《3》くつざわさんが

「……なんで場所、分かったんですか」


 いまだに通話越しに喋っている自分が間抜けだ。

 相手が目の前にいる状態で、それなのに通話はまだ繋がっている。肉声と通話音声、同じ人の声が二種類交ざり合い、不思議な感覚に溺れる。

 苛立ったような仕種で通話を切った沓澤課長が、ずかずかと歩み寄ってくる。無遠慮に思えた私はほんの少し身構え、けれどそんな素振りにさえ苛立ちを煽られたのか、目前に迫った彼はやはり無遠慮に私の腕を引っ掴んだ。


「救急車」

「は?」

「音。電話越しにも聞こえた」


 抑揚のない低い声を聞きながら、そういえばついさっき、救急車が忙しなく通りを走り抜けていったなと思い出す。

 ああ、と答える自分の声が、なぜか妙に遠く聞こえる。掴まれたきりの腕は熱く、そちらにばかり気を取られてしまう。別にそこまでぎっちり掴まなくても逃げないし、と思ったらうっかり口元が緩んだ。


「息、大丈夫ですか。ゼェゼェ言ってますけど」

「うるせえ」


 怒っているようにも拗ねているようにも聞こえ、緩んだ口元にとうとう笑い声が乗ってしまう。その瞬間、沓澤課長は空いた手で気恥ずかしそうに口元を覆い、「帰るぞ」とぽつり呟いた。


「え……と、どこに」


 目を合わせたがらないのは余裕がないからか。それは私だって同じだ……でも。

 顔を俯けてぼそぼそと喋る沓澤課長を、真正面からじっと見つめ続けていられる自分が信じられない。

 しかめ顔が微かに赤く染まって見えたのは、車道を走る車のテールランプが反射したせいだけでは、きっとない。


 並んで歩く。彼の足の動きに迷いは感じられなかった。焦っている感じだけはした。

 彼の自宅マンションは、職場から歩いて十分程度の場所にある。以前にも同じ場所を歩いた。社長から頼まれた書類をバッグへ突っ込み、地図アプリを起動させたスマートフォンから目を離さず、ときおり溜息を零し……あのときは精神的にかなりつらかった。

 何ヶ月も前に記憶した道と今歩いている道は、微妙に違う。ある一角までは同じルートだったが、そこから彼は別の道を抜けていく。


 細い道だ。多分、近道。

 見覚えのない道を引きずられるようにして歩き、ふと握られっぱなしの手に意識が向いた。

 こんな状態で誰が逃げるものか――そう思うのに、彼の指にこもった力は強まりこそしても緩みはしない。涼しいというよりは寒いと表現したほうが正しくなりつつある秋の夜道を辿りながら、絡まる指だけがひどく熱かった。


 結局、互いに一度も口を開かないまま、目的の場所へ到着してしまった。

 外階段を進む余裕のない足取りから想像はついたが、ドアの中に私を押し込める腕の力は強引だった。玄関に足を踏み入れるや否や、くるりと反転させられた私の身体は、面白いほど簡単に拘束されてしまう。


 明かりは点いていない。点ける気もないらしい。掴まれた手首が震え、それが合図だとでも言いたげに、沓澤課長は私へ顔を近づける。

 唇が今にも触れ合いそうなところまで迫られ、頬に吐息がかかる。目を逸らしたいのに、真正面からまっすぐ射抜かれた私にはとてもできない。

 薄暗い中で聞こえてくるのは、ふたり分の吐息と、壊れたのではないかと訝しくなるほどに激しく脈打つ自分の心臓音だけだ。


「……すっかり嫌われたもんだと思ってた」


 きつく拘束されているのにどこか遠慮がちな抱擁には、覚えがあった。

 木乃田からの帰り道、車の中――あの日も同じように触れられた。らしくないその仕種は鮮明に記憶に焼きついていて、私は思わず腕を伸ばして広い背に触れる。

 びくりと露骨に震えたそこへ、今度はもう片方の腕を伸ばし、抱き締めた。


「俺に会いたかったの?」


 こくりと頷いた。

 淡く笑う息が耳を掠める。同時に、あれほど枯渇しているように見えた余裕が戻ってきている印象を受け、恥ずかしさとともに安堵も覚える。


「いっつも同じ場所で働いてんのに?」


 再び頷くと、抱擁がきつくなった。首筋をなぞる彼の指は相変わらず熱い。さらに熱を上げている気すらした。その癖、どこかまだ遠慮が残っている。

 この人がなぞるのは、いつだって同じ場所だ。上塗りでもするように触れる。強い既視感が眩暈を生み、どこからどこまでが今実際に起きていることなのか意識ごと揺らぎそうになり、過ぎた酩酊感に頭が揺れる。


 ……雄平にはきちんと言えた。

 これまでは流されてばかりだった私自身の悪癖を、今なら脱ぎ捨てられる気がして、私は縋るように腕に力を込める。


「……私」

「ん?」

「私、自分が本当に思ってること、人に伝えるのが苦手なんです。でももう、それじゃ嫌だから」


 ひと息に言ってしまえ。

 言える。きっと、今なら。


「沓澤課長が好きです。私のこと、恋人役なんかじゃなくて、本当の恋人にしてほし……あっ!?」


 切なげに歪められた顔が一瞬見えた。それがすぐに見えなくなったことと、唇にやわらかな感触が走ったことを理解したのは、ほとんど同時だ。

 腰に回った片腕が私を抱き寄せる。遠慮がちな気配が完全に消え失せた強引な抱擁と、触れ合っているだけで今にも溶かされそうな熱を帯びたキスに、私はただ酔い痴れるしかできなくなる。


 初めてキスしたときは、なにかを考えている余裕などなかった。二度目のときは、不安からくる虚しさが際立っていた。

 それなのに今は――この恋が引き連れてくる甘さも苦さも知った今は、いつまでだってこの感触を味わっていたいと思う。貪欲にそう願ってしまうくらいに、私はこの人に溺れきっている。


「……なんで伝わんねえんだろって思ってた。馬鹿みたいだな」

「っ、そんなの、言ってもらわなきゃ分からないです……」


 相変わらず、可愛くない言い方ばかりしてしまう。それなのに沓澤課長は嬉しそうで、頬がますます熱くなる。

 唇と唇が触れ合ったまま続く会話のせいで、キスがもたらした酩酊感がさらに加速する。これまでにないほど近くから髪を撫でられ、肩がふるりと震えた。


「好きじゃない女にキスしたりキスマークつけたり、そんなことするわけない」

「……でも、男の人は別に気持ちがなくてもできるって、聞いたことあるし」

「なにそれ。誰情報?」

「果歩ですけど」

「はは。あんたの宮森さんへの信用ってマジでデカいよな」


 小さく笑う沓澤課長の吐息が頬を掠め、間を置かずにまた唇を寄せられる。

 今日二度目のキスは、一度目よりも甘く蕩けて感じられた。その感覚にあてられ、私は腕を彼の首に巻きつける。自分から身体を寄せた私を眺めて満足そうに笑った沓澤課長は、すぐにキスを深めた。


 息苦しさを覚えそうなそれに没頭する。していたいと思う。

 まだ実感がない。いまだに嘘が続いている気がしてならず、心許なかった。唇が離れた隙に、私はもう一度声を落とす。


「私、勘違いしちゃ駄目だって、ずっと必死で……そういうの、沓澤課長が一番嫌がると思って、だから」

「……勘違いしてくれよ、そこは」

「無理です。だって課長、そこで勘違いしなそうな女だと思ったから私を選んだんでしょう?」


 思いのほか恨みがましくなった私の声に、彼は気まずそうに目を逸らす。

 一応、私たちの関係のスタート地点が良からぬものだったという自覚はあるらしい。思わず口元が緩み、私はつい笑い声を漏らしてしまう。


 拗ねた顔をするこの人も、好きだ。

 オンもオフも関係なく、私はありのままの沓澤課長が好き。


「もう一回言ってくれ。さっきの」

「えっ? そ、そんなの言ってもらわなきゃ分からないです……?」

「違う、もっと前」

「っ、本当に自分が思ってること、人に伝えるのが苦手で……」

「戻りすぎだ。いいから早く言え、あんたは誰が好きなんだ?」


 拗ねた顔をしていたはずの彼は、いつの間にか意地悪そうに笑っていた。

 至近距離から悪戯っぽく覗き込まれ、急に悔しくなる。それでも、嬉しい気持ちのほうが遥かに勝っている。

 焦がれ続けてきた夢が現実になった。長い長い持久走をゴールした瞬間の、息苦しさと幸福感が綯い交ぜになった――そんな感覚がくまなく全身を巡る。


 この酩酊感に身を委ねているうちは、どんな気持ちもまっすぐに伝えられる気がした。


「沓澤、さんが、好きです……」


 答えの最後に被せ、再び唇を奪われる。それがわずかに離れたときに「うん」と満足そうに微笑まれ、痛むほど胸が高鳴った。

 深くなるキスの途中、ふと味わい慣れた独特の甘みを覚えた。

 柚子はちみつの飴の味だ。それが、ただでさえひどい酩酊感に揺れる私をより深くまで沈めていく。


「……私、まだ聞いてません」

「なにを」

「沓澤課長が誰を好きなのか、聞いてない」


 雰囲気にあてられた今しか聞ける機会はない気がした。

 いじけた声になったことを恥ずかしく思わなくもなかったが、目を見て問う。案の定、沓澤課長はぽかんと目を見開いたきり固まった。


「は? き、決まってんだろ、そんなの」

「駄目です、ちゃんと言って。私には言わせたのに」


 詰め寄りながら恨みがましく零すと、沓澤課長は派手に目を泳がせた。

 しかしその直後、彼は腹を決めたように表情を引き締める。熱っぽい視線を前に、けしかけた私のほうこそ罠へ落ちた気にさせられる。


「好きだ。多分あんたが思ってるよりずっと前から、あんたしか見てなかった。だから」


 ――だから、ゆずの全部、俺にちょうだい。


 鼓膜が蕩けそうなほどの甘い囁きに、今度こそ不安が霧散していく。

 返事をするために半端に開いた私の唇は、声を落とすよりも早く、沓澤課長のそれに塞がれてしまった。



     *



 私を抱えて室内を横断していくあなたの歩みは速い。

 自分で歩きます、と抗議の声をあげたものの、受け入れてはもらえなかった。「逃げられそうで怖い」と呟く声からはまたも余裕が削げている。


 いわゆるお姫さま抱っこと呼ばれる状態は、想像よりも遥かにバランスが取りにくかった。気を抜けばすぐにも床に落とされてしまいそうで、そわそわして落ち着かない。

 リビングを通り過ぎていく中でちらりと見えたテーブルの上には、見覚えのある飴缶が置かれていた。柚子はちみつ味のキスを思い出し、頬が熱くなる。


 ベッドの上に下ろされ、着ていた秋物のコートをあっさり剥ぎ取られた。間を置かず、あなたは私の上に圧しかかってくる。逃げ場のなさも、彼自身からひしひしと伝わってくる色濃い緊張も、どちらもひたすら心地好い。

 真上に迫る首へ腕を巻きつけ、私は自分から口づけをせがんだ。目を見開いたあなたは、けれどすぐに意地悪そうな顔で微笑み、早々に私から主導権を奪ってしまう。


「……へぇ。積極的」

「っ、だって」

「いいよ。もっと吸って」


 繰り返される口づけに没頭する時間は、長くも短くも感じた。

 寝室内にはその音だけが響き渡り、その頃になってようやく私は羞恥を覚える。う、と掠れた声を零すと、あなたは笑みを深めて私の首筋に指を伸ばしてくる。ブラウスのボタンにかかる指先の感触のせいで、私は一気に現実へ引き戻された。


「っ、あの……」

「喰われる覚悟でついてきたんじゃねえのか」

「違います! わ、私はむしろ追い返される覚悟で……」

「ふーん。そりゃ残念だったな」


 制止の声は完全にスルーされてしまった。

 はだけた鎖骨へ唇を寄せられ、切羽詰まったような声が漏れる。鎖骨に気を取られていると、大腿を緩く撫でられた。不意打ちに近いその行動に、喉が音を立てて鳴る。

 部屋に入ったとき彼が点けた常夜灯が、妙に鮮やかに目を焼く。オレンジ色の淡い光に照らされたあなたの瞳は、心なしか潤んで見える。


「……あの夜、抵抗されなかったらあのまま襲うつもりだった」


 あの夜、という言葉に全身が強張る。

 残業、キスマークの上塗り、大腿を這う長い指――思考が思考を呼び、鼓膜を蕩かす低い声や、耳たぶを食むやわらかな唇まで思い出してしまう。


 仕事中に、そんなことを考えていたなんて。

 背徳的であり、また倒錯的でもあるその考え方は、普段のあなたからひどく懸け離れている。


「……嘘」

「嘘じゃない。俺はあんたに嘘なんかつかない」

「っ、嘘です! そんなわけ……」

「試してんのかってあんな泣きそうな顔で訊かれて、すげえ焦ったんだぞ。もしかしてなんにも伝わってねえのかよって」


 頬に大きな手を添えられ、逸らしていた顔を無理やり正面に向き直される。

 今度こそ逃げ場はなかった。真っ赤に染まった顔をごまかせるはずもない。情熱的に揺らぐ瞳に囚われたきり、私はなにひとつ言葉を発せなくなる。


「もう待てない。好きなんだろ、俺のこと」

「……あ、う……」

「それから、ここは職場じゃない。『課長』って呼ぶのは禁止で」


 ……返事は求められていなかったらしい。

 苦し紛れにもう一度顔を逸らそうとしたけれど、結局、それよりも先に、私の唇は茹だるような熱に侵された彼のそれに塞がれてしまった。

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