《5》ブレイクダウン

 沓澤課長が、職場で眼鏡をかけるようになった。


 それでなくても近頃は彼を直視できずにいたのに、ますます難易度が上がってしまった。

 木乃田店で鉢合わせした日にかけていた黒縁眼鏡とは違う、あれよりも縁が細い眼鏡だ。彼の端正な顔立ちに映えて、よく似合っている。就業時間中にそんなことばかり考えては我に返って、その都度自分をたしなめて……このところはその繰り返しだ。


 出張から戻って以降、沓澤課長は、以前にも増して管理的な業務を数多く抱えるようになった。

 部下のフォローや各々の残業管理、課内のみならず部内全体の課題の把握。そういうものに向き合う沓澤課長が遠い人になってしまった気がして、けれど次の瞬間には、最初から雲の上の人だったじゃないかと思う。


 複雑に揺れる私の心境を無視し、彼は私に接する。

 一時間もかからずに終わるだろう残業にも、ふたりで進めたほうが早いからと手を貸してくれる。〝業務量が増えてるから、今度上層部に事務スタッフの増員を申請してみる〟なんて、そんなことまで言い出す始末だ。


 困惑一色だ。私がもっと効率的に業務をこなせば、増員は必要ない。かといって、ならばすぐに効率を上げられるのかと問われれば簡単には頷けなかった。

 増員してもらえるなら素直に嬉しい。でも、沓澤課長とふたりで残業するという状況がなくなってしまうのかと思うと、胸が苦しくなる。

 不埒な理由で勝手に息苦しくなっている自分が馬鹿みたいだ。


「やっぱり多いな。新店舗関連の事務処理、ほとんど全部が那須野の負担になってる」


 溜息交じりにそう零す沓澤課長の声は、普段よりも少し低い。課題を眼前にしているときの声だ。はい、と返事をしながらも、頭は声ばかり追ってしまう。

 業務に集中できない自分が情けなくて、またそれを見破れない彼ではないだろうとも思う。ふたりきりという状況に感じる甘さと、不埒な自分を見破られるかもしれない不安。真逆の心境に揺れる私は、途端にどうしたらいいのか分からなくなる。


「よし、これで終わりだな。……どうした?」

「っ、なんでもないです。すみません」


 浮かれた気持ちと自分をたしなめる気持ちとがひしめき合う。バレるのは時間の問題だ。でも。

 キーボードの上で固まったきりの自分の指を無理に動かそうとした、そのときだった。

 重ねるように長い指がそこへ触れ、ぴしりと全身が強張る。露骨に震えた私の指に、沓澤課長が気づかないわけはなかった。息苦しさがいよいよひどくなっていく。


「っ、あの……」

「体調でも悪いのか?」

「そ、そんなことは」


 放してくださいと言いたいにもかかわらず、喉が詰まったように声を出せなくなる。

 どうしてこんなことをするのかと、今こそ毅然と尋ねるべきで、それなのにむしろ私は自分から指を絡めてしまいそうだ。

 指に触れていた彼の手が、不意に私の顔へ動いた。頬に伸びてきた長い指がほんのり冷たく感じられ、けれど間を置かず、自分の顔こそが茹だっているのだと気づかされる。


「熱、あるんじゃねえの?」

「……放してもらえたら、元に戻るかと」

「へぇ。那須野の顔が赤いのは俺のせいってこと?」


 しどろもどろに返した声へ、今度は悪戯めいた言い方で返される。

 例えば今、私が「セクハラですよ」と叫べば、その瞬間にすべてが終わる。終わってほしいことも終わってほしくないことも、全部。


 肩まで伸びた髪を掬われ、喉がこくりと動く。

 くすりと笑って吐息を落とす沓澤課長に、日中働いているときには一切感じ取れない艶を見出した。今この場にいるのは自分たちふたりだけ、それを改めて思い知らされる。


「……この辺だったっけ」


 節くれ立った長い指が、緩く首筋をなぞる。擽ったさに身をよじった途端、同じ場所に唇を寄せられた。

 この辺。過去に二度、キスマークをつけられた場所。

 甘えた声が出てしまわないよう、唇を噛み締めてその感触に耐える。ほどなくしてつきりと鈍い痛みが走り、唇はすぐに首から離れた。


 噛んでいた唇がほのかな安堵とともにほどけ、しかしまるでそのタイミングを狙っていたかのように、同じ場所を指でなぞられる。不意打ちに等しいその感触のせいで、私は思わず上擦った声を漏らしてしまう。

 にやりと口角を上げた彼は、見せつけるように眼鏡を外した。

 その指先に目が釘づけになる。あの指が私の首を辿った……そう思うだけで、再び妙な声を零しそうになる。


「俺の指、好き?」

「な、なに言って……っ」

「いっつも見てるよな。あとあんた、眼鏡も好きだろ。外さないほうがいいか?」

「っ、ご、ご自由にどうぞ!」


 指とか眼鏡とか、普通にバレてる。目が見えなくては仕事にならないのでは。お願いだから、耳の近くで喋らないで。ぐちゃぐちゃに混ざり合う思考のどれもが、口をついて出ることはなかった。

 ぱくぱくと口を動かす私は、さぞおかしな顔を晒しているに違いなかった。けれど自分ではどうにもできない。


 顔が熱い。早く離れてほしい。

 もう私を惑わさないで。今にも転げ落ちてしまいそうなのに。


「……可愛い。なにその顔」

「っ、沓澤課長が、変なこと言うから……っ」

「そんな顔してっと、もっと変なことするぞ?」


 耳に吐息を吹き込みながら囁く声に、私はまたも息を呑む。

 器用にチェアを滑らせて背中から私を抱きかかえた沓澤課長が次になにをしようとしているのか、想像がつかない。

 息を詰めていると、耳元でもう一度「可愛い」と囁かれた。そのまま身を固くしているしかできない私の、耳に唇が、太腿には指がかかる。


 ――瞬間、私の中のなにかがプツンと途切れた。


 声をあげる。

 耐えるための声ではなく、拒否するための声を。


「……楽しいですか。そうやって、私をもてあそんで」


 太腿に触れる指を払いのける。

 顔が見えないから言いきれた。正面からあの目で射抜かれながら同じことをされていたら、きっと私は自分からこの人に身を寄せていた。

 それだけは避けなければと思っていたことを、その一線を守りきれて良かったはずなのに、息苦しさは終わらない。


 頬を伝う水滴の感触に、自分が涙を零しているのだと思い至る。

 仕事中に泣いたのは、多分、今日が始めてだ。


「……那須野?」


 目を見開いたきり、今度は沓澤課長が硬直してしまっている。

 それ以上、顔は見ていられなかった。


「すみません、なんでもないです。帰りますね」


 震える手を無理に動かしたから、掴み取るような仕種になった。

 バッグを持ち直し、相手の顔を見てはならないと強く意識して、私は小走りにフロアを飛び出した。



     *



 嫌なことは立て続けにやってくる。

 これまでの経験上、だいたいそうだった。今回も早々に覚悟を決めておくべきだったのかもしれないけれど、弱りきった隙だらけの私には、まともな自衛なんてすぐには取れそうになかった。


 ……翌朝。

 メッセージの到着を知らせる点滅が煩わしくて、朝から端末を目にしていない。沓澤課長だったらどうしようと思う。同時に、それが他の誰かからだったとして、沓澤課長ではなかったからという理由で気分が沈むのも憂鬱だった。


 出社して、顔を合わせて、挨拶をして、職務にあたる。沓澤課長の顔は極力見ないよう努めた。

 話しかけられる隙を作ってはならないと、そればかりで頭をいっぱいにしてノートパソコンへ向かう。そんな状態だから、これまでにないほど大きなミスをしでかしていそうで怖かった。

 昼の休憩はひとりで過ごした。果歩から声をかけられていたものの、今日は断った。もし今、沓澤課長に関する話題を持ちかけられてしまったら、午後からまともに仕事ができなくなりそうな気がしていた。


 社内に留まっていたくなかったから外出した。

 そして戻ってすぐ、ロッカールームにバッグを置きに向かったとき、不意にその声は聞こえてきた。


「……ああ、営業の……那須野? だっけ?」

「そう、その子。小山と別れてすぐだったからさ、結構ビビった」

「スゲェよな。結局顔で選ぶんだな……ああ、顔だけってわけじゃないか」

「な、次期社長様だもんな。そりゃあ一般人じゃ敵わねえさ、小山もかわいそうになぁ」


 ……丸聞こえ、なんだけど。

 女子ロッカールームの傍。碌に潜められていない声で続く男性社員同士の会話が、ただでさえ疲弊しきった私の頭の中でぐるぐると渦を巻く。

 女性からの疎ましげな視線には、少しずつとはいえ耐性がついてきていた。けれど、まさか男性陣からもその手の悪意を向けられているなんて思いもしなかった。


 そうか。

 周囲から見たら、私は雄平を切り捨てた悪女か。


 立ち尽くしたきり動かずにいたのが悪かったらしい。男子ロッカールームから出てきたふたりの男性と、ばっちり目が合った。見るからに〝ヤバい〟と言いたげな顔を晒したふたりを背に、私は慌てて踵を返す。

 なにも言い返せそうになかった。言い返す勇気も気力も残っていない。ただ逃げたかった。その場に留まっていたくなかった。


 小走りに廊下を進み、階段の手前で誰かとぶつかる。

 すみません、と顔を上げた先にいたのは三浦さんだった。三浦さんは驚いたように目を見開いて私を見ていた。


「どうしたの、那須野さん? 顔色真っ青だよ?」

「す、すみません。前をよく見ていなくて」

「いや、俺はいいけど……体調でも悪いの? 大丈夫?」


『体調でも悪いのか?』


 三浦さんの声と前日の沓澤課長の声が無駄に重なる。

 また泣き出したくなって、もういい加減にしろと自分に毒づいた。

 嫌になる。こんなにも弱い自分を、今にも嫌いになってしまいそうだ。


「……大丈夫です。その、頭痛が……ちょっと」

「そ、そうなの? 無理しないほうがいいんじゃ……」

「本当に大丈夫です、これから薬を飲みますので。すみません、心配をおかけしてしまって」


 強引に口角を持ち上げて笑う。三浦さんはまだ納得いかなそうな顔をしていたけれど、無理しないでね、と思慮深そうに囁いただけだった。

 早々に背中を向け、私はフロアに戻った。

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