麻酔、あるいは恋によく似た

夏越リイユ|鞠坂小鞠

第1章 恋によく似た

《1》毒舌少年とチーズケーキ

 とうじょうれんは、近所に住む小学生だ。

 彼は異常なまでに私に心を開いている。


 ……開きすぎている。



     *



『昨日のうちにチーズケーキ作っといたから、蓮くんが帰ってきたらふたりで食べなさいね。は、お茶? なに寝ぼけたこと言ってんの、そのくらい自分で淹れなさいよ!』


 ジュースもあるけど、蓮くんはあんまり好きじゃないらしいからねぇ。

 独り言を呟きながら、結局、母は紅茶用のティーポットに二杯分の茶葉を用意し、「これを入れてお湯を注ぐだけだからね!」と叫んだ。自分でやれと言いつつ半分以上手を出してしまう、彼女の残念な癖がまた出た。


 バタバタと出かけていく母親を見送ったおんかやは、ひとり残った自宅の玄関で小さく溜息を落とした。


 お茶用の湯を沸かそうかと思ったが、急に面倒になる。

 ジュースでいい。そのほうが蓮だって喜ぶ。リビングに戻りながら、茅乃は密かに目測を立てる。

 連がジュースを嫌っているだなんて、真っ赤な嘘。あいつは紅茶よりオレンジジュースのほうが好きだし、甘さ控えめのチーズケーキよりも生クリームたっぷりの苺のショートケーキのほうが断然好きだ。


「ただいまー」


 ガチャガチャと玄関のドアが開く音がした後、気怠げな声が聞こえてくる。

 午後三時二十分。そろそろだとは思っていた。


「おかえりー、ってここ私んちだけど」

「いちいち細けえんだよ、かや姉。ウゼェ」

「アンタには負けるし。ね、ママがチーズケーキ作ってくれたの。食べよ?」


 相変わらずの口の悪さだ。その内弁慶な態度を、近所に住んでいるだけの女子高生を相手に向けてくるのだから不思議なものだ。

 そんな茅乃の内心などどこ吹く風、ソファにランドセルを放り投げた蓮は、そのままだらだらと寛ぎ始める。そして茅乃が冷蔵庫から取り出したベイクドチーズケーキを横目に、微かに顔をしかめてみせた。


「あー、チーズケーキかぁ。まぁしょうがねえか」

「アンタ……人の家にお邪魔しておいてなんだよ、その態度は?」

「かや姉が作ったわけじゃねえんだろ、なに偉そうにしてんだよ。さっさと切り分けろ」

「はいはい。あ、紅茶じゃなくてジュースのほうがいいよね、お子ちゃまは」

「あんただってジュース飲む癖にガキ扱いしてんじゃねえ」


 目も当てられないほどの毒舌に、思わず苦笑が浮かぶ。

 蓮のこの態度は、茅乃の前でだけ晒される。茅乃の母の前、おそらくは自分の母親の前でさえ、彼は今のような口を絶対に利かない。

 お利口な子供、聞き分けの良いお坊ちゃま。普段はまさにそういう感じだ。


 あるできごとをきっかけに、蓮は、茅乃にだけ内面を見せるようになった。


 ホールのケーキを、おそるおそる八等分に切り分けていく。

 自分の不器用は自覚しているが、今回も無駄にそれを発揮してしまった。〝等分〟の概念が揺らぐ。大きくなった分を蓮にあげようと、茅乃はふた切れのケーキをそれぞれ小皿に取り分けた。


「いただきまーす、ってなんかデカくねこれ?」

「いいでしょ別に……小さかったら怒る癖に。ってちょっと、それ私のフォーク!」

「なんだよ、フォークにまで誰のとかあんのかよ」

「それは私が自分で買ったやつなの! お気に入りなんだから返してよ!」

「マジでウゼェなあんた……ほらよ」


 小言を零しつつも、蓮はフォークを返してくれた。基本的に、彼は茅乃が本気で嫌がることをしない。

 キラキラにデコレーションされたガーリーなデザインのフォークを取り返しながら、よくそれを手に取ろうと思ったな、と茅乃は心の中で密かに感心する。無頓着にもほどがある。


 茅乃より先にケーキを食べ終えた蓮は、コップのオレンジジュースをごくごくと飲み干した。

 黙ってなにかを食べているときは――黙ってさえいれば、どこからどう見ても天使だ。微笑ましい気分でケーキにフォークを伸ばした茅乃だったが、リビングへ移動した蓮を見た途端、派手に全身を強張らせた。

 蓮が、半端に留め金の外れた茅乃の学生鞄を漁り始めたからだ。


「なんだこれ、『幼馴染は私の専属ナイト』……『意地悪な彼にカラダもココロも奪われて』……?」

「アッ!! ちょ、それは……ゴフゥッ!!」


 ななななにしてんのオマエ!

 っていうかタイトル音読してるんじゃないよ、羞恥で死ぬだろうが……!!


 ……という茅乃の心の叫びと硬直を完全に無視した蓮は、鞄から取り出した二冊の本を興味深そうに眺めている。

 美男子に背中から抱き締められた女の子が顔を赤くして抗議している表紙イラストが、不意打ちで目に飛び込んでくる。口に入れたばかりのチーズケーキが詰まりかけた茅乃は、ゴフゴフと咳き込みながら悲鳴じみた声をあげた。


「ちょっおまっなにしてるんですかかかか返したまえよ!!」

「つーかナイトなんだろ、なら守れよ奪っちゃ駄目だろうが……ってなに焦ってんだよ、これエロ本?」

「ゴフッ!!」


 再度むせた。タイトルに対する辛口なツッコミにも心が折れかけたが、その後の卑猥な単語にも激しくむせた。

 小学生がなにを口にしている、しかも平然と。そもそもその手の話題が苦手な茅乃は、瞬く間に顔を赤らめてしまう。


「……違うしもう黙りなよマセガキ……」

「かや姉ってホント免疫ねえな、そういう話。なに、小説なのこれ?」

「やっ、やめてェェー!!」


 その本は、茅乃が友人に借りてハマった恋愛小説の続編だ。

 あまりにも面白かったから、持ち主に返した後、本編も続編も自分で新品を買い直したのだ。ちなみに、高校生でも胸を張って読める全年齢対象作品である。


 普通の女の子と、彼女に意地悪ばかりする男の子の話だ。日頃は意地悪な言動しか取らない男の子が、いざ女の子がピンチに陥ると嘘みたいなタイミングで助けに現れる。そして三度目に助けてもらったときに……という王道ストーリーだが、これがとにかく茅乃の心を直撃した。


 容姿は至って普通、太りすぎても痩せすぎてもいない一般的な体型。これといって際立った特徴のない、平凡な女子高生の茅乃だ。〝普通の女の子〟というヒロインの設定が、まるで自分のことのように映った。

 一気にのめり込んだ。勉強の時間を割き、睡眠の時間を割き、何度も繰り返し読み耽った。

 おかげで今回の試験の結果はさんざんだった。反省はしていても後悔はしていない茅乃だが、その時点でまずいという自覚もある。


「へー、かや姉ってこういうの読むのか。案外可愛いとこあんだなー」

「棒読みすぎ! しかも『案外』とか余計だよ、早く返して!!」


 食べかけのケーキを放置し、茅乃は勢いに任せて立ち上がる。

 奇声をあげながら、ぺらぺらとページをめくって中身を眺めていたいたずら坊主の手元から、彼女は二冊の愛読書を奪い取った。


「なぁ、かや姉も憧れてんの、これ系?」

「べっ別に! ドラマと一緒だよ、実話じゃないんだし! だいたいこんな人、現実にいるわけないじゃん!!」

「うっわ分っかりやす。好きなら好きって言えよ面倒くせえな」

「うっさい!!」


 憧れてるよ、そのヒロインの真似をして髪を伸ばし始めたんだから。

 そんなこと、アンタには死んでも教えてやらないけど――心の中で、茅乃は声を張り上げる。


 作中では〝ごく普通の女の子〟と称されているヒロインだが、表紙の美麗なイラストを眺める限りでは俄然美少女だ。

 その点、茅乃はごく平凡。そのくらい真似したっていいだろうと、熱く主張してしまいそうになる。


 この程度の応酬は、茅乃にとって日常茶飯事でしかない。とはいえ、今回はさすがに居た堪れない。

 せせら笑われるかと覚悟していたものの、意外にも蓮は笑わなかった。しかし今は、興味深そうに質問してくる純粋な関心こそが、茅乃の精神をじわじわと追い詰めている。

 乱れる内心をごまかしながら、残ったチーズケーキを一気に口に詰め込むと、「きったねえ食い方……」と蓮がぼやいた。心底嫌そうに呟いた少年を睨みつけた後、茅乃は中身のなくなったふたり分の小皿を忙しなく片づけ始める。


 溜息をつくことすら億劫だ。

 このマセガキ――いや、おませな小学生の相手は、茅乃にとっては学業より遥かに難度の高い苦行なのである。

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