮に気づかれないよう視線を落とした茅乃は、口の中でそっと溜息を噛み殺した。

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