《2》ランドセルナイト

 十年近く前、駅の東側エリアでニュータウン計画がスタートし、その際にタウン内の分譲住宅を購入したのが恩田家だ。

 一方、蓮の母親は、彼女の両親が投資用に購入した土地と、そこに建てたアパートを譲り受けた。その一室で、今は蓮とふたり暮らしをしている。


 同じ時期に同じエリアにやってきた者同士、茅乃の母と蓮の母は仲が良い。

 齢は茅乃の母のほうが遥かに上で、また蓮の母は日中仕事をしていてなかなか時間が合わないようだが、暇を見つけては一緒にショッピングやランチに出かける程度には親しい。


 とはいえ、それでなくても蓮は、元々恩田家に入り浸りがちだった。


 蓮は、小学五年生という年相応の雰囲気が希薄な子供だ。

 整った顔立ちがその印象を無駄に引き立てている。加えて、学校の成績も優秀、スポーツも万能。映画かドラマの登場人物かと訝んでしまうほどだ。


 蓮の母親は綺麗な人だが、母親似の蓮もかなりの美形だ。ニキビひとつない艶やかな白い肌は、年頃の茅乃から見れば羨ましい限りだ。

 夏に着ていたハーフパンツから覗いていた足も綺麗だったな、と茅乃は振り返る。スラッと伸びた足をひと目見て、妙な輩に目をつけられてしまわないかと心配になったくらいだ。


 それほどに、茅乃は蓮を可愛がっている。

 しかし、蓮はいかんせん毒舌や不遜な態度が過ぎる。それも茅乃に対してのみ。

 その内弁慶っぷりだけが残念でならない。とはいえ、それ自体が茅乃以外は誰も知らないことだが。



     *



 秋も深まり始めた季節、茅乃はあるトラブルに巻き込まれた。

 下校中、変質者に遭遇したのだ。


 絵に描いたような変質者だった。

 見た目は少し太めのサラリーマンといった風体で、手には観光用のマップが握られていた。「道に迷ってしまって」と苦笑気味に言われ、疑う気持ちにはなれなかった。

 男が持っていたマップは、町役場をはじめ、スーパーや喫茶店、個人商店など、町のさまざまな場所で簡単に手に入る。きっと、男は事前にそうした施設へ立ち寄り、下準備を済ませていたのだろう。茅乃のようなチョロいカモを釣り上げるための準備を。


 赤く色づき始めた木々とベンチが並ぶ、表通りからちょうど死角になる場所。そんなところまでノコノコとついていき、その頃になってから訝しく思った茅乃だったが、すでに遅かった。

 唐突に腕を引かれ、視界が反転する。どさりと尻もちをつき、「なにするんですか」と声を荒らげかけた茅乃だったが、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返す男の尋常ならざる様子を前に、続く声はあっさり潰えた。

 男のコートの合わせ目に太い指がかかる。関節と関節の間に生えた毛が、妙にはっきりと茅乃の目に焼きついた。顔そのものよりも、毛深い指先と、直後に開かれたコートの中身――見せつけられた汚らしい下半身こそが、信じがたいほどくっきりと彼女の記憶に焼きついてしまう。


 悲鳴すらあげられない茅乃が腰を抜かしかけた、そのときだった。


「……写真撮ったし警察にも通報したんですけど、まだ続けます?」


 背後から聞こえてきた声に、変質者のみならず茅乃も目を見開いた。

 弾かれたようにそちらを見ると、スマートフォンを片手に握った蓮が男を睨みつけていた。


 聞き慣れたぞんざいな喋り方ではなく、慇懃な口調だった。

 声変わりしていない蓮の声に、それでも多大な恐れを抱いたらしき男は、顕わになった下半身を隠すことも忘れて走り去っていく。

 その頃になってから、茅乃の全身からどっと汗が噴き出した。


「大丈夫か、かや姉」


 声をかけられ、はっと現実に引き戻される。

 落ち着いて見えたものの、蓮は微かに震えていた。がくがくと震えながらも礼を告げ、怖くなかったのかと尋ねると、蓮は「本当はまだ電話してなかったから、バレたらヤバかった」と決まり悪そうに呟いた。その頃には、彼の口調はすっかり元に戻っていた。


 ……なんて危ない綱渡りを。

 茅乃の背がぞわりと粟立つ。同時に、普段は生意気だとか可愛いとか思っているだけの蓮が、ものすごく格好良く見えた。

 この非常時に碌でもない考えばかり巡らせている茅乃の内心が、透けて見えてでもいるかのように、眉を寄せた蓮が不機嫌そうに呟いた。


「かや姉さ……もうちょっと格好、考えたほうがいいよ。そんなんじゃ襲ってくれって言ってるようなもんじゃねえの?」


 棘を含んだ言い方だった。

 ゆったりとした紺色のカーディガンに、スカートとニーハイソックス。カーディガンこそ自前だが、制服に関しては基本的にきちんと校則を守っている茅乃だ。とはいえ、確かにスカートの丈は校則で定められている長さよりも短かった。今、蓮が鬱陶しそうに眺めているのも露出した大腿辺りだ。


「う、うん。ごめん」

「いや、僕は別にいいけど。そろそろ行くぞ」

「待っ、あの、腰が抜け……」

「はァ?」


 露骨な舌打ちをしながらも、結局、蓮は肩を貸してくれた。

 途中、「アホみてえに重いんだけど」と不機嫌そうな声が聞こえてきたが、茅乃は呻き声をあげて流した。そうしたやり取りを挟みながらも、なんだかんだ、少年は茅乃を自宅前まで送ってくれた。


「ありがと。ね、上がってく? 冷蔵庫に昨日ママが買ってきたシュークリームが」

「いいからもう帰って休めよ。重すぎるんだよあんた、超疲れた……」

「ご、ごめんって」


 睨みを利かせた蓮がかなり怖かったせいで、茅乃はまるで年上とは思えない情けない声で謝罪する。

 無視されるかと思いきや、蓮はランドセルを背負い直した後、ムスッとした顔はそのままに小さく口を開いた。


「……じゃあ取っとく」

「ん?」

「お礼。ほしくなったときに言うから覚えといて」


 想定外に面倒なことを言い出した蓮に、茅乃はええ、と不満の声を零してしまう。


「できれば今の方がいいな、後からだといろいろ面倒だし……」

「助けてもらっておいてなんだ、その言いざまは」

「す、すみません……」

「ほんっと面倒くせえな、かや姉。どうにかなんねーのかその性格?」

「それだけはアンタに言われたくないよ!!」


 悔しげな茅乃を一瞥した蓮は、普段にも増していけすかない薄笑いを浮かべている。

 苛々してしまう。助けてもらったのは事実だが、それとこれとは別問題だ。


「仕方ねえな。じゃあ今にしてやる、ちょっと屈め」

「なんでだよ! 腰痛いから無理だし!」

「ギャアギャアうるせーなマジで……ならそのままでいいから首だけ下げろ」

「ますます意味分かんなっ、……ッ!!」


 応酬はそれきり途絶えた。

 強引に首を引かれた瞬間、腰が悲鳴をあげ、しかし茅乃に抗議の声はあげられなかった。

 唇にやわらかななにかが押し当てられた瞬間、茅乃の頭を巡っていた思考のすべてが完全に止まる。


「……普通は目くらい閉じるもんなんじゃねぇの」

「……な……」

「今のほうが良かったんだろ? じゃあな」


 ……待て。今、アンタは一体なにを。

 茅乃がそう思った頃には、すでに蓮は走り出した後。


 見る間に小さくなっていく黒いランドセル姿を、茅乃は瞬きすら忘れて見つめる。

 今日は本当にうちに寄っていかないのか……的外れな考えが、麻痺した彼女の頭の中にぽんと浮かび上がった。


「……なんなの、あのマセガキ……」


 そのまま地面へ座り込みそうになる身体を、茅乃は無理やり玄関まで引きずっていく。

 いろいろなことが起こりすぎたせいで、今日はもうなにもしたくなかった。夕飯さえ食べられそうにない。


「ちょっと茅乃、帰ってきたんならただいまくらい言いなさ……ってどうしたのアンタ、顔真っ赤よ!?」

「……ただいま……寝る……」

「えっ熱でもあるの? ご飯は? ちょっと、茅乃っ!?」


 母の顔はとても見ていられなかった。いや、誰の顔だろうと今の茅乃には同じだ。

 ベッドへ身体を放り投げる。着替えもせず安物のパイプベッドに寝転がりながら、ほんのわずかにだけ重なった唇のやわらかさを思い返す。途端に、茅乃はその場で悶絶した。


 気のせいでなければ、蓮の頬も赤かった。

 それ以上は思い出してはならない気がして、いっそこのまま眠りに落ちてしまいたいと心底願う。

 いつも意地悪してくる男の子に助けてもらう、守ってもらう、ごく普通の女の子。例の小説のヒーローに蓮が重なり、茅乃は慌てて首を振りたくって思考を切断する。


 ……いや、少し落ち着こう。

 相手はランドセルを背負った小学生だ。年下男子、などという次元の話では到底ない。


 躍起になって自分にそう言い聞かせていないと、すぐにそればかり考えてしまいそうになる。

 今日のできごとを誰かに打ち明けたい気分と、誰にも言わず自分の胸の中にだけ大事に取っておきたい気分。そして、まさかの形で奪われたファーストキス――それらが綯い交ぜになって頭を駆け巡った結果、茅乃はなかなか寝つけなかった。

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