《2》夜を駆け抜ける

 翌日、金曜。

 昼休憩中に沓澤課長から連絡が入った。


『話したい。予定は合わせる』


 用件のみの内容に、思わず声が出そうになった。

 昨日の今日ということを考えれば、三浦さんが沓澤課長に、給湯室での私とのやり取りについて伝えた可能性もある。そう思うとなおさら憂鬱だった。


 簡素な文言と、それを伝える無機質な文字――嬉しさと寂しさと緊張がごちゃごちゃに入り混じった気分だ。心臓が嫌な痛みを訴えて、返事は早いほうがいいという気持ちばかりが勝手に急ぐ。

 考えすぎればその分だけ返しにくくなると分かっていたから、『今夜なら』と返した。明日以降の休日に持ち越してしまいたくなかったし、週明けなんて待っていられない。


『分かった。仕事が終わったら連絡する』


 返事は早かったものの、またも簡素なメッセージが届いたのみだ。

 顔を合わせずに済むやり取りは、感情が表れにくくて助かる。メッセージを送信する指先をカタカタと震わせながら、心底そう思った。


 午後からも、平静を装って働けばいい。

 この一週間で、そういうことにはだいぶ慣れた。だから今日もきっと大丈夫だと、無理やり思い込んだ。



     *



 午後六時。連絡は、まだ来ない。

 午後、途中から沓澤課長は席にいなかった。彼のデスクを眺める限りでは、まだ帰社していないらしい。外せない用が入ったのかもしれないけれど、もやもやした気分になる。


 一旦帰り、連絡が来てからもう一度外出しようかと思う。残務も所用もないのにいつまでも職場に残っているのは、なかなかに居心地が悪い。

 ロッカールームで、沓澤課長に『一旦帰ります』とメッセージを入れる。少々待ってみた程度では既読表示は現れず、やはり忙しいのかもしれないと諦めた。でも。

 エントランスを抜け、外に一歩足を踏み出したところで、不意に背後から声がかかった。


「ゆず」


 ……期待していた声ではなかった。

 むしろ、できれば今後も私への接触を避けていてほしかった人の声だった。

 無視して去るわけにもいかず、私は憂鬱な気分で後ろへ向き直る。


「久しぶり。今帰り?」

「……うん」


 声の主は雄平だった。

 ぼうっとしていたせいか、「少し話せないか」と語る彼の声はどこか遠い。しかも言っている内容が沓澤課長のメッセージとものの見事に重なり、私は狐につままれたような気分になる。

 どこかに移動しよう、という話になっては堪らない。手短に済ませてほしいという願いが、直球で口をついて出た。


「ちょっとなら。ここでこのまま、いい?」


 問う自分の声は、我ながら警戒心に満ちた不穏なものだった。

 用件だけをかいつまんで話せと言わんばかりの、礼儀を欠いた私の態度に、雄平は一瞬怯んだ顔をした。

 それも仕方ない。付き合っていた頃、私は雄平に対してこれほど粗雑な反応を一度もしたことがなかったから。


 それでも雄平は頷いた。

 顔を上げた彼と目が合ってしまわないよう、私はわずかに目線を下げる。ネクタイの結び目辺りをぼうっと見つめていると、彼は意を決した様子で口を開いた。


「沓澤さんとの噂って本当だったの?」

「……別に。噂が勝手に広まっただけ」

「そうか。なら、俺とやり直してくれないかな」


 都合のいいことを言ってる自覚はある。

 けど、別れて初めて気づいた。

 やっぱり、俺は、ゆずが。


 ……相手は真面目に話しているのだと思う。けれど、私の耳にはひどく薄っぺらに聞こえ、頭を抱えそうになる。

 別れてもう半年あまりが経っているのに、どうして今頃。私と沓澤課長の噂を聞き、チャンスだとでも思ったのかもしれない。

 ふと、陰口を叩いていた男性社員たちが脳裏に蘇った。雄平自身が被害者顔をしているわけではないと分かっていても、彼らが雄平を〝かわいそう〟と評していたことを思い出し、無性に腹立たしくなる。


 あり得ない。

 私が滅入っているこのタイミングを狙っているとしか思えない、そういうところが。


 これ以上の失望は要らなかった。過去の話とはいえ、以前は恋心を向けていた相手だ。

 普通ならそこまでがっかりすることではない気もするのに、ここ一週間で溜め込んだ荒んだ気分が起爆剤になって、どんどん雄平を嫌いになっていきそうで、そんな自分にも嫌気が差す。今すぐこの会話を切り上げたくなり、私は震える指をきつく握って拳を作った。


 拳とは逆の手に収まっているスマートフォンへ、ちらりと視線を向ける。メッセージも電話も入っていない。私が本当に望んでいるものは届かない。

 気が滅入る。連絡を待っているだけ、しかもその癖にこんなところで元恋人と話しているだなんて。

 私の内心なんて知るはずもない雄平は、訴えかけるように話を続ける。


「だいたい、沓澤さんとゆずは合わないよ。社長の息子っていうだけで次の社長になることが決まってるとか、馬鹿らしいと思わないか? なにができるわけでもない癖に偉そうに……」

「やめて」

「え?」

「沓澤課長はそんな人じゃない」


 口が勝手に動いた。

 そんな私を、雄平は呆気に取られた顔で見つめていて、私は意識して相手をきつく睨みつける。


「想像だけで悪く言うの、やめて。沓澤課長がどんな仕事をしてるか、なにを考えてるか、どんなことで悩んでるか、どれくらいプレッシャーを抱えてるか、知ってる? なにも知らない癖に」


 怒っている。

 誰かのために。彼のために。


 ……なにやってるんだろう、私。

 怒りのせいで眩暈がする。今この場に沓澤課長がいるわけではないし、その彼をこんな形で庇ったところでどうなるものでもないのに、一度開いた口を閉じることはもうできない。


「私は雄平とはやり直せない。だって雄平は、私のどこが好きなの?」

「どこって、それは……」

「私のなにを知ってるの? 私と寄りを戻して、それでどうしたいの?」


 口を半端に開いたきり、声を出せなくなっている……雄平はそんな顔をしていた。

 対する自分はどんな顔をしているだろう。おそらく、この人に見せたことがない顔をして怒っているに違いなかった。


「……ゆずは変わったんだな。沓澤さんの影響?」


 雄平の口調から一向に消えない沓澤課長に対する嘲りが、ますます私の神経を逆撫でする。

 変わったってなに。私のなにを知っていて、それからどこが変わったのか、説明してみてよ――声を荒らげたくなる。

 けれど私だってきっと同じだ。この人のなにが好きだったか、今ではもう分からない。言葉にして言い表すことはできそうになく、愕然とする。


 私も上辺で恋をしていた。

 人の上辺を眺めて、自分も上辺で愛されたがって、それだけ。

 だから失望してしまう。今の雄平にも、自分自身にも。


「うん。そうかもしれない」

「っ、別に沓澤さんとは付き合ってないんだろ、じゃあなんで……っ」

「もうやめよう? 同じこと、繰り返したくない」


 私がどれほど傷ついたのか、雄平は今も分かっていない。だからまっすぐ目を見て言う。

 怯んだ様子が伝わってきて、まるで私こそが悪いことをしているような錯覚に陥りそうになって、それでも口を閉ざしたくはなかった。


「私は無理。雄平はなんの気なしに言ったのかもしれないけど、すっぴんがっていう話、面と向かって言われて、本当に傷ついた」

「っ、いや、あれは……」

「別れようって言ったことだって、私にとっては唐突でもなんでもなかった。あれより前から、キツいなって思うことたくさん言われてた。いちいち伝えなかっただけで、けど全部積み重なってて、それがあのときに崩れた。あの日が限界だったんだと思う」


 この人がなにも分かっていないのは、私が伝えなかったからだ。

 もう、繰り返したくない。


「ゆず、ごめん。俺、そこまでゆずが傷ついてるって知らなかった。これからは言わないし何度だって謝る、だから……」

「ごめん。あのときちゃんと伝えるべきだったのに、無駄に振り回しちゃった」

「ゆず……」

「謝ってもらっても駄目なの。私はもう」


 息を深く吸い込み、ひと息に告げる。


「沓澤課長が、好きだから」


 一瞬、傷ついた顔に見えた。

 わずかな沈黙の後、雄平は「分かった」と小さく呟き、そのまま背を向けて去っていってしまった。


 後には私だけが残った。

 冬にはまだ遠い季節のはずが、吹き抜けた風に身を切られるような寒さと痛みを覚えてしまう。心臓が早鐘を打っている。息も震えて荒くなっている。


 ここまで真っ向から他人と向き合ったのは久しぶりだ。

 表面のみでやり過ごすことが大半だった分、重みが違って感じられる。自分が吐き出した言葉の重みと、もっと良い言い方があったのではないかという不安。そのふたつのせいで頭の奥がどくどくと脈打って、ひどく煩わしい。


 もう一度、深く息をつく。


 ……帰ろう。家に着く頃には、呼吸の乱れも心臓の痛みも元に戻っているはずだ。いつもの私に、戻れるはず。

 そうしたら、自分から沓澤課長に連絡してみればいい。今度は自分から。

 今ならそれができそうな気がして、苛立ちが少しだけ和らいで、今度はなんだか無性に寂しくなった。


 映画やドラマなら、こういうタイミングで好きな人が迎えにきてくれるんだろう。けれど現実にはまずあり得ない。

 この期に及んで、まだ私は甘えている。沓澤課長が来てくれるんじゃないかなんて、甘ったるい夢ばかり見て、馬鹿みたいだ。


 ――今までなら、馬鹿みたいだと思って、それで終わりだった。


 足を踏み出す。目的地は決まっていた。自宅ではない。

 今踏み出さなければ、私はまた同じことを繰り返す。そうこうしているうちに、今度こそ本当に大事なものを失ってしまう気がしてならなかった。

 そして、一歩足を踏み出した、瞬間。


「……あ……?」


 ぶるぶると振動する感触が手のひらを伝い、ようやく、私は左手にスマートフォンを握り締めていたことを思い出した。振動は腕から全身へ伝わっていく。喉が勝手にこくりと動き、急いで画面を確認する。

 画面に表示されている名前を見て、目を見開いた。

 ドラマじみた展開が現実に起こっている。醒めきらない夢の中を漂っている気分にさせられ、それを強引に振りきり、私は通話ボタンをタップした。


「……はい」


 声を出したら、涙も一緒に出た。

 屋外にもかかわらず遠慮なく零れ落ちるそれは、発声の邪魔ばかりして、続く言葉はきちんとした音にはなってくれない。


『……那須野?』

「っ、ふ……」

『どうした? 今どこにいる?』


 焦りの滲む声と、バタンとドアの閉まる音が、ほぼ同時に耳へ届く。もしかしたら彼はまだ社内に残っているのかもしれないと、ぼうっとする頭で思う。

 声を聞いたら一気に気が抜けた。ぎりぎりの一線でなんとか保てていただけの緊張がぶつりと切れ、溜め込んでいた気持ちが声になって溢れる。


「……会いたい……」


 ……開口一番それだなんて、いくらなんでも。

 車道を忙しなく通り過ぎていく救急車の音が、途中から節を変えて聞こえ、場違いにも笑ってしまいそうになる。


 結局それがすべてだ。堪えに堪えた思いが、堰き止めきれなくなったそれが、奔流となって溢れ出す。それこそが私の本心であり、すべて。

 通話は途切れなかった。端末越しにバタバタと走っている音が聞こえる。端末を握る手が震え、これ以上立っていられる気がしなくなって、その場にしゃがみ込みそうになった――そのとき。


「那須野!」


 電話越しとは異なる確かな肉声が背後から聞こえ、反射的に振り返る。

 弾みでぼたりと涙が零れ、なのにそれに気を払う余裕はこれっぽっちもなかった。


「……あ……」


 距離はそれなりに開いているはずが、ゼェゼェと乱れた呼吸は妙に近くから聞こえてくる。

 睨むように私を見つめる沓澤課長と、目が合った。

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