《3》恋によく似た

 変質者と遭遇して以降、茅乃はスカートの丈を校則ぴったりの長さに直した。

 また、高校入学以来使い続けてきたコンタクトレンズも眼鏡に戻した。


『もうちょっと格好、考えたほうがいいよ』


 あの日の蓮の言葉が、教訓のようになっていた。

 茅乃自身、派手なタイプではない。周囲には急にも見えただろうイメージチェンジは、彼女に妙な居心地の好さを抱かせた。

 自ら存在をアピールすることで、わざわざ危険要素を惹きつける必要なんてない。そう気づいてからは呼吸が楽になった気さえした。


 ――それからおよそ一年半後、三月中旬。


 前の週に高校の卒業式を済ませ、いよいよ茅乃は大学進学を目前に控えていた。

 希望の大学に無事合格し、今月末からは新しい場所で新しい生活が始まる。引越の準備などでこのところは随分慌ただしくしていたが、それも今日は一旦休みにする予定だった。今日は、蓮の小学校の卒業式だからだ。


 蓮の母親が祝賀会に参加するため、彼女が帰宅するまでの間、蓮を我が家で預かると親同士で約束していたらしい。

 平日だから父は仕事だ。母は母で、外せない用事が入っているという。その結果、茅乃が留守番と蓮の相手を頼まれていた。

 ……別に構わないが、茅乃本人に予定の確認を取らずに決めるとはどういう了見なのか。どのみち予定は入っていないから構いやしないが、茅乃は少々複雑な気分になる。


 しかも母ときたら、蓮の晴れ姿を見たいがためだけに時間ギリギリまで自宅待機していた。

 娘の卒業式よりもよほどそわそわしていた。どんだけ蓮くんのこと好きなんだよ、母……茅乃は心の中でそっと突っ込んだ。


 ほどなくして玄関のチャイムが鳴り、中学校の制服を着た蓮と、華やかなスーツを着た蓮の母親がやってきた。

 お願いします、と申し訳なさそうに頭を下げる蓮の母親と、彼女に合わせて行儀良くお辞儀する蓮が玄関に覗く。


 ……これが蓮の〝表の顔〟だ。

 茅乃以外の人の前では――いや、茅乃とふたりきり以外のときは、態度も言葉遣いも、物分かりの良い大人びた子供のそれになる。

 口元に湛えた穏やかな笑みは、他人には可愛いとかおとなしいとか、そういう印象を抱かせるのかもしれない。だが、ふたりで過ごすときの傍若無人な態度ばかり目にしている茅乃には、少し不気味に見えてしまう。


「あら蓮くん、よく似合ってるじゃない!」

「はい。ありがとうございます」

「卒業おめでとう。ごめんね、おばさんこれから用事があって……ケーキを作っておいたから、茅乃とふたりでどうぞ。ゆっくりしていってね」

「ありがとうございます。いつもご馳走になってしまってすみません」

「いいのいいの、そんなの気にしないでよ! じゃあ茅乃、よろしくね~!」


 はいはい、毎度のことですから。

 心の声を噛み殺し、茅乃はひらひらと手を振って母親を見送った。

 母はすっかり蓮の信者だ。奴の本性を知ったらどんな反応をするのかと気になりもするが、蓮がなにがしかのヘマをやらかさない限り、母がそれを知ることはないだろう。ゆえに、多分そんな日は永遠に来ない。


 玄関のドアが閉じた途端、蓮はふうと軽く息をついた。

 茅乃の前で見せる顔と、周囲に見せている顔。彼にとってどちらが演技なのかを茅乃が実感するのは、こういう瞬間だ。


 学ラン姿の蓮は、先日顔を合わせたときよりも一段と成長して見えた。元々大人びた顔立ちをしているが、実際にこうした格好を目にすると感慨深い。

 今日のために、母は生クリームたっぷりの苺のショートケーキを作っていた。「蓮くんってやっぱりこんなケーキは苦手かしら、なんだか茅乃のお祝いみたいになっちゃったわ……」などと心配していたが、むしろ大喜びだと思われる。


「ふふ、卒業おめでと。似合ってるじゃん、学ラン」

「は、そりゃどうも」

「なに、照れてんの? 真面目に褒めてるのに」


 この学区の小学校からは、私立中へ進学するごく一部の生徒以外、ほぼ全員が同じ中学校へ進む。茅乃が小学校を卒業するときも、式では中学校のセーラー服を着たものだ。蓮が急に大人になってしまった気がして、茅乃は嬉しいような寂しいような複雑な気分になる。

 ここ一年で、蓮の身長は随分伸びた。さほど背が高くない茅乃は、近頃では蓮に会うたび、もうすぐ追い越されそうだな、と思っていた。そんなところにこの学ラン姿を目にして、気分は完全に蓮の姉だ。胸がいっぱいになる。


「かや姉も卒業おめでとう。先週の話だけど」

「えっ!? あっありがと、なによ急にそんな……雪どころか槍降ってきそうだし」

「最後の最後までほんと失礼だな。それよりおばさん、ケーキ作ってくれたんだろ。早く寄越せ」

「な、なんだよ『最後』って。これからだってまた会うかもしれないじゃん、死ぬわけでもなんでもないんだし」

「いや、まぁそうだけど……」


 蓮の口ぶりに引っかかりを覚えた茅乃は、ついムキになって言い返してしまう。

 最後だなんて、あまりにも寂しい言葉だ。茅乃が都心の大学へ進学する以上、確かにこれまで通りに蓮と顔を合わせる機会はなくなる。でも、だからといってこれが最後だとは思いたくない。


 胸の奥でじくじくと燻る鈍痛を抱えながらキッチンへ向かい、茅乃は冷蔵庫からケーキを取り出した。

 ……母の気合いの入り方はどうなっているのか。ふたりで食べきれるわけがない、かなり豪華なホールケーキだ。これでもかと苺がトッピングされている。おめでたい日には違いないが、これでは自分の卒業祝いのときより遥かに豪勢……いや、まあいい。気を取り直し、茅乃はケーキをテーブルへ運んでいく。


 苺のショートケーキ、という言葉に蓮の目が輝いたのは最初だけだった。

 フォークを動かす手も、人には内緒の好物を前にしているわりには鈍い。苺が山盛りすぎるせいで、今回も茅乃は切り分けに失敗したが、その点を不快に感じている様子もない。


「どうしたの。美味しくない?」

「……いや。おばさん、今日はチーズケーキじゃないの作ったんだなって思って」

「言っとくけど、私はなにも言ってないからね。お祝いだからって気合入れたみたい。いいじゃん、むしろ好きでしょ」

「……そうだけど」


 蓮の表情は浮かない。やがて、フォークを持つ彼の手はぴたりと止まった。

 相手の調子がこうでは、茅乃も口数が減ってしまう。ふたりでしょうもないかけ合いばかりして過ごしてきた分、落ちた沈黙はひどく居心地が悪かった。


「かや姉、もうすぐ引っ越すんだよな」

「あ……うん」

「……」

「な、なに、急に黙っちゃって。なんだなんだ、今日はどうした? 私がいなくなるのがそんなに寂しいか、んん?」

「寂しいよ。すごく」


 冗談めかして尋ねたことを、茅乃はすぐさま後悔した。

 蓮は茅乃に嘘をつかない。茅乃の前でだけ本当の顔を見せる。

 無表情で喋る蓮を、返す言葉を見失ったきり、茅乃はじっと見つめるしかできない。


「はは。らしくなかった?」

「……ううん。ごめん」

「正直に言えばいいだろ、顔に全部出てる。やっぱり面倒くせえな、かや姉は」

「っ、だって」


 胸が締めつけられる。

 茅乃も、寂しくないわけでは決してない。

 うまく言葉を続けられなくなる。蓮は今日に限って素直で、調子が狂ってしまう。そして、一度狂った調子は簡単には元に戻らない。


「ケーキ、ごちそうさま。残りはかや姉が食べて」

「……こんなにいっぱい食べられるかっつの」

「嘘つけ、余裕だろ。それともまさか体重でも気にしてんのか」


 ……半分も食べていない。

 好きな癖に。チーズケーキだと微妙な顔ばかりしていた癖に。


「……かや姉?」

「な、なんでもない! もう、こんなに残しちゃって……食べ物を粗末にすると立派な大人になれないんだぞ!」

「いや、全部平らげたら本当は甘い物好きなんだっておばさんにバレるだろ」

「どのみち私が平らげるんだからバレるもバレないもない!」

「結局あんたが食うんだな」


 はは、とようやく屈託なく笑った蓮を見て、茅乃も小さく笑う。

 蓮と本当に離ればなれになるのだと、茅乃はこのとき初めて実感していた。前から分かっていたはずなのに、急に今、眼前に突きつけられた気分だった。


 こんなときに限って思い出してしまう。

 露出狂に襲われかけたところを助けてもらったこと。そのお礼という名目でファーストキスを奪われたこと。その夜、碌に眠れなかったこと。

 いくつも年下の蓮を、その日初めて、〝可愛い〟ではなく〝格好いい〟と思ってしまったこと。


 胸がぎりぎりと痛み出す。

 なにか喋らなければ……茅乃が焦りに似た気持ちを覚えたそのとき、椅子から立ち上がった蓮が静かに口を開いた。


「かや姉。お願いがあるんだけど」

「……な、なに?」

「かや姉の部屋、行きたい。見たい」


 あまりにも唐突な頼みごとだったために、茅乃はつい言葉に詰まった。

 いきなりなにを言い出すのかと困惑しつつも、なんとか口を開く。


「な……んで」

「別に。ただの気まぐれ」

「なにそれ! そんなしょうもない理由で乙女の部屋を覗かれて堪りますか!」

「二階だっけ?」

「ちょ、こら!! 待て!!」


 茅乃の悲鳴をスルーし、蓮はまるで自分の家のようにスタスタと階段へ向かっていく。

 これまで、蓮をリビング以外の部屋に招き入れたことはなかった。無論、茅乃の部屋も含めてだ。

 階段を上り、初めて恩田家の二階に足を踏み入れた蓮は、興味深そうにきょろきょろと左右を見渡している。それから「こっち?」と茅乃の両親の寝室のドアノブに手を伸ばした。


「ちょ、待っ、そっちじゃない! そっちはパパとママの寝室……!」

「おっと、そりゃ失礼。じゃあこっち?」

「ねえ、本当にちょっとだけだからね? 引越の準備、まだ途中なんだから……」


 両親の寝室という言葉が生々しく感じられ、茅乃の顔が真っ赤に染まる。

 どうか蓮には、自室を覗かれる恥ずかしさゆえの赤面だと思ってほしい――取り留めもなくそんなことを考えつつ、茅乃は震える手で自室のドアを開けた。


 そして、一歩室内に足を踏み入れた瞬間、茅乃の視界は身体ごと反転した。


 強く手首を引かれた。それだけは分かった。

 気がつけば、茅乃の身体はドアの内側に押しつけられていた。


 ぽかんと口を開けて眺めた先には、目線がほぼ同じ高さになった蓮の端正な顔が、これまでにないほど近くに覗いている。

 間を置かず、ドアに学ランの腕が添えられ、もう片方の手が伸びてきた。頬にそっと触れる指……こんなに長かっただろうか。そんな考えばかりが、茅乃の頭の端を過ぎっては消えていく。


「っ、な、なに……」


 反射的に、茅乃は初めてのキスを思い返していた。そのくらいふたりの顔は近かった。

 もう一年以上前の記憶なのに、ひどく鮮明に茅乃の脳裏に蘇る。女の子のように綺麗で瑞々しい唇の、やわらかな感触までもをはっきりと思い出し、茅乃の頬にカッと血が上る。


「かや姉は覚えてる? 露出狂のおっさんから助けてやったときのこと」

「……あ……」

「キスしたの、かや姉、さすがに怒ると思った」


 キス。

 改めてその言葉を蓮の口から聞かされると、あの日のあれは自分の想像でも夢でもなかったのだと眼前に突きつけられた気分になる。


 やはり蓮はあの日、明確な意思を持って自分に口づけたのだ。

 胸が異常なほど高鳴っている。もしかしたら蓮にはそれが筒抜けなのでは……そんな馬鹿げたことを考えてばかりの茅乃へ、蓮は切なげに双眸を揺らしながら続ける。


「でもかや姉、怒らなかった。それからも普段通りだっただろ。なんで?」

「なんで、って……だって」


 しどろもどろに答える茅乃から、蓮は目を離さない。

 壁に縫い留められた身体はぴくりとも動かない。いや、拘束はされていない。指で触れているのは頬だけで、蓮は茅乃の身体のどこをも押さえつけていなかった。

 しかし、射抜くような彼の両目に捕らわれた茅乃には、彼から目を離すこともこの場から逃げることも、とてもできそうになかった。


 目の前の唇が、ふと横へ動く。

 耳に温かな吐息を吹きかけられる。堪らず上擦った声が零れそうになり、茅乃はそれを無理やり堪えた。

 赤く色づく彼女の耳に唇を触れさせた蓮は、次いで思わぬ言葉を口にした。


「キスしてよ。今度はちゃんと、かや姉から」


 声変わりしていない、だが一年半前より確実に低くなった声が茅乃の耳を掠める。

 それは彼女の鼓膜を突き抜け、脳髄にまで達し、まるで麻痺したように茅乃を動けなくする。


 相手は自分とほとんど同じ背丈だ。

 あのときのように屈まなくても、簡単に届いてしまう。


 掠れた囁きに毒されたように、意識が伴わないまま、茅乃は目の前の頬へ唇を寄せた。

 唇ではなく頬に触れたのは、それでも相手が蓮だと――小学生の男の子なのだと、ぎりぎりの節制が働いたからだ。


 蓮の頬はやわらかかった。

 自分の唇よりも遥かにやわらかいのでは、と思うほどに。


「……そこだけ?」


 囁きとともにくすりと笑われ、茅乃の頭がどくどくと脈打つ。それは鈍い痛みを生み、自分がなにをしているのか、今どこにいるのか、なにもかも分からなくなってしまいそうな錯覚を引き起こさせた。

 唇が近づいてくる。頬へのそれだけでは満足してもらえなかったのかと両目をきつく瞑り、茅乃は距離を縮めてくる唇がもたらすだろう甘い衝撃に備えた。


 互いの呼吸が直に感じられる距離は、瞬く間に茅乃を混乱の渦へ沈め……だが、それ以上の感触はなにもなかった。


 おそるおそる茅乃が目を開くと、困った顔で笑う蓮と目が合った。

 同時に、ドアに添えられていた彼の左腕が外れる。吐息が交ざり合うほど近かったふたりの距離は、あっという間に元へ戻った。


「帰るよ。ケーキ、美味しかったっておばさんに伝えといて。あと、部屋に入れてくれてありがとう」

「……あ」


 蓮が茅乃の手を引く。

 今度のそれは、茅乃を拘束するためのものでも、ふたりの距離を縮めるためのものでもなかった。


「ばいばい」


 ドアの前で立ち竦む茅乃の横を通り過ぎ、蓮はドアを開けて出て行ってしまった。

 階段をゆっくりと下りていく音、廊下を進んでいく音。徐々に離れていく足音が一旦途絶え、やがて玄関のドアが開き、再びバタンと閉まる音がする。


「……なんなの……」


 自室に残された茅乃は、ひとりその場に座り込む。

 耳へ指を伸ばし、やわらかな唇が触れていた場所をなぞる。そこはまだひどい熱を宿していて、きっと真っ赤に染まりきっているに違いないと、どこか遠い意識で思う。

 しばらくの間、茅乃はその場から立ち上がれなかった。

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