《2》のらりくらり
小学校の教師を目指して大学へ進んだ茅乃だったが、現実は簡単ではなかった。
教員免許こそ無事に取得できたが、地元の県教員採用試験では最終的に不採用。地元には私立の小学校がほとんどなく、また県の臨時職員を目指そうにも常勤枠は皆無だ。
諦めて一般企業への就職に切り替えようと思っていたところに、当時アルバイトをしていた学習塾から声がかかり、現在は同系列の塾に勤めている。無論、正規スタッフではなく契約枠だ。
大学卒業と同時に地元へ戻ってきたが、実家に戻るのは気が引け、現在は隣市にアパートを借りてひとり暮らしをしている。
どうしても教員の夢を諦めきれず、茅乃は今年も願書を提出していた。
現在は二次試験の結果待ちだ。今回駄目だったら、さすがに考えなければならない。そう思えるようになったのも、今の仕事が結構楽しいからかもしれない。
茅乃が勤める塾は個別指導を主軸にしていて、小学生から大学受験を控えた高校生まで、幅広い年齢の子供たちが通っている。
茅乃は主に小学生の指導を担当していた。小規模な学習塾だが、〝勉強嫌いの子が勉強を好きになる塾〟を謳っていて、生徒数はそれなりだ。
小さな個別指導塾ならではなのか、担当外の生徒にもよく声をかけるし、逆にかけられることも多い。
例えば
職員室へ戻ろうとした矢先、今日もまた、茅乃は帰りの迎え待ちの小野寺少年にうっかり捕まったのだった。
「恩田先生さー、なんか最近可愛くなったよねー」
「なってないです、今まで通りです」
「塩! 塩対応だ! ねー眼鏡外してよー、素顔見たいー」
「嫌です」
「えー。彼氏の前でしか外さないってやつー?」
「そうです」
適当に返事をしていると、小野寺は愕然と目を見開いた。
県内屈指の進学校に通う高校二年生の彼は、学業よりも噂話のほうが好きだ。急遽小野寺の担当についたことが何度かあるが、ひとりなら集中できる、しかしふたり以上になると一気に集中力が削がれる……そういうタイプの生徒だ。
小野寺に気づかれないよう、茅乃はそっと嘆息する。一方の小野寺は、露骨な動揺を見せながら声を張り上げた。
「えっ!? ちょっと待って、彼氏いんの恩田先生!?」
「いません。つまんない話ばっかりしてないで、お迎えがきたらさっさと帰りなさい。当然寄り道は禁止。ハイさようなら」
「塩! 最後まで徹底した塩対応!!」
悲鳴じみた叫びが耳を劈くと同時、小野寺の携帯が鳴った。
迎えが到着した旨、連絡が入ったようだ。
……早く帰れ、少年。
残念そうに帰り支度をする小野寺を雑に見送りつつ、茅乃は職員室へ戻った。
「お疲れ様です」
ドアを開けると、同僚の
茅乃と同じく、佐久間も県教員を目指している講師だ。日中は私立高校で非常勤講師を勤める彼は、この塾での勤務が副業だという。
この教室には大学生のアルバイト講師も在籍しているが、既卒の講師の場合、この手の事情を抱えている人間が多い。
茅乃よりひとつ年上の佐久間は、齢をあまり気にしすぎず、気さくに話しかけてくる。
むしろ、元々同系列の塾でのアルバイト歴がある茅乃へ、先輩スタッフでも見るような目を向けてくることさえあった。
「お疲れ、恩田先生。小野寺に絡まれてたけど大丈夫だった?」
「あ、はい。たった今お迎えがきたみたいです」
「……はぁ。あの関心の高さを学業に向けてもらいたいよな」
「あはは、本当ですね」
佐久間は副業スタッフでありながら、生徒ばかりでなく親からの信頼も厚い。
子供の成績アップが直に評判に影響する業界だ、これほどの信頼を寄せられる理由はひとつと言っていい。やる気を引き出すのが上手なのだ。さすが教員を目指しているだけのことはある。
申し訳ないが、アルバイトの大学生講師たちとは比較にならない。いや、自分も佐久間の側を目指さなければならないことは、茅乃も重々承知しているが。
残務を終えて職場を出る頃には、時刻はすでに午後十時を回っていた。
夜型になってしまうのは、仕事が仕事だけに仕方がない。大学時代にもそれを承知の上で働いていたから気にしていないが、今では一般企業に就職した友人たち――亜希子も含め――と話すたび、焦りを覚える日もある。
契約スタッフとして採用されたため、茅乃の勤務形態はフルタイムだ。事務的な業務を兼任することもある。
ただし、基本的な勤務時間は昼過ぎから深夜まで。一般のライフスタイルからは大きく懸け離れている。とはいえ仮に小学校の教員になれたとして、「朝から晩まで働き詰めだ」などという知人の愚痴が頻繁に耳に入ってくる以上、今の自分はまだ楽なほうなのかもと思わざるを得ない。
……なにを目指しているのか、たまに分からなくなる。
自分ひとりが食べていける収入があって、それで安全に日々を過ごせているなら、もう十分な気がする。しかし、それではなんのために大学を出たのかといつも焦燥を抱えてしまう。
『辻くんから、茅乃も来るのかって訊かれてて』
不意に、先日電話した亜希子の声が頭を過ぎった。
辻は、茅乃の元恋人だ。
付き合った期間が一ヶ月未満でもそう呼んでいいのなら、だが。
粘られて粘られて、結局、茅乃が押される形で付き合い始めた。
自分すら気づいていなかった傷の存在に気づかされる羽目になったのは、彼と交際したせいだ。
だが、そのことで辻を責めるのは間違いだと分かっているつもりだ。だからこそ、彼とはできれば二度と顔を合わせたくなかった。
辻と別れて以降、茅乃はますます派手な格好やメイクを避けるようになった。それは自衛のためであり、また自分の居場所を守るためでもあった。
そうしたスタンスを貫き始めて以降、ナンパに遭うことも合コンに誘われることもほとんどなくなった。加えて地元に戻ってきた分、大学時代の友人たちと顔を合わせる機会も激減している。寂しくないと言えば嘘になるが、とにかく安全だ。
こうやって、のらりくらり安全に暮らし続けていたい。
……それでいい。この安寧を、誰にも邪魔されたくなかった。
九月も中旬に差しかかった夜道の空気は、いつの間にか随分と冷たい。
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