《6》傷ついてるのは

 午後からの仕事は、突然始まった頭痛のせいでさんざんだった。

 昼まではなんともなかったのに、三浦さんに咄嗟に告げた嘘の言い訳がそのまま実現してしまった。適当なことを言うものではないなとますます気分が塞ぐ。


 定時で早々に帰宅した。残務がいくらか残っていたけれど、明日以降にしようと割り切った。

 湯船に浸かるのさえ億劫で、入浴はシャワーで済ませた。湯を浴びたからか、頭痛は幾分か和らいでくれた。

 近頃は日中と夜間の気温差が激しい。ドライヤーで髪を乾かし、ちょうどそれが終わった頃、ローテーブルに置いておいたスマートフォンがぶるぶると振動し始めた。


 果歩だ。

 ドライヤーを置き、すぐに通話に応じる。


「もしもし?」

『あ、ゆず。急にごめんね、今電話って大丈夫?』

「うん。どうしたの、なにかあった?」


 なにかあったのは、そう訊いてほしいのは、自分のほうだ。

 途端に鼻の奥がつんと痛んで、私は慌てて通話に意識を集中させようとして、しかし続く果歩の言葉に意表を突かれてしまう。


『今日、体調悪かったんだって? 大丈夫?』

「え? だ、誰に訊いたの、そんなこと」

『三浦さんから。真っ青な顔してたって、すごく心配してたよ?』


 盲点だった。果歩と三浦さんに、プライベートで連絡を取り合うほどの繋がりがあったとは。

 けれどいわれてみれば、夏に開催された本社全体の納涼祭のとき、くじ引きで席がたまたま隣同士になっていた。宴会が終わる頃までふたりで話し込んでいた気もする。

 恋人と別れたばかりだった当時の果歩が、珍しく楽しげに男の人と話していることに、小さな驚きと安堵を覚えた記憶が確かに残っていた。図らずもぐるぐると脳裏を巡った記憶の数々は、果歩の穏やかな声に掻き消される。


『ねぇ、ゆず。なにかあったの?』

「……え?」

『なんかつらいこと、ひとりで抱えちゃってない?』


 つらいことを、ひとりで。

 そのひと言が優しすぎて、自然と涙が浮かんだ。


「果歩。あのね、私」


 ……吐き出すように口にした。

 今日陰口を叩かれているところに遭遇したことや、今まで果歩に伝えるのをためらい続けてきた総務課のふたりの女性社員のことも、とうとう口に乗せてしまう。


 途中から嗚咽交じりになった。それでも果歩は私を止めも咎めもせず、黙って話を聞いてくれていた。

 総務課のふたりの話にも、果歩は特別驚かなかった。『誰のことも恨みやすい人たちなの、私だってあの人たちとは仕事以外の話なんてしないよ』と告げる果歩の声には、ほんの少し呆れが滲んでいた。


『ねぇゆず。もしかしてそれ、あたしのこと気にして黙ってた?』

「っ、だって……」

『んもー! ゆずはもっと自分を大事にしなよ!』


 堪りかねたように叫ぶ果歩へ、ごめん、と咄嗟に返す。

 電話越しに露骨な溜息をついた果歩は、あのさ、と続ける。果歩が困っているときの声音だった。


『ゆずって案外打たれ弱いじゃん。その癖に人の心配ばっかりする。あたしはね、ゆずはそのままでいいんだと思う』

「……果歩」

『無理に強くならなくても傷つきやすくても、ゆずはゆずだよ。それでいいんだけど、自分の気持ちを押し殺してばっかりなのは駄目じゃない?』

「っ、でも」


 だって。でも。そればっかりだ。

 ぼたりと大粒の涙が落ちる。ルームウェアの膝を控えめに濡らしたそれが目に留まり、なんだか最近泣いてばかりだなと改めて思う。

 そうしたら、滑り落ちるようにして本音が零れた。


「私、沓澤課長のこと、好きなの」

『……ゆず』

「沓澤課長、優しくて、すぐ勘違いしそうになっちゃう。私、そういう勘違い、しなそうだから選ばれたってだけなのに」


 一度決壊した堤防は、本来の役目を果たせなくなる。

 後はぼろぼろに崩れ落ちていくのみだ。怒涛のごとく流れ出る本心に、歯止めをかけることなんてもうできない。


 どうして、もっと早く果歩に相談しなかったんだろう。

 誰にも相談せずにひとりで抱え続け、その結果がこれだ。まだ大丈夫、誰かに迷惑をかけられない、それを優先したために、大切な同期に――親友にこれほど心を砕かせてしまっている。


 喋っている途中で息が詰まったから、キッチンから水を持ってきて飲みながら喋り続けた。その間も、果歩は相槌を交えつつ、私が再び話し出すのを待ってくれた。


 残業の日にキスされ、試されているのかもと思ったこと。

 長期の出張について、本人からなにも教えてもらえなかったこと。

 木乃田店で偶然鉢合わせ、その後一緒に食事へ行ったこと。

 昨日の残業で、流されるまままた触られてしまったこと。


 ひと通り話し終え、ふうと息をつく。吐き出す前と吐き出した後では溜息の重みが違う気がして、泣き笑いしそうになった。

 そんな私を労るように、果歩が『あのね』と穏やかに切り出し始める。


『実はあたし、沓澤課長とゆずのこと、三浦さんからちょっと聞いてるの』

「……え?」

『三浦さんは怒ってたよ、沓澤課長に』


 ……怒る? なんで?

 三浦さんの怒った顔を想像してみたけれど、うまくいかなかった。今の私に思い浮かべられるのは、日中に階段の手前でぶつかったときに見かけた、あからさまに狼狽した顔だけだ。


『ふふ、意外だった? なんかね、見てるこっちが苛々してくるんだーって舌打ちしてた。沓澤課長、多分ゆずのこと、恋人役だなんてだいぶ前から思ってないよ』

「……でも」

『うん。ゆずからはなにも言えないの、分かるよ。好きならなおさら、それを言ったらぜーんぶ終わっちゃうかもって思ってるんでしょ?』


 思わずう、と口ごもる。

 果歩に対して頭が上がらないと思うのはこういうときだ。私があまり他人に見せたがらずにいる内面まで知っているから、良い意味で遠慮がない。取り繕っても仕方がないと早々に諦めざるを得ないほど、すべてお見通しなのだ。


『まぁ今回の件は、いろんなことをうやむやにしっぱなしの沓澤課長がダメダメっていうだけだと思うなぁ』

「べ、別にそんなこと……」

『はいはい。ゆずは沓澤課長のこと悪く言われるの、嫌なんだもんね』


 今度の〝お見通し〟は、少し癇に障った。

 反射的に、むう、とむくれた声が出てしまう。電話の向こうでは、果歩が笑って『ごめんごめん』と謝っていたけれど、大して悪いとは思っていなそうな声だった。


「はっきりさせるのが怖いから、私も避けてるってだけだし」

『なら、ゆずは今どう思ってる? 相手にアクションを起こしてほしい? どうしてそうしてくれないのって思ってる?』

「……それじゃ駄目だって分かってるけど、多分そうなんだと思う」


 淡々と答えているつもりではあったけれど、話す声は我ながら不機嫌そうだ。果歩が気を悪くするのではないかと普段なら真っ先に気に懸かるはずなのに、今は不思議とそう思わなかった。

 結局、果歩は私の不遜な態度に一切の不快感を示さないまま、『そっかぁ』とくすくす笑いを零した。


『だいたい分かった。なんていうか、ほんとに似た者同士だね、君たち』

「え?」


 似た者同士、という言葉が示す意味を捉えきれず、私は間の抜けた声をあげる。

 さらには果歩がすぐ『なんでもない』と撤回してしまったために、その詳細について尋ねることはできずじまいになった。


『まぁなんにせよ、明日も仕事なんだしさ。目の腫れは気にしなよ』

「あ……うん、そうだね。まだ鏡見てないけど、ひどいことになってそう」

『冷やせ冷やせ! あと、陰口叩いてた男どものことなんか気にしないでよね? 明日はいつもよりメイクバッチリにしてさ、ゆずがどれだけ可愛いか見せつけてやりな! ほーんとただの馬鹿だよ、そいつら!』


 笑ってうん、と返事をする。

 果歩が男の人だったなら果歩と付き合いたかったな、とは前にも思った。確か沓澤課長からの恋人役の提案を引き受けた直後だ。

 あれから数ヶ月が経った。いや、数ヶ月しか経っていない。それなのに、今の私は――私の気持ちが向かう先は、あの頃とは完全に違っている。


『明日から、また笑って仕事しよ? 待ってるから』

「うん。ありがと、果歩」


 ばいばい、と笑って通話を終える。溜息はもう出なかった。

 そう、明日も仕事だ。泣き顔を晒している場合ではない。特に、今日あれほど心配をかけてしまった三浦さんには、明日の朝こそは笑って挨拶したかった。


 まずは目を冷やそうと、私はタオルを取りに洗面所へ向かった。



     *



 翌朝。いつもより三十分早起きし、念入りにメイクを施す。

 目の腫れは完全には引ききらず、それを隠すために、目周りは特に丹念に塗り込んでいく。普段よりも暗色のアイシャドウをベースに選び、瞼には肌に馴染む淡いピンクを乗せ、自然な感じで赤みを和らげた。


 ……よし。これならきっと、腫れに気づく人はいない。

 沓澤課長とどう接すればいいのか、まだ考えはまとまっていない。ただ、仕事中にはなにを考える必要もないだろう。

 仕事のことだけ考えていればいい。それから、できる限り残業にならないように職務に集中しなければ。


 若干の緊張を抱えつつ、フロアへ足を踏み入れる。

 沓澤課長はすでに自席へ着いていて、その隣には三浦さんの姿もあった。


「おはようございます」

「おはようございまーす。那須野さん、昨日はあれから大丈夫だった?」

「はい。ご心配をおかけしてしまってすみませんでした」


 ぺこりと頭を下げると、三浦さんはほっとした顔を覗かせた。

 それとは対照的に、隣の沓澤課長の表情は厳しい。眉間に寄ったしわがはっきりと見え、私は思わず息を呑んだ。


「那須野さん。ちょっといいですか」

「っ、は、はい」

「話があります。プライベートな件ですので就業時間前に」


 頬が引きつった自覚はあった。三浦さんも、露骨に硬直している。

 口調こそ丁寧だけれど、視線と表情は不機嫌そうだ。同行を求められているのがプライベートな理由によるものだとわざわざ人前で言いきってまで、この人が私に伝えたいことはなんだ。強い困惑に染まった私の頭では、それ以上うまく考えられない。


 目を見開いたきりの三浦さんに呆然と見送られ、ほとんど引きずられる形で沓澤課長についていく。

 行き先は給湯室だった。雄平に言い寄られていたところを、不本意ながらもこの人に助けてもらった場所――せいぜい数ヶ月前のそのできごとが、遥か昔のことのように思えてくる。


「あの。用件はなんでしょうか」


 これほど不機嫌にさせること、私、なにかしただろうか。

 プライベートな件でとなれば、呼び出しの理由はきっとそう多くない。おとといの残業時、私の言動のなにかが気に入らなかったということかもしれなかった。


 こくりと喉が鳴る。その音のせいで、落ちた沈黙の深さがより際立つ。

 真正面から向かい合うのは避けたい。わずかに視線を落とし、ネクタイの結び目辺りをぼんやりと見つめていると、沓澤課長が静かに口を開いた。


「単刀直入に言う。婚約してほしい」


 一瞬、目の前が白く霞み、くらりと揺れた。

 その正体が眩暈だと思い至ったのは、一拍置いた後。


「……は……?」

「噂自体が『付き合ってる』なんていう生ぬるい状態だから、陰口とか嫌がらせとかつまんねえもん喰らうんだろ」

「……なんの話ですか」

「昨日自分がどんな顔してたか、分かってて言ってんのか」


 不機嫌な態度の理由に、ようやく気づく。

 その態度の中に私への心配が見え隠れしている気がして、つい視線を上げてしまう。うんざりしたような顔で私を見つめている沓澤課長と目が合って、息が震えた。


「なにかされたら言えって言っただろ、どれだけ心配したと思ってる。むしろなんで俺がなにも気づいてねえと思えんのか、不思議でしょうがねえよ」


 苛立った声だ。心配だというなら、どうしてそんなに怒っているのか――そう思ったら、彼のそれが連鎖したように苛立ちが腹の底を焼いた。

 実際に陰口を叩かれた現場を見られていたとは思えない。けれど、昨日私とぶつかった三浦さんがなにか勘づき、それを沓澤課長に伝えた可能性はある。果歩との通話に三浦さんが登場したことを不意に思い出し、にわかに信憑性が増していく。


「……別に私は大丈夫です」

「相変わらずヘッタクソな嘘ばっかりつきやがって。婚約すっ飛ばして結婚したっていいくらいなんだけど、俺は」


 突っぱねるような声で言い返すと、ますます苛立ちを煽る言葉が続く。

 堪らず、顔を上げて睨みつけた。けれど沓澤課長はまったく動じた気配を見せず、真っ向から見下ろされてしまう。

 素直に謝るのは癪だった。そもそもあなたが余計な提案をしてこなかったらそれで済んだ話で、それなら私があなたを好きになることもなかった。こんなに息苦しい恋なんか、知らずにいられた。


 それなのに、どうしてそんな言い方ばっかり。


「いい加減にしてください。私は同情されて結婚なんて、まっぴらです」


 思ったよりも低い声が出た。

 もっと叫ぶような声が出るかと思っていたのに、それとは真逆の冷えきった声が口から零れて、私こそ意表を突かれた気分だった。


「……同情?」

「だいたい、沓澤さんはどうして私に恋人役を頼んだんですか? もっとうまく話を合わせてくれる女の人はいくらだっていたはずです」


 怪訝そうに寄せられた眉が、最後に告げたひと言によってわずかにほどける。

 睨み合う視線を先に逸らしたのは沓澤課長だった。言葉を探す素振りを見せながらも、結局なにも言わず、彼は小さな溜息を落とす。


 なにか言ってよ。弁解してよ。

 どうして私に触れたのか、どうして婚約なんて突拍子もない話を切り出してきたのか、ちゃんと説明して。


 ――溜息なんか、つかないでよ。


 ぽきんと、心が折れた音がした。

 沈黙に耐えきれなくなり、私はとうとう彼に背を向ける。あの残業の夜と同じで、目を合わせていなければひと息に言いきれる気がした。


「前から言おうと思ってたんですが、そろそろ終わりにしてもらえませんか」

「っ、那須野」

「もう無理です。皆に嘘ついてるの、私、疲れました」


 いくら沓澤課長でもさすがに傷つくだろう。

 どちらも傷つくだけの言葉なんて、用件のみの手短なものでいい。これ以上、なにも伝える必要はない。


 そのまま、その場を後にした。

 追いかけてきてほしい、どうして追いかけてきてくれないの――そう思ってしまっている自分がいる。また同じことを思っている。他人を相手に、過去に何度も思ってきたそれを、私はまた繰り返している。


 終止符を打ったのは、自分なのに。


「……ふ……」


 そろそろ、この悪い癖、卒業しないと。

 微妙に的の外れた思考を巡らせながら、私は小走りに廊下を進んだ。

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