第5章 恋するガール、駆け抜ける
《1》噂と嘘のその後
柚子はちみつ飴の味が、よく分からなくなった。
そもそもそんなに美味しかっただろうか。実際、元々特別にこれを好んでいたわけではない。好きかと尋ねられれば好きだと答えるけれど、あくまでもコレクションのうちのひとつというだけだった。最初は。
――あれから、一週間が経った。
別れたらしいよ、という噂が広まるのも早かった。始まってもいない他人の恋愛話について、またもあれこれと憶測を交わしては興奮気味に噂を垂れ流す人たちを、馬鹿みたいだと思う。
腫れ物に触れるような扱いは、思っていたより不愉快ではなかった。せいぜい鬱陶しい視線を向けられる程度だ。
例の女性社員たちや陰口を叩いていた男性社員たちとは、顔を合わせる機会自体がない。向こうから避けているのか、あるいは陰で私を嘲笑っているのか……関心を寄せる気にすらなれない。どうでも良かった。
荒んだ気分で、日々、漫然とその日の業務をこなすのみ。
だいたい、職場は仕事をするための場所で、私が巻き込まれた一連こそ異常だった。それなのに、やっとのことで取り戻した元の平穏な生活は、嘘かと思えるほどに味気ない。
沓澤課長は、新しい噂を耳にしただろうか。
決別からたった一週間で社内をくまなく巡った私たちの破局の噂は、早くも収束に向かっているらしい。浸透、収束、それぞれの速度を考えるなら、沓澤課長自身が直接噂に関与した可能性もゼロではなさそうだ。
とうとう愛想を尽かされたかなと思う。今となってはもう涙も出ない。ただただ、全身の至るところにヘドロじみた疲れが貼りついている。
そんな感覚が、べっとりと残っているだけ。
*
「那須野さん」
木曜、午前十時。
こっそりとフロアから抜け出した先の給湯室で、急須に指を伸ばしたそのとき、不意に背後から声がかかった。
ぎくりとして振り返ると、そこには三浦さんがいた。
給湯室の出入り口はドアや引き戸で遮られていないから、隠れることもできない。サボりがバレたかと肝を冷やして、私は咄嗟に「すみません」と呟いた。
対する三浦さんは、違う違う、と笑いながら手をひらひらと振っている。そしておもむろに背後の通路をきょろきょろと眺めた後、声のトーンをぐっと落とした。
「あのさ。ちょっとプライベートなこと、訊いてもいい?」
思わず眉が寄ってしまう。
三浦さんにその手の話題に踏み込まれたことは、今まで一度もなかった。私の顔を見た三浦さんはわずかに怯んだ素振りを見せつつも、意外にも彼は引かなかった。
空気を読むのが上手な人だと常々感じていた分、不快に感じるよりも先、よほどきちんと確認しておきたいことなのかもと思う。
急須に触れていた指を放し、私もまた彼へ向き直る。
沈黙をもって続きを促すと、三浦さんは意を決したように口を開いた。
「沓澤課長のことなんだけど。あの人と那須野さんって、別に付き合ってなかったんだろ?」
「……はい」
終わった話だと思ったら、わざわざ取り繕うのが億劫で仕方なくなった。
すべてイエスとノーで答えられる質問だったら気楽だなと思いながら、面倒そうに応じた私の声に、しかし三浦さんは想像とは異なる反応を寄越した。
「悪い、知ってる。あいつってマジで馬鹿だったんだな」
派手な舌打ちに物騒な言葉が続く。
ぽかんと目を見開いたきり、私はすっかり固まってしまう。
……聞き間違いだろうか。
あいつとか馬鹿とか、三浦さんが乱暴な言葉を使っているところを初めて見た。それに、沓澤課長は三浦さんの上司であり、先輩でもあるはずだ。
固まった私の傍へ歩み寄ってきた三浦さんは、シンクの横に放置していた急須に指を伸ばした。そのままお茶の支度を始める三浦さんの様子をぼんやりと眺めていた私は、ポットからお湯が注がれる音を聞き、ようやく我に返る。
お客様が見えたのかもしれない。客人用の茶碗を取り出そうとしたけれど、三浦さんは笑って首を横に振るばかりだ。
はいよ、と手渡されたマグカップを見つめたきり顔を上げられなくなる。
相当に困惑した顔を晒してしまっていたのだと思う。三浦さんは自分のカップに二番煎じのお茶を注ぎながら、穏やかに続ける。
「余計なお世話なのは分かってるんだけど。沓澤さんってさ、那須野さんにベタ惚れなんだよね。知らなかった?」
「私は……そういう係を頼まれただけです」
「それ、本気で言ってる?」
責める口調ではない。むしろ気遣いを感じた。
それでも、今の私はその話題にまともな返事ができる心理状態にはない。立ったままでマグカップを持ち直しては所在なく視線を彷徨わせる私へ、三浦さんは困ったように笑いかけた。
沓澤さん。三浦さんが使った親しげな呼称に、沓澤課長の声が蘇る。
『ちょっと困惑だよな』
出張を機に三浦さんと仲良くなった、という話を聞いたのはいつだったか。確か木乃田店に向かった帰り道だ。
デートのような休日を彼と一緒に過ごしてしまったあの日の、別れ際の遠慮がちな抱擁――そこまで考えが至ったところで、私は無理やり記憶の再生を止めた。今考えるべきことでは、ない。
鼻の奥がつんと痛む。
枯れきったと思っていた涙は、どうやらまだ残っていたらしい。
「普通はあんなのコロッと落ちても誰も責めないよ? 那須野さんはなんでそこまで頑ななの? 沓澤さんのこと、嫌い?」
「……私は」
「本当になにも言われてないの? 出張中に俺、『爆発しやがれこのハイスペック野郎が』って何回思ったか分かんないくらいなんだけどな。さんざん惚けといて、なのに付き合ってねえとか意味分かんねえよ」
瞼が潤み始めたタイミングでそんなことを言われ、つい笑いそうになる。
沓澤課長、三浦さんになにを喋ったんですか、それも出張中に。私には連絡一本入れてくれなかった癖に。
コロッと落ちたら、その瞬間に切り捨てられるかもしれない。
その不安は、いまだに私の心の底へべっとりと貼りついている。きっと他の人には分からない種類の不安だ。
この不安を取り除けるのはひとりだけ。それから、私自身が自分の悪癖と決別して、正しく前を向けるようにならなければ。
でも。
「沓澤課長は、変に勘違いしないタイプだろうと考えて私を選んだだけです」
「うっわ。マジでなんなんだよあいつ、落ち込む資格もねえんじゃんか……」
今日二度目の舌打ちは一度目よりも露骨だった。もしかしたら三浦さんは、沓澤課長にだけではなく私にも苛立っているのではないかと思えるほどに。
そのせいで、弁解するつもりはなかったのに、言い訳じみた言葉が口をついてしまう。
「あの。私、昔から、相手に察してほしいと思っちゃう癖があるんです。自分からはなにも伝えてないのに、なんで分かってくれないのって、でも」
「……ふーん。まぁそれもなんとなく分かるけど、それって多分、那須野さん以上に沓澤さんがそうだよ」
似た者同士かよ、と困った顔で笑う三浦さんの言葉に既視感を覚える。
電話越しに聞いた果歩の声と、今の三浦さんの声がぴたりと重なり、あまりの居心地の悪さに息が詰まる。
それに、なんとなく分かるってどういう意味だろう。私、そんなの晒してた覚えなんてない。果歩くらいにしか。
赤の他人にも見破られてしまうほど私が弱りきっているだけか、それともこの人と果歩も大概似た者同士ということか。
なにか言い返してやりたかったけれど、今にも瞼から零れ落ちそうになっている涙を堪えるだけで精一杯の私にはとてもできない。
「じゃあさ、那須野さんは沓澤さんのこと、どう思ってるの?」
「……私は」
「誰がどう見てもさっさとくっついておかしくない感じなのにな。全部はっきり言わねえあいつのせいじゃん、戻ったらぶん殴っとくわ」
「な……や、やめてください!」
握り拳を作って笑ってみせる三浦さんにつられて、私もつい笑ってしまう。
気遣い上手な人だ。こうやってわざと私を笑わせることで、デスクに戻りやすくしてくれているのかも……というのは、さすがに深読みのしすぎだろうか。
「あはは、冗談だよ。けど真面目な話、一度ちゃんと話し合ってみたほうがいい」
「……三浦さん」
「沓澤さん、隠してるつもりなんだろうけどあからさまに落ち込んでてさ。正直言うとちょっとウザいんだ」
「……ウザ、い……?」
「あっ、本人には言うなよ?」
焦りが滲んだ口調と態度を前に、思わず噴き出してしまう。
決まりが悪そうな顔で苦笑した三浦さんは、先に戻るようにと、首でフロアの方角を指し示している。使用済みの急須とマグカップをちらりと見やったけれど、首を横に振られてしまったために、私は甘えて先にその場を後にする。
「……三浦さん。あの、ありがとうございます」
「どういたしまして。ちゃんと話、してね」
急須とカップの件についてか、話を聞いてくれたことについてか、お礼の理由はあえて伝えなかった。それから、彼の返事へは曖昧に笑い返すだけに留める。
そのまま、私は踵を返して給湯室を後にした。
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