《3》デジャヴ

 職場から自宅アパートまでの距離は、歩いておよそ五分程度だ。

 家賃の張らない、単身用のワンルームを選んだ。帰宅は夜遅くなることばかりで、また母親からもそうするようさんざん言われていたから、勢いに押されつつ勤務場所に近い物件に決めた。


 ――秋も徐々に深まり始めた季節、職場からの帰り道にそれは起きた。


 週に一度の定時勤務日、朝からの仕事を終え、午後四時前にタイムカードを押して帰路に就いた。

 その道中、茅乃は躍起になって家路を急いでいた。

 誰かにつけられている感じがしたからだ。


 通勤路にひとつだけある信号の待ち時間、そっと背後を振り返った茅乃は背筋を凍らせた。六年前、実家近くの公園で自分を襲ったコート姿の変質者が見えた気がしたせいだ。

 コートを着て歩く人も、ちらほら見かける季節になった。それに背後の人物も、一見どこにでもいそうなサラリーマンに見えなくもない。

 だが、あの変質者もひと目見た感じではそうだった。やや太めの中年男性、コート姿――珍しくもない特徴ばかりだが、一致はしている。


「……っ」


 足を速める。背後からの足音など、よほど耳を澄ませなければ聞こえないだろうに、なぜかはっきり茅乃の耳に届く。自分の歩く速度に合わせて速まった気すらした。

 辺りはまだ明るい。暗がりで襲われる心配はないが、それが逆にあの日と重なるようで怖かった。


 自宅アパートに近づくにつれて道は細くなり、人通りもぐっと減る。

 午後四時前、平日、秋という季節……まずい。茅乃の頭の中で、けたたましく警鐘が鳴り響く。

 あとわずかでアパートの傍の公園に差しかかってしまう。もちろん、茅乃の実家近くの公園とは違う場所だ。だが。


 どこかゆっくりとしたフラッシュバックは、しかし無駄に勢い良く加速していく。

 迂回しようか。いや、それは意味がない。この状況で公園という場所が恐ろしくて仕方ないのは、茅乃の個人的な問題でしかないのだ。


 とはいっても、大学時代に起きたあるできごとをきっかけに、脅迫観念にも似た不安は茅乃の中でことさら顕著になっていた。

 感じる不安は爆発的に膨れ上がっていく。

 眩暈がする。足が震え、膝が傾ぐ。歩けそうになくなり、堪えきれずその場にしゃがみ込みそうになった、そのときだった。


 強く腕を引かれ、ひ、と掠れた声が零れた。

 ぐらつく視界を無理やり広げた先に、学ラン姿の高校生らしき人影が覗く。


「かや姉、大丈夫か」

「……あ……」


 不機嫌そうに寄せられた眉を目にして、茅乃は呆然と声を落とす。

 懐かしい呼称で呼ばれたために、目の前の男子高校生が蓮であると反射的に理解した。


「蓮、くん……?」

「うん。歩けるか?」


 最後に見たときよりも、遥かに背が高くなっている。

 見上げた先で不機嫌そうに眉をひそめる少年と、記憶の中のランドセル姿が静かに重なり、茅乃は震える息を零した。

 中性的な雰囲気をまとう天使のような少年は、当時の面影を残しながらもすっかり成長していた。メタルフレームの眼鏡の奥、昔よりも切れ長になった双眸がまっすぐに茅乃を捉えている。不覚にもどきりとした。


 おそるおそる後方に視線を向けると、背後にはすでに誰もいなかった。

 ……いや、最初から誰もいなかったのかもしれない。堪らず、茅乃は深く息をついた。


 そんな彼女の腕を引き、蓮は公園の中へ踏み入っていく。そのまま、茅乃は遊歩道沿いのベンチに座らされた。

 蓮の所作は、六年前、腰が抜けた茅乃を自宅まで送ってもらったときのそれとよく似ていた。しかし、今では茅乃のほうが背丈が小さくなったからか、有無を言わさぬ迫力が滲んで見える。

 一方で、少年が青年に成長していく段階特有の、あどけなさと成熟の間を行き来するようなアンバランス感も、確かに垣間見えた。


 茅乃が大学に進学して以来、数年ぶりとなる再会だった。


「ええと……久しぶりだね」


 思わず零したが、この状況でそう伝えるのは妙に間抜けだ。

 案の定、蓮は今そんなことを気にしている場合かとばかりにますます顔をしかめ、口早に「具合でも悪いのか」と茅乃に尋ねてくる。

 返事に詰まっていると、さらに眉を寄せた蓮は質問を変えた。


「じゃあ、なにかあったのか」


 声が低い。茅乃の背が震える。

 目の前の高校生が蓮だと、まだ信じられない。茅乃が知る蓮は、まだ声変わりを迎えていない子供だったから。


「なんか、その……後ろ、つけられてる気がして」

「え?」

「じ、自意識過剰かもしれないけど、昔襲われたときの感じに似てて、ちょっと怖くなって」


 震える喉から滑り落ちる声は掠れ、自分でも聞き取りにくい。

 なにか喋らなければと、茅乃は無理を押して口を開き続ける。


「それより、蓮くんはこんなところでどうしたの? ていうかよく私だって分かったね」

「学校、すぐそこだから。帰りにたまたま見かけただけだけど、やたらフラついてるから焦っただろ」

「あ……ご、ごめんね」

「いや。つけられてる感じがしたのって多分俺のせいだ。歩くの早かったから、なかなか声かけるタイミングがなくて……ごめん」


 ……気が抜けた。

 蓮だったのだ。しかも素直に謝った。あの蓮が。


 それに、これほど久しぶりなのによく自分だと気づいたな、と改めて思う。

 おどけた態度でそう伝えるつもりが、喉ががさがさと痛んだから、茅乃は結局黙ることにする。


 それにしても、あの蓮くんが、高校生。


 不思議な気分だった。

 自分もまた高校を卒業し、大学も卒業して、今では一端の社会人だ。それだけの月日が流れているのに、蓮がいつまでもランドセルを背負っているほうがおかしいわけで、それでもタイムスリップでもしたような非現実的な気分が抜けない。


 面影こそあれ、まるで別人だ。

 ぼんやりと茅乃がそう思っていると、蓮が唐突に口を開いた。


「送る」

「……ん?」

「今日だけじゃなくてこれからも。仕事帰りのかや姉、家まで送ってから帰る」

「え?」


 隣に腰かける蓮を呆然と見つめながら、茅乃の胸の奥で焦燥が膨れ上がる。

 いきなりなにを言い出すのか。数年ぶりに顔を合わせた相手へ、普通そんなことを切り出すだろうか。

 男性と一定の距離を置いて暮らしてきた茅乃の脳裏を、屈折した考えが巡る。やはりこの人は蓮ではないのでは、などと不穏な疑問まで浮かんでしまい、それをごまかすために茅乃は意識して声を張り上げる。


「いや、今日はたまたま早上がりだっただけなの。いつもは夜中まで働いてるから無理だよ。それに蓮くんだって、今……えっと、二年生? 忙しいでしょ」

「じゃあ今日みたいな日だけそうする。部活もしてないし、言うほど忙しくない」

「えっ? いや、でも……」

「ガタガタ震えながら言われても全然説得力ねえんだけど。それともなに、他に守ってくれる奴でもいんの?」


 ……いないよ、そんなの。悪かったな。

 茅乃がそう告げるよりも前、蓮は「ほら見ろ」と勝ち誇った顔をした。


 ムッとする。やはり蓮は蓮だった。

 ふと小学生時代の彼の面影が覗いた気がして、茅乃の頬が緩む。直前まで別人みたいだと感じていたのに、その気持ちは今の短いやり取りだけで簡単に掻き消えた。


 相手が蓮ではなく、例えば高校や大学時代の男友達だったなら、誰であろうと茅乃は断っていた。だが。


「うーん、じゃあお願いしちゃおうかな。週に一回、水曜日だけ。よろしくね」

「いいよ。実際めちゃくちゃ面倒だけど」

「は!? アンタから言い出してきたんでしょ、なんなのその言いざまは!」


 昔懐かしい応酬に、蓮は声をあげて笑った。つられて茅乃も笑う。


 齢の離れた幼馴染と久々に顔を合わせ、気が緩んでいた。また、職場と自宅を往復するだけの生活に、多少なりとも寂しさを感じていたことも否めない。

 だが結局、茅乃は蓮の申し出を受けた。

 週に一度、昔みたいに顔を合わせては他愛もないやり取りを交わすのも、きっと楽しい。このときの茅乃は、呑気にそう捉えてしまっていた。


 蓮が、なにを思ってそんな申し出をしてきたのか。

 もっと真面目に考えるべきだったと彼女が後悔する羽目になるのは、もう少し先のこと。

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