第2章 麻酔によく似た〈前〉

《1》鬱の種

 それきり、蓮と顔を合わせないまま引越の当日を迎えてしまった。

 わざと避けたとか気まずかったとか、そういうことではなかった。タイミングが合わなかっただけ……いや、結局自分は心のどこかで避けていたのかもしれない。そう考え至るたび、茅乃は自嘲を覚える。


 そのくらい、あの日の衝撃は大きかった。

 切なげに細められた両目も、耳元で囁く声も、頬を辿る指先も、中学校入学前の少年のものとはとても思えなかった。唯一年相応だと感じたのは、自分のそれより遥かにやわらかな頬の感触くらいだ。

 ほとんど同じ高さになった目線を思い出す。射抜くように自分を見据える蓮の双眸は、六つも年下の男の子のそれとは思いがたかった。そのことに思い至ると同時、鈍い後悔が茅乃の胸を過ぎる。


 ――誕生日のお祝い、ちゃんとできなかったな。


 蓮の誕生日は三月の末で、学校が春休みの真っ最中だ。

 友人に祝われるタイミングから外れているせいか、蓮は誕生日を家族以外の誰かに祝われるという感覚に疎かった。そう知って以降、茅乃は必ず、蓮の誕生日当日に顔を合わせて『おめでとう』と伝えていた。

 それなのに、よりによって小学校卒業という節目の年に限って伝えられなかった。


 ……年下の子に顔を寄せられて真っ赤になって、馬鹿丸出しだ。

 だがあの日のそれは、一年半前、同じく不意打ちで奪われたキスとはあまりにも違いすぎた。


 一年半前、蓮がなにを考えてあんなことをしたのかは今も分からない。

 しかし、当時の茅乃は宙に浮いているようなふわふわした感覚を抱いてしまっていた。驚いて、真っ赤になって、夕飯も取らずベッドに転がって、なかなか眠れなくて……恋の始まりに似た気持ちを確かに感じていた。


 だが、彼の卒業式の日のあれは、そうした甘酸っぱい感覚とは懸け離れていた。

 キスされると理解した瞬間、それでもいいと思ってしまった。そう思えるくらいには、茅乃は蓮に心を許している。

 現に、唇へのキスが未遂で終わったことに、心にぽっかりと穴が空いたような喪失感を覚えている。からっぽの胸がきりきり痛んで、すぐにもそれをごまかさなければならない気がして、けれど実際にはどうすればいいのか分からない。


 だから顔を合わせられなかった。

 弟のような子を相手に、重症にもほどがある。



     *



 茅乃が大学を卒業し、半年が経った。


 職場から帰宅すると、携帯電話が鳴った。

 大学時代の友達の亜希子あきこからだ。飲み会をするからその件で近々電話すると、前に連絡が入っていたことを思い出す。


『ねえ、例の飲み会だけど茅乃はどうする? 来れそう?』

「うーん。十七日だと次の日が仕事だからなぁ、今回は遠慮しとくよ」

『そっかあ、残念。やっぱり地元組は参加キツくなっちゃうよね、交通費も馬鹿になんないし』

「それそれ。新幹線高くて本当キツいんだよ、しかも最低一泊でしょ?」

『飛行機は?』

「新幹線より高いから、それ。羽田からだってめちゃくちゃ遠いし無理すぎ」

『あっはは、そうだよねぇ』


 電話越しに呑気な笑い声が聞こえ、つられて茅乃もまた笑う。

 卒業して間もない頃は、頻繁に連絡を取り合っていた友人が何人もいたが、それも随分減った。こうしてまめに連絡をくれるのは、今では亜希子くらいだ。

 茅乃自身、あれこれ理由をつけては友人たちとのやり取りを後回しにしてしまいがちだ。日々の忙しさに奔走してばかりで、なかなかうまく気を回せない。


『……あのね、茅乃。つじくんから、茅乃も来るのかって訊かれてて』


 親友が遠慮がちに口にした名前に、茅乃の反応が露骨に鈍った。

 それを感じ取ってか、亜希子も申し訳なさそうに続ける。


『今回は不参加だよって、それだけは伝えちゃって大丈夫?』

「……あ、うん。そうしてくれると助かる」

『ごめん。うまいこと断れなくて』

「亜希子が謝ることじゃないでしょ、別に」


 突っぱねたような言い方になってしまったから、茅乃は意識して声のトーンを上げる。

 電話は相手の顔が見えない分、声音ひとつで簡単に感情が伝わってしまう。亜希子の口調から考えるなら、茅乃が気を揉む必要などないのだろう。しかし大切な親友が相手となれば、茅乃も余計な気を遣わせては悪いと思うし、遠慮だって覚える。


『はぁ。まぁその辺は置いといて、アンタあれから彼氏できた?』

「いないよ~。それどころじゃないもん、忙しくて」

『……そう。茅乃は理想が高いからねぇ、お眼鏡に敵う男なんて簡単には見つからなそう。地味子なわりにモテてたのに、軒並み斬り捨ててたもんねアンタ』

「なにそれ。私がものすごく性格悪い女っぽい言い方じゃないですか」

『はは、ごめんごめん。ナイトみたいに格好良く守ってくれるダーリンがいいんだよね、夢子の茅乃ちゃんは』

「そうですとも。じゃなきゃ別に生涯独り身で問題なし」

『さすがだわ、一切ブレない……えっと、じゃあひとまず飲み会は欠席ね。また連絡するよ』

「はーい。わざわざありがと」

『はいよー』


 そのまま通話は途絶え、小さく息をつく。

 話に登場した名前を思い出し、懐かしい――いや、苦々しい記憶が茅乃の脳裏に蘇る。仕事帰りの疲れた身体に、その記憶は少々重すぎた。


 ……それはさておき、〝ナイトみたいに格好良く守ってくれるダーリン〟か。

 言い得て妙だと思う。実際に言葉にして亜希子に伝えたことはなかったはずだが、見抜いているとはさすが親友だ。

 もしかしたら、飲み会のときなどに酔った勢いで自ら口走った可能性もある。酒に強くない茅乃のことだから、十分にあり得た。酔っ払った自分にはほとほと信用が置けない。思わず苦笑が滲む。


 そのとき、茅乃の頭の片隅を、黒いランドセル姿の男の子がふっと過ぎった。


 微かに覚えた胸の痛みを、無理やり掻き消す。

 手にしたスマートフォンをベッドの上に放り投げた茅乃は、ほんのりとした憂鬱を引きずりつつ浴室へ向かった。

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