エピローグ

エピローグ

『急ぎすぎて逃げられそうになっちゃって、危ないところでした』


 ……爽やかな笑顔でする発言ではない。そんな糾弾は、結局声にならなかった。

 全体朝礼が終わった直後、ほぼ全社員が揃っている場で、わざと零したと思われるひと言。彼のそれがもたらした効果は絶大だった。


 別れの噂を頑なに信じたがる一部の人たちも、あの発言を前にしてしまっては、もう口を噤むしかなかったらしい。

 付き合っているのかいないのか、そういう曖昧な憶測がやがて別れたという噂に変わり、それが今度は婚約したとかしないとか……つくづく、噂に振り回される側の立場にはなりたくない。

 もっとも、噂を吹聴しているほとんどの人が、単にそれを楽しんでいるだけだとは分かっているけれど。


 いつか沓澤課長が言っていた『噂自体が生ぬるい状態だから、陰口や嫌がらせを喰らう羽目になる』という理論は、あながち間違いではなかったようだ。

 噂の渦中にある当人からの表明である分、今回の噂は例の〝本当なのか嘘なのか〟を楽しむものではなく、完全に事実を伝えるだけのものになっていた。これはこれで、きっと収束は早いだろう。


 噂に振り回されるのは、二度とごめんだ。

 ふたりのうちどちらかが、早い段階で素直に自分の気持ちを相手に伝えていれば、多分ここまで拗れることはなかった。そう思うともどかしいけれど、今だからこそそう思える気もする。


 隠しごとも、嘘も、私たちにはもう必要ない。


「うん。むしろなんでここまで拗れたのか、そっちのほうが俄然気になる」

「俺も俺もー。マジで意味分かんねえよ、特に沓澤課長」


 沓澤課長と正式にお付き合いを始め、早ひと月。口を尖らせる同期と先輩同僚を前に、私は中途半端な笑みを浮かべる。

 昼休憩に果歩と出かけた近くのカフェで、たまたま三浦さんと鉢合わせた。空席が見当たらなかったため、同席させてもらって今に至る。


 結論から言うと、ふたりとも容赦がなかった。

 営業課の面々は、基本的に私たちの交際に対して祝福ムードだ。三浦さんはその筆頭に近いが、たまにこういう毒を吐く。今はそこへ果歩も加わり、なぜか私が責められている感じになっていて、少々居た堪れない。


 そうですね、と小さく相槌を打った後、ふたりと視線を合わせることなく私はアイスコーヒーをちびちびと啜った。

 冬を目前にしたこの季節に、どうして私はアイスコーヒーを頼んでしまったのか……そういえば、夏にはよくホットコーヒーを頼んでいた気がする。あべこべな自分のチョイスに、うっかり笑いが零れる。


「長期出張のときもさぁ、さんっざん那須野さん那須野さんって騒いでおいて……その癖に連絡一本入れてねえとか、そんなん聞いたときにはもう眩暈がしたよな」

「うーん。押せないタイプなのかな、沓澤課長って」

「いや、あれは自分から押したことがないだけだな。これだから困るんだよ、ほっといても女が寄ってくる系のハイスペックイケメンは」


 三浦さんは別に私を責めているわけではないと分かっていても、なぜか彼の言動のひとつひとつが胸に突き刺さる。

 事情を知る人間から見た場合、私たちが交際に至るまでの経緯は、もどかしい以外の何物でもなかったようだ。特に三浦さんは、私が知らない長期出張中の沓澤課長を知っている。


 ……『さんざん那須野さん那須野さんって騒いでた』んですか、沓澤課長。

 そんな話は聞いていない。次の休日にでも、直接訊いてみなければ。


「けど良かった。ゆず、最近すごくいい顔で笑うようになったもん」

「え、那須野さん泣かせたら絶対許さねーし」

「三浦さんはなんでゆずのお父さんポジションなの……しかも相手が上司なのに全然怯んでないよね」


 隣同士に腰かけるふたりの息の合ったかけ合いに、私はつい頬を緩めてしまう。

 ……まだ付き合ってはいないらしいけれど、おそらくは時間の問題だ。私と沓澤課長の紆余曲折をあれこれ言っているわりには、このふたりこそなかなかくっつかない。今がまさにガツンと押すべきときだよ、三浦さん!と心底思うものの、果歩の前でそれを伝えるのは憚られる。


「さーて、そろそろ時間だな。戻るか」

「あ、本当だ。っていうか三浦さん、女同士の会話に参加して余裕で小一時間イケたね」

「そういうのは得意なんだよ。なんつーか、昔から女子に恋愛相談されやすいっつーか」

「出た、『いい人なんだけど』で終わる典型例」

「うるせえ!」


 あはは、と果歩と一緒に声をあげて笑う。

 つい半年前までは、少し頭の固い先輩だなと思って三浦さんと接していたはずなのに、新鮮で楽しい。そう思ったら、不意に悪戯心が芽生えた。

 出入り口のドアを、私たちふたりが通過するまで開けて待ってくれている三浦さんへ向き直り、私はにっこりと微笑んで口を開いた。


「三浦さん。果歩ってすごくいい子なんで、絶対幸せにしてあげてくださ……」

「ちょっ、ゆずあんたなに言ってんの!? 待っ、ちょ、こ、こっち来なさいよ!!」


 見る間に顔を赤くして慌てふためいた果歩が、私の腕を引っ掴む。

 ぽかんと口を開けたきり固まってしまった三浦さんを置き去りにしつつ、いつだったか同じことを鈴香に言われたっけ、と思い出した私は再び声をあげて笑った。



     *



「結婚もいいよなぁ」


 うっとりとした呟きに、私は胡乱な視線を返す。

 しかし、動じた素振りなんてさっぱり見せない沓澤課長は、今にも鼻歌を歌い出しそうなくらい上機嫌だ。ひと月前まで、付き合ってもいないのに別れる別れないでさんざん揉めた私たちだけれど、その辺りのことはすでに彼の記憶には残っていないのかもしれない。


 普段よりもラフな私服姿と眼鏡と、遊ばせた毛先。こうして眺めると、どう考えても私には釣り合わないほどに格好いい人だなと改めて思う。

 オンのときとはまた違って見える魅力に、交際開始から一ヶ月が経過した今でも、気を抜くと瞬く間に囚われそうになる。蜜月らしいときめきに流されかけた意識を引き留め、私は小さくぼやいた。


「……それはいくらなんでも早いんじゃないですか」

「いいじゃん。早いも遅いもそういうのってタイミングだろ、あと相性」


 土曜、午後。今日は午前中に外出デートと食事を済ませ、それから沓澤課長の自宅にお邪魔した。

 先ほど立ち寄った雑貨店で、お揃いのマグカップを購入した。彼が。

 私にも『このデザインでいいか』ときちんと確認してくれたから、特に異論はない。少し大きめの色違いのマグカップ――赤と青のそれに淹れたてのコーヒーを注ぐ沓澤課長は、なんとも嬉しそうだ。乙女なのかもしれない。


 私たちが正式に交際を始めたことは、沓澤社長にも伝えた。

 対面している間、終始にこにこ……否、にやにやと笑みを向けられ、それはもう筆舌に尽くしがたい居心地の悪さだった。思い出すだけでもつらい。

 そのときに結婚の話題が出てしまったから、きっと感化されたのだろう。沓澤課長は意外と影響を受けやすいタイプだ。付き合い始めてから知った。互いを深く知る機会がなかった分、今もなお新しい発見は珍しくない。


「……まだ、自信がないというか」

「自信? なんの?」

「いやその、結婚が嫌だと言いたいわけでは決してないのですが」


 眉を寄せて睨むように私を見つめる沓澤課長は、若干不機嫌そうだ。

 結婚そのものを拒んでいるのではないと、分かりやすくアクセントをつけて伝える。言葉が足りないせいで誤解が生じるなんて、繰り返すのは懲り懲りだ。


「私、普通の家の生まれですし。沓澤さんが、社長の家族として重責を感じてるときとか、ちゃんと力になれるかなって考えてしまって」

「えっ、そこまで考えてくれてんの? 今すぐ結婚するしかなくないか、それ」

「人の話を聞いてください」


 手を口元に添えて頬を染めた沓澤課長へ、ぴしゃりと言い放つ。

 聞いてるよ、とつまらなそうに呟いた彼は、淹れたてのコーヒーを注いだマグカップをテーブルへ置き、またも嬉しそうに顔を綻ばせている。よほどお揃いが嬉しいらしい。やっぱり乙女だ。


「うーん、心配ないと思うけど。あんたって本当に真面目だよな」

「それ、沓澤課長にだけは言われたくな……あっ」


 ……就業時間外に〝課長〟と呼ぶのはペナルティ扱い。交際を始めてから決めた約束が頭を掠め、私ははっと口元に手を当てた。

 沓澤課長の双眸がすっと細められるさまが、視界の端に映り込む。

 立ち上がった彼は、おもむろに私の隣へ腰を下ろした。物理的な距離を縮められ、こうした所作にいまだ慣れない私が慌てる様子を横目に、彼はゆっくりと私の耳に唇を寄せる。


「今日は最後まで言わないかなって思ってたのに、残念。お仕置きだな」


 耳たぶを食まれつつ囁かれた声は、どうしてか頭よりも腰に響いた。

 意図せず零れてしまった熱っぽい吐息を楽しげに聞きながら、彼は私の大腿に指を這わせる。フレアスカートの内側に入り込んでくる不埒な指が、タイツ越しとはいえ、敏感になった私の肌を容赦なく苛む。


「っ、ちょっと、待っ……」


 空気が急激に甘さを増したことだけは理解できた。

 この手の行為に慣れない私は、言葉で制止する以外に術を持たない。なにを言っても引いてもらえないだろうとは分かっている、でももう少し段階を追ってからこうした空気に辿り着いてほしいと思ってしまう。


 そんなことを考えているうちに、いつの間にか上体を押し倒されていた。

 唇と唇が重なる寸前、慌てた私はなんとか力を振り絞り、彼の筋肉質な腹部を緩く押し返す。


「あ、あの、前から思ってたんですけど。課……沓澤さん、こういうことに慣れすぎじゃないですか?」

「いや、別に普通だ」

「嘘!」

「嘘じゃない。俺はあんたに嘘なんかつかない、前にも言っただろ」


 触れ合う唇は、くすくすと笑う吐息が交じって擽ったい。

 何度か触れては離れてを繰り返した後、じゃれ合うような口づけは唐突に深いそれに変わる。


「ん、う……」

「コーヒー冷めちゃうな。まぁいいか」


 全然良くない、と叫びかけたものの、結局声にはならない。

 間を置かず再開されたキスに翻弄され、それきり、私は抗議の機会をまるごと見失ってしまった。



     *



「……コーヒー……」

「悪かったって。ちゃんと淹れ直すから機嫌直してくれ」


 ベッドの傍で満面の笑みを浮かべる彼を、恨みがましく見つめ返す。

 やはり手慣れている……いや、相手は私よりいくつも年上の大人の男性だ。その点に腹を立てるつもりは毛頭ないけれど、さすがにこの手際の良さには閉口せざるを得ない。


「まだ明るいうちから……こんなふしだらな……」

「そんなこと気にしちゃって。かーわいいなぁ」


 茶化すように囁いた声の主をキッと睨みつけると、彼は声をあげて笑い、ベッドから離れていく。

 怒らせたかと一瞬肝が冷えたものの、言葉通りコーヒーを淹れ直しにキッチンへ向かったのだとすぐに気づく。


 案の定、戻った彼の手には、例のマグカップがそれぞれ載っていた。

 室内に淡く広がるコーヒーの香りに、嫌気が差してくるほどの強烈な羞恥心が徐々にほぐれていく。とはいえ、身体を起こすのはまだ億劫で、私はぼんやりと視線をマグカップへ向ける。

 すると、控えめな苦笑いを零した沓澤課長が口を開いた。


「さっきの話の続き、してもいいか」

「……さっきの話?」

「結婚の話」


 サイドテーブルにマグカップを置いた沓澤課長は、ベッドに転がる私の傍へ歩み寄り、ぽんぽんと頭を撫でてくる。

 擽ったさに頬を緩めて笑うと、彼もまたつられたように笑った。


「ちゃんとコミュニケーションが取れてれば問題ないと思う。あと、それって普通のカップルとか夫婦とかと完全に同じ話だからな。言っとくけど」


 思いのほかまともな意見を口にされ、私はぐっと唸った。

 正論でまとめられるとは想像していなかった分、拗ねた子供のような声が口をついてしまう。


「う……そりゃそうですけど」

「俺はゆずがいい。それだけじゃ駄目か?」


 額を撫でていたはずの指に唇をなぞられ、私は反射的に息を詰める。

 ……この顔に弱いんだ、私は。蕩けるような微笑みにいつだって抗えない。その上、私以外の誰にも見せないだろう仕種で首を傾げられてしまっては、降伏以外の手段なんてもう残ってはいない。


「……いえ……」


 無理に絞り出したに等しい掠れきった声になった。

 それを聞いた沓澤課長が、満足そうに笑みを深める。そのまま、掠め取られるようにキスを落とされた。


 一度こうなれば、そこからは完全に彼のペースだ。そしてなにより困った点が、私自身がそれでいいと思ってしまうこと。

 それも、いつも同じ。

 思わず零れた笑い声に、沓澤課長は不思議そうに目を瞬かせた。けれど理由を尋ねてくることもなく、愛おしげに私の髪を梳き始める。


「まぁ結婚に関してはゆっくり考えてくれ。決めてくれるまで逃がさないけど」

「選択肢ひとつしかないじゃないですか、それ……」

「当たり前だ。あんたが思ってる以上に必死なんだ、俺は」


 こつんと額を重ねられ、とうとう堪えきれずに噴き出してしまう。

 絡められた指のぬくもりに酔い痴れ、甘い口づけを期待しながら、私はうっとりと目を閉じた。




〈了〉

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ビタースイート・ドロップ ~次期社長の甘い嘘~ 夏越リイユ|鞠坂小鞠 @komarisaka

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